熊本、西南戦争で使用の雷管出土 激しい銃撃戦の跡
山頭遺跡で出土した、薩摩軍が洋式銃に使ったとみられる雷管=22日午前、熊本県植木町

熊本県植木町教育委員会は22日、西南戦争で西郷隆盛の率いる薩摩軍が洋式銃に使ったとみられる雷管が、山頭遺跡で多数見つかったと発表した。過去の調査では50~100メートル離れた地点で官軍側の銃の薬きょうも多数出土しており、激しい銃撃戦があったことをうかがわせる。この辺りは、植木町内であった田原坂の戦いの直後、熊本城に向け進行する官軍を、薩軍が迎え撃った最前線だった可能性があるという。

熊本県植木町教育委員会は22日、西南戦争で西郷隆盛の率いる薩摩軍が洋式銃に使ったとみられる雷管が、山頭遺跡で多数見つかったと発表した。過去の調査では50~100メートル離れた地点で官軍側の銃の薬きょうも多数出土しており、激しい銃撃戦があったことをうかがわせる。この辺りは、植木町内であった田原坂の戦いの直後、熊本城に向け進行する官軍を、薩軍が迎え撃った最前線だった可能性があるという。
[ 2010年2月22日 (共同通信)
2010年03月10日 Posted by かるの at 21:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
「黒い雨」の放射線を検出 広島大、爆心地の8キロ北
広島で原爆投下直後に降った「黒い雨」に由来するとみられる放射性物質を、広島大原爆放射線医科学研究所の星正治教授(放射線生物・物理学)らのグループが爆心地の約8キロ北の民家で床下の土から検出していたことが1日、分かった。
当時、黒い雨による高い放射線量が観測されたのは、爆心地の西2~3キロ。星教授によると、それ以外のエリアで住民の証言によらない「直接的な証拠」を確認したのは初めて、としている。
[ 2010年2月1日 (共同通信)
2010年02月13日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
「被爆天主堂」写真集刊行へ=70点収録-撤去様子も撮影・長崎
広島の原爆ドームと並ぶ被爆の象徴だった長崎市の旧浦上天主堂が、1958年に解体・撤去されるまでの様子を記録した写真集が来年春、東京の出版社から刊行される。写真は長崎市の写真家高原至さん(86)が撮影。被爆者でもある高原さんは
「戦争を知らない若い人たちに見てもらえたらうれしい」
と話している。
出版されるのは「長崎 旧浦上天主堂1945~58―失われた被爆遺産―」(108ページ)。がれきの山となった旧天主堂で開かれた宣教師フランシスコ・ザビエル来日400年記念祭をはじめ、廃虚の近くで遊ぶ子供を写した写真など計約70点が収録されている。撤去作業員の姿を収めた未公開写真も含まれる。
旧浦上天主堂は14年に建設。カトリックの教会堂としては当時、東洋一の規模とされた。しかし、爆心地から約500メートルと至近に位置していたため、爆風や高熱で、壁の一部を残し一瞬にして廃虚となった。保存を求める声もあったが取り壊され、跡地には59年、現在の新天主堂が建設された。
高原さんは記念祭が開かれた49年以降、毎日のように旧天主堂を撮影していたという。数百枚に上る写真は自宅に保管していたが、今年7月の企画写真展で一部を公開。訪れた人からの反響は大きく、これを受け写真集の出版が決まった。来年にはニューヨークの国連本部で展示会を開く計画も持ち上がっている。
写真はいずれもモノクロ。岩波書店から刊行される。日英の解説文付きで価格は1900円(税込み、予定)。
[ 2009年12月27日[時事通信社]
2010年01月08日 Posted by かるの at 09:02 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
旧日本軍が沈めた病院船発見=水深2000mで調査チーム-豪
オーストラリア東部クイーンズランド州政府は20日、第2次大戦中に旧日本軍の攻撃を受けて同州沖で沈没した病院船「セントー号」が、調査チームによって発見されたことを明らかにした。ABC放送(電子版)が報じた。
