最澄も空海と同じ論文持ち帰り 幻の「三教不斉論」
大津市の石山寺で保管されていた「三教不斉論」の写本

空海が唐からもたらし、幻の論文とされる「三教不斉論」を最澄も持ち帰り、大津市の石山寺に写本が保管されていたことが、18日までに高野山大密教文化研究所(和歌山県)の調査で判明した。「三教不斉論」は儒教、道教、仏教の中で、仏教が最も優れているとする内容で、同研究所は「持ち帰るには筆写するしかなく、大変な作業。2人がともに仏教が最も優れるとする論文に興味を持っていたことが分かる」としている。
[ 2010年2月18日 (共同通信)
2010年03月16日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<両堂記>東大寺二月堂全焼時の様子、詳細に 奈良博で公開
「お水取り」で知られる東大寺(奈良市)修二会(しゅにえ)の練行衆(れんぎょうしゅう)(こもり僧)の日記「両堂記」(重要文化財)が、奈良国立博物館(奈良市登大路町)で6日から始まる特別陳列「お水取り」で初公開される。同博物館が発表した。舞台となる二月堂が江戸時代に全焼した時の様子が詳細に記されている。
お水取りは3月1~14日に行われ、今年で1259回目。二月堂は寛文7(1667)年の旧暦2月13日夜、法要が終わった後に火事で全焼した。焼け跡に十一面観音像が生きているように立っていたことなどが、別の日記から知られている。
両堂記には
「燃え残る火煙をかき分けると、大観音にはがれきが一つも当たっていなかった。人々が集まってきて奇瑞(きずい)に感涙する。秘仏であるので急ぎすだれで覆い隠した」「行法を(隣接する)法華堂でするべきだが、道具がないので宿所でひそかに行った」
などと書かれている。
同博物館の斎木涼子研究員は
「生々しい内容で、お水取りの歴史を考える上で興味深い」
と話している。陳列は3月14日まで。【花澤茂人】
[ 2010年2月6日 (毎日新聞)
お水取りは3月1~14日に行われ、今年で1259回目。二月堂は寛文7(1667)年の旧暦2月13日夜、法要が終わった後に火事で全焼した。焼け跡に十一面観音像が生きているように立っていたことなどが、別の日記から知られている。
両堂記には
「燃え残る火煙をかき分けると、大観音にはがれきが一つも当たっていなかった。人々が集まってきて奇瑞(きずい)に感涙する。秘仏であるので急ぎすだれで覆い隠した」「行法を(隣接する)法華堂でするべきだが、道具がないので宿所でひそかに行った」
などと書かれている。
同博物館の斎木涼子研究員は
「生々しい内容で、お水取りの歴史を考える上で興味深い」
と話している。陳列は3月14日まで。【花澤茂人】
[ 2010年2月6日 (毎日新聞)
2010年02月12日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<空海>唐から持参の文献「三教不齋論」写本を発見
空海が持ち帰った文献の目録を収めた図録。「三教不齋論」の記述がある(中央)=大津市で2010年1月22日、森園道子撮影

真言宗の開祖で知られる平安時代の弘法大師空海(774~835年)が中国・唐から持ち帰ったとされ、その後行方不明だった文献「三教不齋(さんごうふさい)論」の江戸時代末期の写本が、東京都立図書館所蔵の諸橋轍次(もろはし・てつじ)文庫にあるのを、藤井淳・高野山大学密教文化研究所委託研究員が確認した。空海が初期の著作「三教指帰(さんごうしいき)」で、仏教の重要性を説いた持論を裏付けたものとみられており、空海の研究に重要な発見となりそうだ。
空海は「三教指帰」を24歳の時に著し、儒教、道教、仏教を比較した中で仏教が最高とする主張を展開した。空海は804年に唐に渡り、806年に帰国。その際空海が持ち帰った膨大な文献などの目録で朝廷に提出した「請来目録」が残っており、「三教不齋論」もその中に記されていたが、現物が残っていないためこれまで内容はまったく分からなかった。
