国内最古、馬の乳歯「河内馬飼」の実態示す


 蔀屋北遺跡で出土した馬の歯。乳歯が残っている

 大阪府四條畷市の 蔀屋 ( しとみや ) 北遺跡で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、府教委の調査で出土した。

 2~2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。同遺跡は「日本書紀」に「 河内馬飼 ( かわちのうまかい ) 」と記された集団が、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。

 出土した1頭分には歯が24本残り、このうち、乳歯は12本で、最大で幅2センチ、長さ1センチ。永久歯の長さ(8センチ)から推定した年齢などから、ハミ(馬具)をつけて乗馬訓練を始める直前だったとみられる。

 同遺跡と周辺では、これまでに馬の骨や歯計約500点や馬具などが出土したが、若い馬は確認されていなかった。

 3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。日本での本格的な馬の飼育は、府東部で始まり、各地に広まったとみられ、松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は
 「乳歯はもろく、遺跡からの出土は珍しい。河内馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」
と話している。


[ 2010年3月6日 (読売新聞)
  

2010年03月20日 Posted by かるの at 21:18Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

古墳石室の天井石「最後の一枚」民家の庭石に


 民家の庭石になっていた、石室の天井石

  百舌鳥 ( もず ) ・古市古墳群に築かれた最初の大王墓とされる、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(4世紀後半)にある竪穴式石室の天井石とみられる石材が、古墳近くの民家の庭石になっていたのを、市教委が発見した。

 天井石は計7枚あり、所在不明だった「最後の1枚」とみられる。譲り受けた市教委が同古墳のガイダンス棟で保管、将来的に展示する予定だ。

 石材は幅1メートル、長さ2・3メートル、厚さ25センチ。兵庫県高砂市で採れる「竜山石」で、大王墓の石室や石棺に使われ、発見場所、形状などから天井石と判断した。

 同古墳は1912年、後円部の頂上で 長持 ( ながもち ) 形石棺を納めた、竪穴式石室が見つかった。その後、宮内庁が頂上部を陵墓参考地に指定したため、石室の天井石の現状確認ができない。

 石室発見当時の記録や写真から、7枚の天井石のうち2枚が現地に埋まっているとみられる。残り5枚は発見時に外部に持ち出された可能性があり、これまでに古墳付近で、
〈1〉津堂八幡神社の石碑
〈2〉葛井寺の忠魂碑
〈3〉小山善光寺の敷石
〈4〉専念寺の庭石―
―に転用されているのが確認されている。

 白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は
 「津堂城山古墳は、古市古墳群のうち、埋葬施設がわかっている唯一の大王墓級の古墳で、天井石の所在確認は歓迎すべきことだ。可能なら古墳外にあるすべての天井石をガイダンス棟など現地に戻し、活用策を考えてほしい」
と話している。


[ 2010年3月5日 (読売新聞)
  

2010年03月19日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<長岡京>よろいの部品、内裏跡から出土


 長岡京の内裏跡から出土した鉄よろいの部品「小札」。正倉院御物と同型品=京都府向日市で2010年2月18日、望月亮一撮影

 京都府向日市埋蔵文化財センターは18日、同市鶏冠井(かいで)町の長岡京(784~794年)の内裏跡で、古墳時代後期から約200年間に作られた鉄のよろいの部品「小札(こざね)」27枚分が出土したと発表した。古代の都の内裏で見つかったのは初めて。建物の基壇に人為的に埋められており、桓武天皇が権威と皇位の正統性を示すため祭祀(さいし)を執り行った可能性があるという。

 小札は小さな鉄板で、古代のよろい「挂甲(けいこう)」の部品。うろこのように重ね結び合わせて作る。内裏にある脇殿の基壇南東の穴(深さ約20センチ)2カ所から出土した。幅1~2センチ、長さ2~9センチで破片を整理して27枚分と分かった。

 小札の様式は4時期に分かれ、藤ノ木古墳や平城京跡の出土物のほか、茨城県など地方からの朝貢品や正倉院御物の同型品も混在。最上級品のよろいだけに使われた組みひもが使われており、6世紀末以降に製作され天皇家に伝えられた品々とみられる。