調査チームは、ブリスベーン東方モートン島の南端沖約30カイリ(約55キロ)、水深2059メートルの地点でセントー号を発見した。ギラード副首相は
「国の任務のために命を落とした勇敢な看護師や乗組員の存在を、すべての国民が知り、たたえることにつながる」
と称賛した。
州政府によれば、来年1月には遠隔操作が可能な潜水艇を使い、海中に沈む船体の写真撮影を行う予定という。
[ 2009年12月20日[時事通信社]
2009年12月30日 Posted by かるの at 09:03 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<太平洋戦争>旧海軍大将らの証言記録、刊行準備進む
旧日本海軍の大将ら幹部47人が、太平洋戦争を振り返った膨大な証言記録を旧海軍OBらで構成される団体が保管。来年春の刊行を目指し、準備を進めている。戦後、公の場に出ず「沈黙の提督」と呼ばれた井上成美(しげよし)、嶋田繁太郎元大将らが後輩の元軍人の聞き取り調査に応えたもので、昭和海軍の実像を伝える貴重な資料だ。【栗原俊雄】
記録を保管しているのは、旧海軍OBらが構成する財団法人「水交会」(東京都渋谷区)。1956~61年ごろ故・小柳富次元海軍中将らが聞き取り、冊子にしたもので「小柳資料」と呼ばれる。全44冊、400字詰め原稿用紙で約4000枚。元大将が10人、中将が30人(うち陸軍1人)。
嶋田元大将は戦後、外部の取材には一切応じなかったという。だが小柳元中将に対しては能弁で、1941年12月8日の真珠湾奇襲成功後、衆議院で戦況を報告した際に議員の「感激熱狂振(ぶ)り」をみて「これからが難しくなるのだ。肩に重荷を感じ、胸つまる思いであった」と当時の心境を述べている。
また山本五十六連合艦隊司令長官と親しかった井上元大将が、「(山本が)対米作戦に自信がないと云(い)うことであれば、職を賭しても太平洋戦争に反対すべきであった」などと山本の言動を批判している。
栗田健男元中将は1944年10月、連合艦隊が敗れたレイテ沖海戦で主力艦隊を率いた。当初の目的、米軍輸送船団砲撃の寸前まで迫りながら撤退したことが海戦史上の「謎」とされている。栗田は艦隊が連日、米機動部隊の空襲を受け
「敵の制空権下では水上部隊の戦闘は成り立たないと思った」
と証言。またフィリピンの味方航空部隊が想像以上に脆弱(ぜいじゃく)だったと振り返った。「謎」をとく一つの鍵になりそうだ。
水交会では「小柳資料」は非公開だったが、後世の研究に役立ててもらおうと刊行を決めた。資料の写しは防衛省防衛研究所(東京都目黒区)で01年ごろから順次公開されている。
昭和史が専門のノンフィクション作家、保阪正康さんは
「身内に話すという安心感からか、外部には口を閉ざし続けた元軍人たちが、驚くほど多くのことを語っている。昭和の日本海軍の全体像をうかがわせる資料だ」
と話している。
[毎日新聞12月7日]
2009年12月11日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<特別少年兵>「震える魂を知らせたい」 元兵士が本を出版
「特別少年兵」として15歳で旧日本海軍に入り、太平洋戦争末期の「沖縄特攻作戦」から生還した東京都清瀬市の無職、井上理二(りじ)さん(82)が、自分の半生を描いた「特攻くずれ-ある海軍特別少年兵の昭和史」(元就出版社)を出版した。
時の経過とともに「生き残り」も減っていく中「遺書」として書きつづったという。井上さんは
「幼くして逝った少年兵の震える魂を呼び戻し、世間に知らせる義務がある」
と話している。【袴田貴行】
島根県井尻村(現安来市)で農家の次男として生まれた井上さんは、高等小学校卒業後の1942年9月、特別少年兵の1期生として「大竹海兵団」(旧広島県大竹町)に入団。教育課程修了後は駆逐艦「磯風」の乗組員となり、マリアナ海戦やレイテ沖海戦など数々の激戦に従軍した。
45年4月には戦艦「大和」などとともに「沖縄特攻作戦」に出撃。九州沖で米軍の猛攻撃を受け、井上さんが乗り込んでいた磯風の傾いた甲板は、死傷者から流れ出た血のりで染まり、歩くのも困難なほどの修羅場となったという。