空海の思想を研究する藤井研究員は、儒教、道教、仏教の比較研究のための調査の過程で、諸橋轍次文庫にあるのを見つけた。縦25センチ、横16センチ、25ページで、文久元(1861)年に僧の良応が筆写したと書かれていた。内容も当時の唐の官僚が書いた比較思想論と判明。仏教は悟りを根本から求める点で優れているとしており、「三教指帰」と同様、仏教が最高の教えと結論づけていた。
藤井研究員は
「三教指帰で説いた『仏教が最高』という考えが、唐にもあったのを知った空海が、我が意を得たりと喜んで持ち帰ったのではないか」
と話している。【田原由紀雄、大森顕浩】
[ 2010年1月23日 (毎日新聞)
2010年02月03日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
「大黒の芝」記載、平城宮跡と認識の史料
1876年に作られた絵図(大和郡山市の柳沢文庫で)

奈良県大和郡山市城内町の柳沢文庫で、平城遷都1300年祭にちなんだ新春企画展「明治30年代~大正期の平城宮跡保存運動」が開かれている。
「大黒の芝」と呼ばれた宮跡の基壇跡について、1900年(明治33年)に県技師の関野貞が大極殿跡と確認したのが保存運動の始まりとされ、大正期までの保存運動に関する文書を公開している。
江戸末期の土地台帳には、「大黒殿」「大こくでん」などの地名が多数記載。第2次大極殿跡の大黒の芝が描かれている明治初期の1876年の絵図や、大黒の芝を村の共有地とした1878年の史料など計67点が展示されている。
藤本仁文・学芸員は
「当時の住民は芝地を平城宮の遺構と認識していたと思われる。共有して残すことが、後の保存運動の前提となった」
と話している。
このほか、100年前の平城遷都1200年に行われた記念祭の様子が書かれた日記や、1913年に東京で設立された「奈良大極殿址保存会」の設立趣意書なども出展されている。
3月21日まで。休館日は25日、2月1日、3月15日。入館料は一般200円、学生100円。70歳以上や中学生以下は無料。問い合わせは柳沢文庫(0743・58・2171)。
[ 2010年1月23日 (読売新聞)
2010年02月01日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<書道>平安中期の藤原佐理の書状を初公開 広島県福山市で
福山市に寄贈されることが決まった藤原佐理の「頭弁帖」(ふくやま書道美術館提供)

書道の大御所、三蹟(さんせき)の一人で平安時代中期に活躍した藤原佐理(ふじわらのすけまさ)の書状「頭弁帖(とうのべんじょう)」が今秋、広島県福山市で初公開される。佐理の真筆6点のうちの1点で、現在の所有者(非公表)から寄贈を受ける同市のふくやま書道美術館が、特別展を企画する。
同美術館によると、頭弁帖は縦31.1センチ、横48.7センチ。天皇に奏上した内容が届けられず、途中で握りつぶされたことを嘆き訴えたもので、誰にあてた手紙かは不明という。
佐理が最晩年の55歳、998(長徳4)年に京都で執筆したと推定される。連続する字を一筆で書き連ねる「連綿体」と単独の字で構成する書風は、青壮年期の力強く奔放な書風から、落ち着いた趣に変ぼうを遂げ、成熟を表すものとして評価されている。
佐理の真筆6点では「離洛帖」と「詩懐紙」が国宝として有名だが、頭弁帖は現行の文化財保護法制定前の旧法で国の重要美術品に指定。06年4月に現所有者から寄託を受けた同美術館が研究・調査を進めていた。
昨年2月に調査した東京国立博物館学芸研究部の島谷弘幸部長は
「流れるような書風と字の絶妙な空間配置に佐理ならではの美意識がうかがえる」
と評価している。【豊田将志】
[ 2010年1月19日 (毎日新聞)
2010年01月27日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
一遍作「踊念仏和讃」か、15世紀の写本