 脇殿は平安京遷都直前の793年ごろに解体。小札は故意に割られ、遺構の周囲とは違う土で埋められていた。

 古代の都城に詳しい山中章・三重大教授は
 「渡来系の血をひいたとされる桓武天皇が皇位の正統性を示すため、統帥権の象徴として持っていた歴代天皇のよろいの一部を祭祀で使ったのではないか」
と話している。

 向日市文化資料館で4月25日まで展示。問い合わせは同センター(075・931・3841)。【成田有佳、野宮珠里】


[ 2010年2月18日 (毎日新聞)
  

2010年03月12日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<奈良・観音寺本馬遺跡>縄文のクリ林発見 人為的に栽培

 縄文人が栽培していたとみられるクリの根株=奈良県橿原市教委提供

 奈良県橿原、御所両市にまたがる観音寺本馬遺跡で、縄文時代晩期(約2800年前)のクリの根株25本が見つかり、橿原市教委が26日発表した。縄文時代のクリの根株が、これほど大量に密集して見つかるのは極めて珍しいという。同市教委は、食料を得るために栽培したクリ林とみており、「狩猟が中心と考えられてきた縄文社会を見直す機会になる」としている。

 調査は08年7月~09年3月、5170平方メートルで実施。クリの根株は、住居跡などがあった集落の北東約300メートルの河川跡近くで見つかった。幹は推定直径約50センチで、樹齢約100年のものもあった。

 一帯では、クリを含め約20種計68本の樹木の根株が見つかったが、クリだけは約80平方メートルの範囲に密集しており、人為的に栽培・管理していたとみられる。

 現場は既に埋め戻されており、パネルや土器を橿原市川西町の市千塚資料館で展示中。
 3月13日午後1時半から、同館で報告会がある。先着50人。【高島博之】


[ 2010年2月27日 (毎日新聞)
  

2010年03月12日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<中宮寺跡>心柱立てる施設跡を確認 奈良・斑鳩町教委


 柱の心柱が立っていた穴と礎石。この穴の西側に南北に並んでやぐらの柱穴とみられる遺構が見つかった=奈良県斑鳩町で2010年2月18日、大西岳彦撮影

 奈良県斑鳩町法隆寺東2の中宮寺跡(国史跡)で、塔の中心を貫く心柱を立てるために使ったやぐらの柱穴とみられる遺構が見つかった。18日発表した同町教委によると、古代寺院で心柱を立てるための施設跡が確認されたのは初めて。塔の建築方法を考える上で貴重な発見としている。

 昨年8月から約1072平方メートルを調査。以前の発掘調査で地表面から深さ約2.5メートルに心柱の礎石があることが分かっていた。今回は礎石の西側で柱穴二つを確認。礎石をはさんで南北にそれぞれ約5メートル離れた場所にあり、礎石の近くに建てられたやぐらの柱穴とみられる。心柱の先端部分にくくり付けた綱を、やぐらの上の滑車を通して引っ張り、心柱をたち上げたと考えられる。

 中宮寺は飛鳥時代に聖徳太子が建立し、金堂や塔が一直線に並んでいたとされる。塔は絵図などから三重塔とみられ、近くにある同時代の法起寺三重塔(国宝)などとの比較により、高さは約20メートルと推定される。

 近畿大の大脇潔教授(考古学)は
 「これまであまり意識されていなかった心柱の立て方を具体的に解明する発見。他の塔でも同様の施設が使われている可能性があり、今後の調査で見つかるかもしれない」
と話している。【花澤茂人】


[ 2010年2月18日 (毎日新聞)
  

2010年03月10日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

120年前沈没のトルコ軍艦に明治天皇寄贈の遺品


 120年前に和歌山県串本町沖で沈んだトルコ軍艦「エルトゥールル」号の遺品発掘調査団は20日、明治天皇が贈ったことを示す菊の紋章入りの陶器片を発見した。

 乗組員は天皇と会見後、横浜からの帰途に台風で遭難。地元ダイバーとトルコ人でつくる調査団が、5年間の調査最終日のこの日、皇室ゆかりの遺品を初めて引き揚げた。

 見つけたのは30年以上前から遺品を探してきた同町の榎本広志さん(60)。
 「菊の御紋が史実を証明してくれてうれしい」
と、明治天皇からの思わぬプレゼントに恐悦至極。【山本芳博】