井上さんは舵機(だき)室にいたため辛うじて助かったが、特別少年兵の同期で当時17歳だった親友は機銃掃射の直撃を受けて壮絶な最期を遂げた。磯風は奇跡的に沈没を免れた。しかし大破して使用不能になり、戦闘終了後に生存者を別の艦船に移し、爆破して海に沈められた。
戦後、井上さんは農業や飲食店などを経営する傍ら、特別少年兵戦没者慰霊碑の建立に奔走。96、99年には特別少年兵を題材とした小説を出版し、悲惨な歴史を語り継ぐ活動を続けてきた。
井上さんは
「海軍は(15歳未満の者を軍隊に採用してはならないとした)ジュネーブ条約に反して14歳の少年まで特別少年兵に採用し、戦後、その存在を闇に葬ってきた。国家に命じられるまま、まだあどけない子供までもが死地に赴いた事実を世に残しておきたい」
と話している。
問い合わせは元就出版社(03・3986・7736)。
◇ことば・特別少年兵
1941年に作られた海軍の下士官養成制度。一般志願兵が17歳以上だったのに対し、学力、体力ともに優れた14~15歳の少年を志願制で選抜し基礎教育を施した。45年5月の4期生まで約1万8000人が入団。戦線の悪化とともに修了生は前線に投入され、1期生は約3500人のうち約2000人が戦死した。
時の経過とともに「生き残り」も減っていく中「遺書」として書きつづったという。井上さんは
「幼くして逝った少年兵の震える魂を呼び戻し、世間に知らせる義務がある」
と話している。【袴田貴行】
島根県井尻村(現安来市)で農家の次男として生まれた井上さんは、高等小学校卒業後の1942年9月、特別少年兵の1期生として「大竹海兵団」(旧広島県大竹町)に入団。教育課程修了後は駆逐艦「磯風」の乗組員となり、マリアナ海戦やレイテ沖海戦など数々の激戦に従軍した。
45年4月には戦艦「大和」などとともに「沖縄特攻作戦」に出撃。九州沖で米軍の猛攻撃を受け、井上さんが乗り込んでいた磯風の傾いた甲板は、死傷者から流れ出た血のりで染まり、歩くのも困難なほどの修羅場となったという。
井上さんは舵機(だき)室にいたため辛うじて助かったが、特別少年兵の同期で当時17歳だった親友は機銃掃射の直撃を受けて壮絶な最期を遂げた。磯風は奇跡的に沈没を免れた。しかし大破して使用不能になり、戦闘終了後に生存者を別の艦船に移し、爆破して海に沈められた。
戦後、井上さんは農業や飲食店などを経営する傍ら、特別少年兵戦没者慰霊碑の建立に奔走。96、99年には特別少年兵を題材とした小説を出版し、悲惨な歴史を語り継ぐ活動を続けてきた。
井上さんは
「海軍は(15歳未満の者を軍隊に採用してはならないとした)ジュネーブ条約に反して14歳の少年まで特別少年兵に採用し、戦後、その存在を闇に葬ってきた。国家に命じられるまま、まだあどけない子供までもが死地に赴いた事実を世に残しておきたい」
と話している。
問い合わせは元就出版社(03・3986・7736)。
◇ことば・特別少年兵
1941年に作られた海軍の下士官養成制度。一般志願兵が17歳以上だったのに対し、学力、体力ともに優れた14~15歳の少年を志願制で選抜し基礎教育を施した。45年5月の4期生まで約1万8000人が入団。戦線の悪化とともに修了生は前線に投入され、1期生は約3500人のうち約2000人が戦死した。
[ 2009年11月10日(毎日新聞)
2009年11月19日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
旧満州の貯金通帳、63年ぶり持ち主に返る
返還された貯金通帳

戦後まもなく中国東北部(旧満州)から日本へ引き揚げる際、持ち込みが制限されたため税関に預けられた貯金通帳が4日、63年ぶりに持ち主の高知県芸西村西分、大野栄さん(87)へ返還された。
高知市桟橋通の神戸税関高知税関支署で開かれた返還式で、高齢のため欠席した栄さんの代わりに受け取った長男勝清さん(59)は
「母から話には聞いていたが、本当に残っているとは」
と通帳を感慨深げに見つめていた。税関が当時預かった金品のうち、全国で26万8000人分が2008年末現在、未返還のままとなっており、持ち主に返されたのは県内初。