すべてを捨ててただ 南無阿弥陀仏 ( なむあみだぶつ ) と唱えよと説いた時宗の開祖・一遍(1239~89)が作ったとみられる「 踊念仏和讃 ( おどりねんぶつわさん ) 」が記された室町時代(15世紀ごろ)の写本が、大阪府河内長野市の真言宗御室派大本山金剛寺で見つかった。
一遍は、所持していた経典類を死去の前にほぼすべて焼いたとされ、著作は残されておらず、現存するのは後世の伝記や法語集などわずか。新史料が見つかることはないと考えられてきた。
落合俊典・国際仏教学大学院大学教授らが、2003年から本格的に実施している金剛寺の総合調査でわかった。
和讃は仏教讃歌の一種で、仏や 菩薩 ( ぼさつ ) などを褒めたたえた七五調の句であることが多い。節をつけて歌ったとされる。
木版刷りした法華経の裏面を半分に折って15枚を袋とじした冊子本で、縦26センチ、横20センチ。空也(903~72)や源信(942~1017)の教え、浄土宗の開祖・法然(1133~1212)の伝記とともに42首が記されていた。その末尾には「元亨二年(1322年)九月二十九日書写了」とあるが、落合教授は紙質などから約100年後の書写とみている。
「南無阿弥陀仏ト唱ウレハ 無上ノ功徳ソアラハルゝ」「 歓喜踊躍 ( かんぎゆやく ) ノ心ニテ ヲトレヤヲトレ小児トモ」などと七五調で、和讃の中でも極めてわかりやすい。「 円 ( まどか ) ノ一理ヲサトリツゝ カトタムレタル小児トモ」には、門の前の田に群れる子供たちの輪が、すなわち悟りの円だとの意味が込められているという。
落合教授は、「踊念仏和讃」が一遍の法語を後世にまとめた「播州法語集」に続けて記されている点、空也や源信、法然と、一遍が師とした高僧の記述がまとめられている点、当時、踊り念仏は異端視されており、ほかに作者が考えられない点などから、一遍作と判断。
「子供を対象にした和讃としては日本の仏教文学史上最も古い内容ではないか」
とみている。
[ 2010年1月9日(読売新聞)
2010年01月19日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<坂本龍馬>寺田屋事件後の足取り記録 奉行所の報告書発見
伏見奉行所から京都所司代へ出された「寺田屋事件」に関する報告書の写し(右から4~5行目に「坂本龍馬所持至款写取奉差上候」とある)=高知県立坂本龍馬記念館で2009年12月15日午前11時6分、千脇康平撮影

坂本龍馬が伏見奉行所に襲撃され重傷を負った「寺田屋事件」について、事件直後の龍馬の足取りを詳細に記した同奉行所の報告書の写しが見つかり、15日、高知県立坂本龍馬記念館が発表した。同事件に関しては、これまで龍馬の手紙などでしか伝わっていなかったが、幕府側の資料が見つかるのは珍しいという。
報告書は2通で、京都所司代にあてたもの。手負いの龍馬が薩摩藩邸に向かう途中、「村上町」(現在の京都市伏見区)にある「近江屋三郎兵衛」の「材木納家」に逃げ込んだと記載されており、特定されていない詳細な場所が分かる可能性があるという。材木納屋には血に染まった所持品を残していたとの記載もあった。
また、龍馬は逃げる際、寺田屋に書類を忘れており、報告書には「坂本龍馬所持至款写取奉差上候」(坂本龍馬が持っていた書類の写しを差し上げます)と記されていた。
報告書は京都土佐藩邸が集めた1854~66年の資料計574点の中から見つかった。資料を手放そうとしていた京都市の収集家から土佐歴史資料研究会のメンバーがいったん購入し、同県が今月買い取った。
資料を分析している土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長(46)は
「単なる回想ではなく、同時代の人が書いたもので臨場感があり、文章が躍っている。これからのドラマや本はもっと細かく描けるようになるだろう」
と話している。【千脇康平】
[ 2009年12月15日 (毎日新聞)