[毎日新聞2月21日]
  

2010年03月02日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

胴体発見した土偶、1年後の同じ日に頭部発見


 胴体が見つかった日の1年後に頭が発見された土偶

 松島湾に面した宮城県東松島市の縄文時代の里浜貝塚。ここで出土した土偶の不思議な発見のいきさつがひそかに注目を集めている。

 胴体が見つかったちょうど1年後の同じ日に、頭の部分が現れたのだ。

 それぞれ体験学習に訪れていた小学生が発見した。奥松島縄文村歴史資料館の菅原弘樹副館長は
 「土偶が『頭を見つけて』と子供たちに訴えたのかもしれません。一生懸命探した私たち大人にその声は届かなかったようです」
と話している。

 土偶は約2500年前、縄文時代の終わりに作られたもので、高さは約10センチ。肩をいからせた胴体にカエルのような頭を乗せている。

 2008年5月1日に、同市立浜市小学校の児童が頭部のない状態で地表から偶然、拾い上げた。首の部分の割れ口が比較的新しかったことから、菅原さんや資料館のスタッフが「近くに頭があるに違いない」と1年かけて捜索したが見つからなかった。

 ところが、昨年5月1日、同じ場所で富谷町立東向陽台小学校の女児が「これはなんですか」と言いながら駆け寄ってきた。菅原さんがのぞき込むと手の中に三角形の土偶の顔があった。「もしかして」と思い、1年前の胴体と合わせてみると見事ピッタリ一致した。

 「奇跡の再会」(菅原さん)を果たした土偶は接合され、資料館で展示されている。


[ 2010年2月13日 (読売新聞)
  

2010年02月27日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

遺跡の竪穴式住居、平安期の大地震跡くっきり


 大地震の被害を受けた痕跡が残る竪穴住居(埼玉県埋蔵文化財調査事業団提供、2009年12月撮影)

 埼玉県深谷市の皿沼西遺跡の竪穴式住居から、平安時代の弘仁9年(818年)に起きた「弘仁の大地震」によるものとみられる液状化現象の跡が見つかった。

 発掘調査を行う県埋蔵文化財調査事業団によると、この地震による被災の痕跡が残る竪穴住居の発見は初めて。住居や用水路が改修された形跡も確認された。国による復興支援が行われたと記録する文献もあり、関連が注目される。

 皿沼西遺跡は、古墳時代中期から奈良、平安時代にかけて発展した大規模な集落跡で、昨年10月から約7000平方メートルを範囲として調査が行われている。

 事業団によると、幅約10センチのひび状の砂層が数十本見つかったのは昨年12月。地震で緩んだ地盤中の砂と水が地上に噴き出す「噴砂」と呼ばれる現象で、竪穴住居跡でも確認された。周辺で出土した土器の特徴などから、弘仁の大地震によるものと特定した。住居や用水路を改修して住み続けた跡も見つかり、地震後に集落が復興していった様子がうかがえるという。

 平安時代に菅原道真が編さんした「 類聚国史 ( るいじゅうこくし ) 」には、都から地震後、国による復興支援が行われたとの記述があり、事業団の田中広明主査(47)は
 「文献内容と今回の発掘がつながる。古代の地震を研究するうえでも貴重な資料」
と話している。

 問い合わせは、事業団皿沼西遺跡発掘調査事務所(048・574・7242)へ。

[ 2010年1月27日 (読売新聞)
  

2010年02月23日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

三内丸山、2℃寒冷化で滅ぶ…食料激減


 縄文時代に栄えた「三内丸山遺跡」(青森市)の集落が約4200年前に滅んだのは、2度の気温低下が原因だった可能性が高いことが、川幡穂高・東京大学教授(古気候学)らによる調査でわかった。