勝清さんによると、栄さんは1943年5月、陸軍病院の看護婦として旧満州に渡って傷病軍人の看護にあたり、46年6月に京都府の舞鶴港へ引き揚げた。通帳は引き上げ直前、現地の日本人自治会を介して預けられたという。
通帳は旧姓の「横田栄」名義で、奉天郵政管理局が発行した「郵政 儲金 ( ちょきん ) 簿」。ほぼ毎月30円の入金が記帳されており、計985円を貯金していた。栄さんは通帳があったと最近になって勝清さんに話し、預かり証も持っていたため、勝清さんが同支署に照会。横浜税関に通帳が保管されていることが分かった。返還式では、山中伸二支署長が
「よく預かり証を持っていてくれました」
と勝清さんと妻に通帳を手渡した。
栄さんは戦時中のことをあまり語ってこなかったという。帰宅後、栄さんに通帳を手渡した勝清さんは
「母はじっと通帳を眺めていた。これをきっかけに、当時の話をじっくり聞いてみたい」
と話した。
同支署などによると、当時は朝鮮半島などの「外地」から国内に持ち込むことができた証券や通貨は、外為法や連合国軍総司令部(GHQ)の指令で制限されていた。また治安上の問題もあり、引き揚げ者は金品を在外公館や日本人自治会を通じて横浜税関に送還するなどしていたという。

戦後まもなく中国東北部(旧満州)から日本へ引き揚げる際、持ち込みが制限されたため税関に預けられた貯金通帳が4日、63年ぶりに持ち主の高知県芸西村西分、大野栄さん(87)へ返還された。
高知市桟橋通の神戸税関高知税関支署で開かれた返還式で、高齢のため欠席した栄さんの代わりに受け取った長男勝清さん(59)は
「母から話には聞いていたが、本当に残っているとは」
と通帳を感慨深げに見つめていた。税関が当時預かった金品のうち、全国で26万8000人分が2008年末現在、未返還のままとなっており、持ち主に返されたのは県内初。
勝清さんによると、栄さんは1943年5月、陸軍病院の看護婦として旧満州に渡って傷病軍人の看護にあたり、46年6月に京都府の舞鶴港へ引き揚げた。通帳は引き上げ直前、現地の日本人自治会を介して預けられたという。
通帳は旧姓の「横田栄」名義で、奉天郵政管理局が発行した「郵政 儲金 ( ちょきん ) 簿」。ほぼ毎月30円の入金が記帳されており、計985円を貯金していた。栄さんは通帳があったと最近になって勝清さんに話し、預かり証も持っていたため、勝清さんが同支署に照会。横浜税関に通帳が保管されていることが分かった。返還式では、山中伸二支署長が
「よく預かり証を持っていてくれました」
と勝清さんと妻に通帳を手渡した。
栄さんは戦時中のことをあまり語ってこなかったという。帰宅後、栄さんに通帳を手渡した勝清さんは
「母はじっと通帳を眺めていた。これをきっかけに、当時の話をじっくり聞いてみたい」
と話した。
同支署などによると、当時は朝鮮半島などの「外地」から国内に持ち込むことができた証券や通貨は、外為法や連合国軍総司令部(GHQ)の指令で制限されていた。また治安上の問題もあり、引き揚げ者は金品を在外公館や日本人自治会を通じて横浜税関に送還するなどしていたという。
[ 2009年11月5日(読売新聞)
2009年11月15日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
ムソリーニ、第1次大戦中に英諜報機関から資金援助
[ロンドン 14日 ロイター]
第2次世界大戦でイタリアのファシスト党を率いたムソリーニが、かつて経営していた日刊紙の発行のために、英国の諜報機関であるMI5から資金援助を受けていたことが分かった。MI5の公文書から支払い明細書を発見した英国の歴史家が14日、明らかにした。
歴史家のピーター・マートランド氏によると、ムソリーニは第1次世界大戦中にミラノで日刊紙「ポポロ・ディタリア」を発行。イタリアは当時、英国やフランスとともに、ドイツと戦火を交えていたが、資金援助はイタリアを連合国側にとどめておきたい英国による工作の一環として行われたという。
発見された支払い明細書によると、資金援助は1917年に行われ、週100ポンドがMI5からムソリーニに支払われていた。