2009年12月22日 Posted by かるの at 21:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<小林一茶>俳句コンクールで選者 記載がある版木発見
小林一茶の名前が彫られている「発句合」の版木。写真中央に「一茶」の文字が見える=奈良市の大学で2009年12月8日、竹内紀臣撮影

「発句合(ほっくあわせ)」と呼ばれる江戸時代の俳句コンクールのチラシ作製に使った版木に、小林一茶(1763~1827)が選者を務めていたことを示す記載があることが分かった。版木を入手した永井一彰・奈良大教授(近世国文学)が8日、発表した。一茶が報酬を得られる選者になり、生活費を稼いでいた様子がうかがえる貴重な資料だという。
発句合は、参加者が点料(参加料)を納めて俳句を投稿、選者が点数を付けて上位者に景品が贈られた競技会。江戸時代に庶民の娯楽として親しまれた。
版木は永井教授が今春、京都市の古美術商から購入した。7人の選者の最後に「一茶」と記されていた。景品として記されている書物の刊行年などから、文政3~10(1820~27)年の間に作られたチラシとみられる。
点料は38文で、現代の貨幣に換算すると1100円程度。1万2000句を募集しており、全収入の半分程度が選者の収入になったとみられるという。
永井教授は
「チラシの版木は一度印刷すれば不要になるため、残っていること自体が異例。点料はこの時代の俳人にとって大事な収入源で、一茶も例に漏れず選者を務めていたのだろう」
と話している。【花澤茂人】
[ 2009年12月8日 (毎日新聞)
2009年12月17日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
江戸の宗教書、北京で発見 重文級の「金言集」
安土桃山から江戸時代初期にかけて布教などの目的で印刷された「キリシタン版」と呼ばれる書籍の一つで、長崎で刊行された宗教書「金言集」が北京の国家図書館に保管されていることが14日、東京都の古書店・雄松堂の調査で分かった。
写真鑑定した上智学院理事長の高祖敏明・上智大教授は
「発見は絶望的と言われていた文献で希少だ。重要文化財級の価値がある」
としており、宗教史、外交史解明に前進をもたらす貴重な発見。
[ 2009年11月14日(共同通信)
2009年11月29日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<直江兼続>1行ごと裁断 こより状で会津の武将あて密書
「古典籍展観大入札会」に出品される直江兼続書状=2009年11月12日午後3時35分、佐々本浩材撮影

戦国の武将・上杉景勝の重臣、直江兼続(かねつぐ)(1560~1619)が会津の武将にあてた密書が見つかり、12日、東京都内で報道陣に公開された。
関ケ原の戦いの直前に徳川家康に送り兼続の名を高めた「直江状」は後世の写しがあるだけで、今回のような
「書状の原本は非常に珍しい」(増田孝愛知文教大教授=書跡史学)
という。敵の目を欺こうと書状を裁断、こより状にして届けたことでも注目される。
書状は1584(天正12)年4月13日付。本能寺の変の2年後で、兼続は執政として、越後(新潟県)の春日山城を拠点に上杉家の勢力拡大を指揮していた。
書状の中で兼続は、上杉家の元家臣で謀反を起こした屋代秀正が城を出て行方不明との情報を会津・葦名家家臣に知らせたうえで、「治安を一層厳重にされたい」と求めた。屋代はのちに徳川家康の臣下となっている。書状はまた、主君の景勝が新発田(しばた)重家を討伐のため近く出陣することを明かし、
「よろしく加勢を頼みたい」
と要請している。
密書は装丁され掛け軸の形で保存されてきたが、もともとは1行ごとに切断され、こより状にして送ったと考えられる。増田教授は
「武将の密書は多いが、このように切り刻んだものを見たのは初めて」
と話す。