 それまで豊富だった食料用の木の実などが、この寒冷化で激減したらしい。

 三内丸山遺跡は陸奥湾の南約3キロ・メートルにある、縄文時代最大規模の集落跡。約5900年前に成立し、約1700年後に消滅した。しかし、長期にわたる気候変動の詳しいデータがなく、集落の盛衰と気候の関連は不明だった。

 川幡教授らは、この遺跡から約20キロ・メートル離れた陸奥湾で、水深61メートルの海底から 堆積 ( たいせき ) 物を採取。プランクトンがどのような物質をつくっていたかを手がかりに、当時の海面水温を推定した。

 その結果、海面水温は5900年前から約1700年かけて、約22度から約24度まで徐々に上昇したが、4200年前ごろ、約22度まで急激に低下した。気温の低下も、おなじ約2度とみられる。

 堆積物中の花粉などを調べたところ、温暖期には陸上では食用に適したクリなどが多く育ち、海中には魚が多く生息できたが、寒冷化して、その環境が失われたことがわかった。

 川幡教授によると、この寒冷化は、この地域に吹く南西からの暖かな季節風が弱まったことなどが原因らしい。川幡教授は
 「2度の寒冷化の影響は、思いのほか大きい。数度の温度変化でも、農業などの1次産業は大きな影響を受ける可能性がある」
と話している。


[ 2010年2月2日 (読売新聞)
  

2010年02月17日 Posted by かるの at 09:05Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<人骨>日本最古2万年前 沖縄・石垣島

 沖縄県・石垣島(石垣市)白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から、約2万年前の後期旧石器時代の人骨が見つかった。4日発表した沖縄県教委によると、放射性炭素同位体の割合などから年代を調べる「放射性炭素年代測定」によって直接測定し、年代を特定した人骨としては日本最古。専門家は、日本人のルーツを探る手がかりになりうるとしている。

 これまで日本最古とされてきた那覇市の山下町第1洞穴の人骨(約3万2000年前)は一緒に出土した炭化物の測定を基にした間接的な年代特定だった。直接測定した人骨の国内最古例は浜松市で出土した人骨(約1万4000年前)で、石垣島の人骨は約6000年さかのぼる。

 新石垣空港建設予定地内の発掘調査で見つかった。沖縄県や琉球大、東大などの共同研究チームが人骨6点を測定し、このうち頭頂部の骨片(約8センチ×約11センチ)が約2万年前の20~30代前半の男性の骨と判明した。他の骨2点も約1万8000年前の成人と、約1万5000年前の成人男性と分かった。

 東京大大学院の米田穣(みのる)准教授(先史人類学)は
 「旧石器時代に石垣島に人類が住んでいたことが裏付けられた。まだ多数の人骨が残っている可能性があり、更に詳しい調査を進めることで、日本人のルーツを探る手がかりにつながる」
と話している。【三森輝久】


[毎日新聞2月4日]
  

2010年02月14日 Posted by かるの at 09:15Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

隠し金?豪雨被災「萩往還」から銅銭ザクザク


 昨年7月の集中豪雨で被災した山口市上天花町の国指定史跡「萩往還」の復旧工事現場から、江戸時代の通貨「 寛永通宝 ( かんえいつうほう ) 」など銅銭316枚が見つかった。

 山口市教委は「当時の往還のにぎわいを知ることができる貴重な資料。復興のシンボルになれば」と話している。

 市教委文化財保護課によると、発見されたのは、わらのひもを通した束になった「銭さし」の計76枚のほか、寛永通宝235枚、7世紀以降の中国産の銅銭5枚。豪雨によって崩壊した路肩の整地作業を行っていた市内の造園会社の作業員が昨年11月8日、地下1メートル付近の土中から見つけ、市教委に報告した。

 同課では、現場が山あいで周辺に人家や寺社跡がないことなどから、備蓄目的や儀式用だった可能性は低く、萩往還の通行人が落としたか、一時的に隠したものではないかとみている。

 調査した同課の佐藤力主査は
 「史跡が被害を受けたことは残念だが、結果として銅銭が見つかった。どんな人が落としたのか想像するのも興味深い」
と話している。

 市教委は3月16日~5月9日、同市歴史民俗資料館で出土した銅銭を展示する。
 入館料は小中学生50円、高校生以上100円。原則毎週月曜は休館。


[ 2010年2月2日(読売新聞)
  

2010年02月10日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

和歌山沖沈没のトルコ軍艦から?金貨銀貨


 エルトゥールル号の遺品調査で見つかった金貨(左)と銀貨

 和歌山県串本町沖で1890年に遭難したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げ調査で、金貨と銀貨が1枚ずつ見つかり、調査団が25日、発表した。

 イギリスの1ポンド金貨(直径22ミリ、重さ8グラム)と、明治時代の1円銀貨(同38ミリ、同21グラム)で、沈没地点の岩礁(水深12~13メートル)で発見した。金貨は状態もよく、120年の時を超えて輝いている。士官クラスが持っていたものらしい。

 今年は2006年から始まった調査の最終年で、「トルコにおける日本年」にあたり、これまでに見つかった調理鍋などとともに、9~12月にトルコの4都市で公開される。国内公開は未定。

[ 2010年1月25日 (読売新聞)
  

2010年02月07日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<広瀬遺跡>水無瀬離宮の一部か…大規模遺構発見 大阪


 手前と中央奥は柱跡。礎石を安定させた根石が残る。奥は雨落ち溝とみられる石敷き=大阪府島本町広瀬で2010年1月22日、竹内紀臣撮影

 大阪府島本町広瀬の広瀬遺跡で、13世紀ごろ(鎌倉時代前期)の大規模な礎石建物跡や石敷き遺構が見つかり、22日、町教委が発表した。当時、最高権力者で、優れた歌人でもあった後鳥羽上皇(1180~1239年)の「水無瀬(みなせ)離宮」の一部だった可能性が高いという。

 水無瀬離宮に関連するとみられる遺構の発見は初めて。宅地開発に伴い、町教委が昨年12月から約300平方メートルを調査していた。調査地は、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍に敗れ、隠岐に流された上皇をまつる水無瀬神宮の西約600メートル。周辺は、藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」で上皇が離宮を営んだと伝えられる、水無瀬川と淀川の合流地点近く。

 柱跡とみられる、礎石を安定させるために置かれた根石を4カ所で確認。柱跡は四角形を描くようなかたちで見つかった。その間隔は約4.2メートルで、巨大な礎石建物の一部とみられる。建物跡に沿って、石敷き(幅約3メートル、長さ約6メートル分)も確認された。軒先からの雨の滴を受け止める雨落ち溝の可能性があるという。溝の内部や周辺から瓦片約600点も見つかった。瓦は鎌倉時代の様式。当時、瓦は、役所や貴族の邸宅などでしか使われておらず、この点からも離宮の可能性が高いという。【林由紀子】


[ 2010年1月23日 (毎日新聞)
  

2010年02月02日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

トルコ軍艦の鉄製クイか、引き揚げ開始…和歌山


 「エ号」が沈没した海底から引き揚げられた鉄製のクイ(和歌山県串本町で)

 和歌山県串本町沖で1890年に遭難したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げ作業が17日、沈没地点とされる同町樫野埼沖の海底で始まった。

 この日は地元ダイバーを含む4人が潜り、周辺に 堆積 ( たいせき ) した砂利を取り除いたり、ブイを浮かせたりした後、50平方メートルの範囲(水深約12メートル)で調査。エ号の遺品かは判別できないものの、見つけた鉄製のクイ(長さ約70センチ)と陶器片などを引き揚げた。

 潜水作業は来月15日までに計約20日間行う予定で、調査団のトゥファン・トゥランル団長(57)は
 「天候にも恵まれ、順調な滑り出しで安心した」
といい、地元ダイバーの榎本広志さん(60)は
 「昨年の台風の波で、海底から新たな遺品が出ているかも知れない。ワクワクします」
と話した。


[ 2010年1月18日 (読売新聞)
  

2010年01月28日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<桜井茶臼山古墳>副葬銅鏡が81枚に 卑弥呼時代のものも