直江兼続書状は13、14日に千代田区の東京古書会館で開く「古典籍展観大入札会」で一般公開され、15、16日のいずれかで入札が行われた。【佐々本浩材】
[ 2009年11月13日(毎日新聞)
2009年11月28日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(2) │TrackBack(0) │歴史史料
幕末~明治の外国人執筆した挿絵集め刊行
幕末から明治にかけて、外国人が執筆した日本旅行記や研究書に掲載されていた挿絵ばかりを抜き出した「海外日本像集成」2冊が国際日本文化研究センター(京都市西京区)から刊行された。
オリジナルの挿絵だけでなく、当時の日本の絵画を複製したケースも多い。中には出所不明の“謎”の図像も含まれている。(森恭彦)
第1冊は米ペリー艦隊が2度目に来航した1854年から70年まで、第2冊は71~77年に刊行された本の挿絵を、計約9700点掲載している。
文字資料と切り離して挿絵だけに注目したのは、
「文字では表せない外国人の日本イメージが込められているから」
と白幡洋三郎・日文研教授は説明する。
天皇、将軍から庶民まで、様々な階層、職業の日本人の姿、食事や子どもの遊びなど、当時の日常生活も活写している。富士山をはじめとする、いかにも日本らしい風景、動植物にも目を向けた。
本に合わせて作成された挿絵のほか、「江戸名所図会」など、既存の日本の絵画や写真を基にした複製もある。その場合も部分的に描き変えたり、複数の素材を合わせて1点にしたりするなど、あくまで外国人の目を通した日本像になっている。
一方、アンベール著「幕末日本図絵」(70年)に掲載されていた「 猪 ( いのしし ) と 兎 ( うさぎ ) 」「修道女の習作」「位の高い僧」は、何を写したのか不明と白幡教授はいう。
動物が人間のように着物を着て描かれていて、京都国立博物館の水谷亜希研究員によれば、 御伽 ( おとぎ ) 草子の絵巻・絵本「十二類絵巻」「 鼠 ( ねずみ ) の草子」「鼠草子絵巻」に似た図がある。しかし、ピタリ一致するものが見当たらず、「今後の調査を待ちたい」という。
非売品。府立図書館、市中央図書館などで閲覧できる。
[ 2009年11月8日(読売新聞)
2009年11月20日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
源氏物語“続編”見つかる 「巣守帖」写本の一部か
源氏物語の続編とされる「巣守帖」の写本の一部とみられる文書(池田和臣中央大教授提供)

源氏物語の全54帖のほかに、古い注釈書や古系図などに巻名が記載されている「巣守帖」の写本の一部とみられる文書が残されていたことが、中央大文学部の池田和臣教授(中古文学)の調査で2日までに分かった。
紫式部の死後、別人が書いたとみられる。「巣守帖」は光源氏の死後の物語「宇治十帖」の続編とされる。鎌倉時代以降に源氏物語の登場人物を紹介した古系図に「巣守」の記載がある。
[ 2009年11月2日 (共同通信)
2009年11月10日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<毛利元就>重臣にあてた手紙発見 貪欲に勢力拡大
戦国時代の武将、毛利元就(1497~1571)が重臣に出したとみられる手紙1通が静岡県内の個人宅で見つかった。毛利氏が戦国大名に成長する過渡期の史料で、実態が分かっていない家臣の名も登場することから、研究者は「元就研究や地方史にとり貴重な史料」としている。
手紙は縦28.5センチ、横44センチの和紙に書かれ、毛利家家臣の子孫の遺品の中から見つかった。解読した鴨川達夫・東京大史料編纂(へんさん)所准教授(戦国時代史)によると、内容や言葉遣いなどから元就が右筆(ゆうひつ)に書かせたものとみられる。花押(署名の下に書く印)を左側にずらして書く元就独特の特徴も見られるという。
元就の重臣で女婿の宍戸隆家あてで、元就が備後国涌喜(ゆき)村(現広島県庄原市)の小豪族、涌喜氏に「お墨付き」を与えることを涌喜氏に伝えるように隆家に指示する内容。天文22(1553)年12月14日に書かれたものと思われる。
これまで史料などで宍戸家では涌喜氏を自らの傘下に入れることを求めていたが、元就は拒否し、涌喜氏と直接主従関係を結ぼうとしていたことが分かっていた。今回発見の手紙により、涌喜氏側が元就に地位や領地の保全を求めていたことや、元就がそれを受け入れたことが判明。また、実態がほとんど分かっていなかった涌喜氏が元就にとって重要な家臣だったことが確認された。
毛利氏は2年後、戦国武将の陶晴賢(すえはるかた)を厳島の戦いで破り、一大勢力に成長。鴨川准教授は
「当時の元就が貪欲(どんよく)に勢力を拡大していた様子がよく分かる」
と話している。【栗原俊雄、棚部秀行】
[ 2009年10月30日 (毎日新聞)
2009年11月10日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
直江兼続は天皇の倍額を寄付 北野天満宮の屋根修理
安土桃山時代から江戸時代初期の武将直江兼続が、学問の神様、菅原道真を祭った北野天満宮の屋根修理費として、天皇の寄付額の倍に当たる米100石を寄付したことを示す古文書が同天満宮に残っていたことが24日、分かった。
記載された人の中では最高額で、鑑定した藤井譲治京都大教授(日本近世史)は
「学問に秀でた兼続が、天満宮を支援したのでは」
と推測。兼続の“太っ腹”ぶりを示す史料として注目されそうだ。
[ 2009年10月24日 (共同通信)
2009年11月08日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
富士の宝永噴火、噴煙の高さ20kmにも
1707年に起きた富士山の宝永噴火は、噴煙の高さが約20キロ・メートルに達し、最大級の激しさをもつプリニー式の爆発だったことが、静岡大が古文書の記録を基に再現したコンピューター画像で明らかになった。
これまでの地質学的な推定では、噴煙の高さが約15キロ・メートルで、1段階下の「準プリニー式」噴火だと考えられていた。
神奈川県小田原市で開催中の日本火山学会で10日、発表された。
静岡大防災総合センターの小山真人教授らは、記述の信頼性が高い山梨県市川三郷町、長野県下條村、名古屋市の古文書を選び、伝えられている噴煙の様子を分析した。これを、各地点から富士山の方角を見た立体画像に上書きした。
この3地点は、地形の影響で富士山が見えず、噴煙は最低でも8キロ・メートルに達しないと見えない。噴煙が「天のなかばに立ち上る」(市川三郷町)などとする古文書の表現から、宝永噴火の噴煙は高度約20キロ・メートルと判明した。
火山の噴煙は、エネルギーを短時間で解放する激しい噴火ほど高く上る。小山教授は
「過去の国内の噴火で有数の爆発だったことが確かめられた。災害予測も、見直しの必要があるかもしれない」
と話している。
これまでの地質学的な推定では、噴煙の高さが約15キロ・メートルで、1段階下の「準プリニー式」噴火だと考えられていた。
神奈川県小田原市で開催中の日本火山学会で10日、発表された。
静岡大防災総合センターの小山真人教授らは、記述の信頼性が高い山梨県市川三郷町、長野県下條村、名古屋市の古文書を選び、伝えられている噴煙の様子を分析した。これを、各地点から富士山の方角を見た立体画像に上書きした。
この3地点は、地形の影響で富士山が見えず、噴煙は最低でも8キロ・メートルに達しないと見えない。噴煙が「天のなかばに立ち上る」(市川三郷町)などとする古文書の表現から、宝永噴火の噴煙は高度約20キロ・メートルと判明した。
火山の噴煙は、エネルギーを短時間で解放する激しい噴火ほど高く上る。小山教授は
「過去の国内の噴火で有数の爆発だったことが確かめられた。災害予測も、見直しの必要があるかもしれない」
と話している。
[ 2009年10月11日 (読売新聞)