 ずらりと並べられた銅鏡の破片=奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所で

 奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末~4世紀初め)に副葬された銅鏡が81枚に上ることが分かり、7日、県立橿原考古学研究所が発表した。13種類あり、枚数、種類ともに国内最多。卑弥呼(ひみこ)が中国・魏(ぎ)から鏡をもらった年とされる「正始元年」(240年)の銘文が入った三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)1枚のほか、※ 製(ぼうせい)(日本製)の大型内行花文鏡(ないこうかもんきょう)(直径約38センチ)なども含まれていた。銅鏡は初期ヤマト政権の権威の象徴で、大王墓クラスの古墳の全容に迫る成果として注目される。

 09年1月からの再調査で、盗掘された石室内などの土をふるいにかけて銅鏡の破片331点を新たに採取した。1949~50年の調査などで見つかっている破片と合わせ、計384点の文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合し、種類と枚数をほぼ特定した。

 卑弥呼が魏からもらったとする説と国内製作説の両方がある三角縁神獣鏡が最も多く26枚。そのうち、破片の1点(縦1.7センチ、横1.4センチ)に刻まれていた「是」の文字の形が、過去に蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した「正始元年」銘鏡と一致し、同じ鋳型で作られたと分かった。そのほか、後漢時代(25~220年)以降の舶載(中国製)鏡と※製鏡の両方の銅鏡があった。

 三角縁神獣鏡は初期ヤマト政権が各地に配布したとする説が有力だが、これまで奈良県内では魏の年号入りの銅鏡は見つかっていなかった。また、国内最大のガラス製管玉(長さ8.16センチ)も新たに見つかった。

 出土品は13~31日、橿原市畝傍町の橿考研付属博物館で展示される(月曜と19日は休館)。【高島博之】

※はにんべんに方

 ◇ことば・桜井茶臼山古墳

 橿考研が1949~50年に発掘調査し、銅鏡約20枚を確認。09年からの再調査で、石室上部を丸太で囲んだ「丸太垣」跡を全国で初めて発見。石室が古代中国で不老長寿の薬とされた赤色顔料「水銀朱」約200キロで塗られていたことも分かり、初期ヤマト政権の大王墓の可能性が高いとみられている。

[ 2010年1月7日 (毎日新聞)
  

2010年01月14日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<平城宮>ごみ焼却跡見つかる 「そのまま埋設」定説覆す

 平城宮のごみ捨て穴の遺構から見つかった焼け焦げた檜扇=奈良文化財研究所提供

 奈良市の平城宮跡で確認されたごみ捨て穴の遺構で、ごみを焼却した跡が初めて見つかった。調査した奈良文化財研究所によると、これまではごみは焼かずにそのまま埋められたと考えられており、奈良時代の廃棄物処理を考える上で重要な発見となる。

 このごみ捨て穴は、東西約10メートル、南北約7メートル、深さ最大約1メートルと宮内最大級。08~09年の調査で見つかった。

 穴の中には、焼けた木簡や炭を含む土の層があり、何回かに分けてごみを焼却したとみられることが分かった。ごみの量を減らすか、生ごみの腐敗を防ぐためだったと考えられる。平城宮内は木造の建物が多く、火の取り締まりが厳しかったため、ごみは捨てた直後にそのまま埋められたとされてきた。同研究所の今井晃樹・主任研究員は
 「当時のごみ処理方法の考え方を覆す発見」
と話している。【花澤茂人】


[ 2009年12月30日 (毎日新聞)
  

2010年01月06日 Posted by かるの at 21:03Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<堂ノ後古墳>国内最古でなかった 築造時期が判明

 堂ノ後古墳(奥)とホケノ山古墳(手前)=奈良県桜井市で2005年11月4日、本社ヘリから三村政司撮影

 国内最古の前方後円墳の可能性が指摘されていた奈良県桜井市の堂ノ後(どうのうしろ)古墳が、実際は5世紀後半の築造で、最古ではないことが市教委の発掘調査で分かった。同古墳は、天理大(同県天理市)の学生らのレーダー探査で、東隣の国内最古とされるホケノ山古墳(3世紀中ごろ)より古い時代に造られた可能性があるとされたが、出土した鳥の形をした埴輪(はにわ)の特徴から築造時期が判明した。