2009年10月24日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
坊所鍋島家資料から貴重な古写本『伊勢物語』が発見
このたび、平安時代の歌物語である『伊勢物語』の内容を伝える唯一の伝存本に極めて近い本文をもつ古写本が、国文学研究資料館の調査チームにより、佐賀県立図書館所蔵の坊所鍋島家資料の中から見つかりました。
新しく見つかったこの資料は、『伊勢物語』の古本系統の伝肖柏筆本(でんしょうはくひつぼん)を明らかにする貴重な古写本であり、古典籍の研究において非常に重要な発見となります。
なお、この資料は、国文学研究資料館監修のもと、原寸カラーの複製本として刊行されています。
1 「伊勢物語 坊所鍋島家本」について
「伊勢物語」の主人公は六歌仙の一人である在原業平(ありわらのなりひら)とされ、平安時代を代表する歌物語です。新しく発見されたこの古写本はこれまで唯一の古本であった伝肖柏筆本に類例を加えるものです。本文には朱書による句読点や四点の濁点が用いられ、国語史研究にも寄与するものと考えられます。
(注)伝肖柏筆本:肖柏という人物によって書かれたと言い伝えられている本
2 発見の経緯と今後について
佐賀県立図書館所蔵の古典籍調査は、佐賀藩の文事・古典研究の第一人者である井上敏幸(いのうえとしゆき)氏(佐賀大学名誉教授)が提唱されました。これを受け、平成20年秋、井上氏をはじめ国文学研究資料館の調査チームによって行われた予備調査で発見されました。
なお、この予備調査の折、さらに多くの稀覯本(きこうぼん)の存在も指摘されており、今後、引き続き、調査が行われる予定です。
3 刊行された書籍「伊勢物語 坊所鍋島家本」について
・書名:伊勢物語 坊所鍋島家本(ぼうじょなべしまけぼん)
・監修:国文学研究資料館(解説:田村 隆氏)
・発行所:勉誠出版 株式会社
・刊行日:平成21年8月
・定価:15,750円(本体15,000円)
・サイズ・頁数:四六倍判変形 170頁
新しく見つかったこの資料は、『伊勢物語』の古本系統の伝肖柏筆本(でんしょうはくひつぼん)を明らかにする貴重な古写本であり、古典籍の研究において非常に重要な発見となります。
なお、この資料は、国文学研究資料館監修のもと、原寸カラーの複製本として刊行されています。
1 「伊勢物語 坊所鍋島家本」について
「伊勢物語」の主人公は六歌仙の一人である在原業平(ありわらのなりひら)とされ、平安時代を代表する歌物語です。新しく発見されたこの古写本はこれまで唯一の古本であった伝肖柏筆本に類例を加えるものです。本文には朱書による句読点や四点の濁点が用いられ、国語史研究にも寄与するものと考えられます。
(注)伝肖柏筆本:肖柏という人物によって書かれたと言い伝えられている本
2 発見の経緯と今後について
佐賀県立図書館所蔵の古典籍調査は、佐賀藩の文事・古典研究の第一人者である井上敏幸(いのうえとしゆき)氏(佐賀大学名誉教授)が提唱されました。これを受け、平成20年秋、井上氏をはじめ国文学研究資料館の調査チームによって行われた予備調査で発見されました。
なお、この予備調査の折、さらに多くの稀覯本(きこうぼん)の存在も指摘されており、今後、引き続き、調査が行われる予定です。
3 刊行された書籍「伊勢物語 坊所鍋島家本」について
・書名:伊勢物語 坊所鍋島家本(ぼうじょなべしまけぼん)
・監修:国文学研究資料館(解説:田村 隆氏)
・発行所:勉誠出版 株式会社
・刊行日:平成21年8月
・定価:15,750円(本体15,000円)
・サイズ・頁数:四六倍判変形 170頁
[ 2009年9月9日 (News2u.net)
2009年09月26日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
秀吉の聚楽第屏風を発見 新潟・上越市で
「御所参内・聚楽第行幸図屏風」の右隻(新潟県上越市立総合博物館提供)

豊臣秀吉が関白公邸として京都に築いた聚楽第に向かう後陽成天皇の行列と、天皇を迎えに行く秀吉の行列を描いた「御所参内・聚楽第行幸図屏風」が、新潟県上越市で発見された。同市の総合博物館で12日から10月4日まで一般公開される。
同博物館によると、屏風は高さ約1・5メートル、横約3・6メートルの一対で、秀吉の死の直後の作品とみられる。聚楽第行幸を知る上で歴史的に貴重な資料だという。
[ 2009年9月11日 (共同通信)
2009年09月16日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
江戸初期の宗教書を発見 「ひですの経」、米国で
江戸時代初期の宗教書「キリシタン版」の一つで、長崎で印刷された「ひですの経」が米ハーバード大の図書館に保管されていることが2日、日本大商学部の折井善果講師の調査で分かった。15日発売の月刊誌「日本古書通信」で発表する。
米国で同書を確認した豊島正之東京外大教授(中世日本語文献学)は
「印刷上の多くの新たな知見があり、宗教史などの研究に進展をもたらす」
と高く評価。
[ 2009年9月2日 (共同通信)
2009年09月15日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
軍服姿の人形遣い…戦時下の文楽写真600枚
上海事変の武勇伝を下敷きにした「三勇士名誉肉弾」の一場面

1945年に大阪大空襲で焼失した人形浄瑠璃文楽の殿堂・四ツ橋文楽座(大阪市)の、戦前の舞台の様子を収めた写真約600枚が見つかった。
当時の宣伝部員が個人的に保管していた品で、ヘルメット、軍服姿の人形を遣う様子などが写されていた。
奈良県天理市の無職、中村知也さん(70)が、34年から43年まで同劇場に勤め、6年前に亡くなった父・利雄さんの遺品を整理していたところ、箱に入った大量の写真を見つけ、近江昌司・天理大名誉教授(日本史)に調査を依頼した。
キャビネ判で、宣伝用の素材としてプロのカメラマンが撮影したらしい。30年に開場した同劇場では、戦意発揚を目的とした軍国物が度々上演され、写真の中には出征風景や銃を手に整列する兵隊たち、上海事変時に爆弾を詰めた筒を抱えて突撃したとされる3人の兵士を題材にした「三勇士名誉肉弾」(32年初演)など、新作の一場面も目立つ。
このほか、人形遣いの三世吉田文五郎(後の難波掾)、吉田栄三、二世桐竹紋十郎ら、昭和の文楽を代表する名人たちの共演シーンや、写真家の入江泰吉さんが撮影した約30点もあった。
近江名誉教授は
「古典芸能にまで戦争が影を落とし、国策が浸透していたことを示す資料。公共施設で整理、保存し、一般公開すべきだ」
と話している。
戦前の人形の首や衣装、文献類の多くは空襲で焼けて残っていない。知也さんは
「貴重な写真が手元でうずもれるのは惜しい。資料館などに寄贈し、研究に役立ててほしい」
と望んでいる。
[ 2009年8月17日 (読売新聞)
2009年08月27日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
唐代の重文級漢字字書「玉篇」、写本発見
約80年ぶりに見つかった「玉篇」第9巻の写本の断簡(京都国立博物館で)

京都の旧家が所蔵し、行方不明になっていた中国の漢字字書「 玉篇 ( ぎょくへん ) 」の写本(7~8世紀)の一部が約80年ぶりに見つかったと、京都国立博物館が13日、発表した。
博物館で14日から始まる「シルクロード」展に出品される。
玉篇は543年に完成し、全30巻で1万6917字を収録したという。日本には唐代などの写本が伝わり、現存する数巻は国宝や重文の指定を受けている。
見つかったのは第9巻の断簡で、約60の漢字を部首別に分類し、意味や用法を説明している。現在は個人蔵で、調査した同博物館学芸部の赤尾栄慶副部長は「重文級」と話している。
[ 2009年7月13日 (読売新聞)