 学生らは05年1~2月、地上から電磁波を発射し、地盤構造や埋設物を画像化するレーダー探査を実施。それまで円墳と思われていた堂ノ後古墳の前方部を見つけた。さらに、堂ノ後古墳の周濠(しゅうごう)を切り崩してホケノ山古墳が築かれた可能性のある痕跡を確認し、堂ノ後古墳がホケノ山古墳より古いと推定していた。

 しかし、市教委が今年6~7月、学生らがレーダー探査で前方部を見つけた場所を発掘調査したところ、出土した埴輪などは5世紀後半に作られた特徴があり、堂ノ後古墳が5世紀後半の築造と判断した。

 レーダー探査の結果については、考古学の専門家から「短絡的に判断するのは危険。発掘調査して確認する必要がある」と指摘されていた。【高島博之】


[ 2009年12月21日 (毎日新聞)
  

2009年12月23日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

木簡に「石上宅嗣」の名 西大寺旧境内で出土


  奈良市の西大寺旧境内から出土した奈良時代の高官、石上宅嗣の名前が記された木簡=3日午後、奈良市の同市埋蔵文化財調査センター

 日本最古の公開図書館を設立したことで知られる奈良時代の高官、石上宅嗣の名前を書いた木簡が西大寺旧境内(奈良市)で見つかり、市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が3日、発表した。

 木簡の記述から、平城宮東院の造営責任者だったことも判明。高官の名前が書かれた奈良時代の木簡は極めて珍しい。西大寺の運営にかかわる木簡も出土しており、同寺の実態を研究する上で、貴重な史料といえそうだ。


[ 2009年12月3日 (共同通信)
  

2009年12月09日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

高松塚古墳、36年前の映像=調査の様子撮影、奈文研で発見


 奈良文化財研究所と文化庁は30日、「飛鳥美人」と呼ばれる壁画で知られる高松塚古墳(奈良県明日香村)が発見された翌年の1973年に行われた現地調査を撮影したカラーの8ミリフィルムが見つかり、映像が残っていた約30分をDVD化したと発表した。

 研究所によると、フィルムは14巻あり、73年10月に実施された調査での専門家による石室内の洗浄や観察、佐藤栄作元首相らの視察風景が収められている。音声は入っていない。

 今年2月、同研究所写真室の井上直夫専門職員が、奈良県橿原市にある都城発掘調査部の機材倉庫を整理中に棚から発見。紙袋に入れられ、表に「高松」と手書きで書かれていたが、映写機がなかったため業者に依頼し、内容が分かったという。 


[ 2009年11月30日[時事通信社]


  

2009年12月05日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

家光の威光、二条城「女院御殿」跡から金箔瓦


 女院御殿の一部とみられる建物跡=菊政哲也撮影

 世界遺産・二条城(京都市中京区)で、3代将軍・徳川家光が在位した江戸時代前期の建物跡や 金箔 ( きんぱく ) 瓦などが見つかり、市埋蔵文化財研究所が13日、発表した。

 同時代の絵図などから、二条城を大改修した家光が後水尾天皇を招いた際に建てた「 女院御殿 ( にょいんごてん ) 」の一部とみられ、同研究所は「家光の威光がうかがえる」としている。

 二条城南端の「桜の園」から、柱を据える礎石や礎石の抜き取り穴が約20基出土。建物は南北約15メートル以上、東西約5メートル以上とみられる。

 金箔が一部残った瓦約50点(長さ10センチ前後)や家具に使われた銅製引き手(長さ10センチ)も見つかった。

 二条城は徳川家康が築き、家光が1624年から大改修した。大工だった中井家が所蔵する江戸期の絵図などから、建物跡は、後水尾天皇が26年9月に訪問した際、母親の中和門院らの居所として造られた女院御殿西端の建物である可能性が高いという。

 

[ 2009年11月14日 (読売新聞)
  

2009年11月26日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)