ただ、マートランド氏は、援助資金のすべてが新聞発行のために使用されたわけでなく、女性好きで知られたムソリーニが
「多くの金を女性につぎ込んだと考えてもおかしくない」
と話している。
[ 2009年10月15日
2009年11月01日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(2) │TrackBack(0) │戦記
中国建設の日本人慰霊墓、日本が管理費支援
方正県政府が管理を続けてきた日本人公墓=牧野田亨撮影

中国東北部(旧満州)の黒竜江省・方正県で、敗戦時に死亡した日本人入植者の慰霊のために建てられた「日本人公墓」(共同墓地)に、日本政府が初めて維持管理費を支援することになった。
中国側が日本人のために建てた唯一の墓として知られ、これまでは方正県政府が全額負担してきた。地元では「改めて中日友好の礎にしたい」と歓迎の声があがっている。
敗戦の混乱のなか、方正県では厳寒と飢え、伝染病で入植者たちが次々に死亡。その数は約5000人に上る。生き延びた入植者の要望を受け、県政府は1963年、「日本人入植者も日本軍国主義の犠牲者だ」として遺骨を埋葬、高さ約3メートルの墓石を建てた。別の麻山地区で集団自決した約500人の墓石も隣に建てた。
日本に戻れなかった入植者たちは残留婦人や残留孤児となった。公墓近くには、国交回復後に帰国した残留孤児が、中国人養父母を追悼する墓石を建立。一帯は「中日友好園林」(約1万4000平方メートル)として整備され、日本から毎年、遺族ら約1000人が訪れる。方正県からも親族訪問などで年間約2000人が日本を訪問し、友好の歴史に根ざした交流が続いている。
県政府によると、常駐の管理人が清掃などを担当し、維持管理費は年間約20万元(約260万円)。2年前には約700万元(約9100万円)かけて園林に至る農道を舗装し、利便性を高めた。
ただ、農業中心の県の財政は厳しく、今年に入って日本政府に費用の一部負担を打診。日本政府は40年以上もきちんと管理されてきた経緯を踏まえ、9月末、日本人公墓の維持管理費として年間3万5000元(約50万円)を支援することにした。
県政府の王偉新・外事弁公室主任(38)は
「日本の支援は大きな助けとなる。中日の懸け橋として、園林の役割は一層高まるだろう」
と話している。(方正県で 牧野田亨)
[ 2009年10月10日 (読売新聞)
2009年10月23日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<日中戦争>平和を希求した父よ 子供たち感激の対面
何応欽総司令の長女麗珠さん(右)と対面し、談笑する今井武夫・旧日本陸軍少将の三男貞夫さん(左)と長女俊子さん=長野市岡田町で2009年10月2日午前11時57分、大島英吾撮影

日中戦争の和平工作に奔走した旧日本陸軍の今井武夫少将(1898~1982年)と、当時の中国国民党軍の何応欽(か・おうきん)総司令(1890~1987年)の子供たちが2日、今井少将の生地・長野市で初めて対面。両家族は涙ぐんで喜び合い、平和を希求した父たちの思い出を語り合った。
地元の歴史研究家らが「戦中も平和のために尽力した人がいたことを伝えたい」と企画して対面が実現した。
今井少将は北京に在駐していた37年7月、日中両軍が衝突した盧溝橋事件に遭遇。現地交渉で一時停戦にこぎつけた。しかし、日本政府が強硬策に転じ、泥沼の日中戦争に突入した。今井少将はその後も和平工作に努めた。
2人は終戦の際、南京で行われた日本の降伏文書調印の交渉に携わり、何総司令らに信頼された今井少将は戦犯を免れた。今井少将は戦後も1年以上、南京にとどまり、日本人の帰国に尽力。日本に留学経験もあった何総司令は、帰国者の私物の携行を許可するなど寛容だったという。
2人の子供たちは、長野市内のホテルで面会。台湾から来日した何総司令の長女麗珠さん(78)は
「父は日本を兄弟のように思い、戦争を嘆いた。70年近くたって互いの家族が会えてうれしい」
と語り、今井少将の三男貞夫さん(66)を見て
「お父さんにそっくり」
と笑顔を見せた。貞夫さんは
「父は和平がならなかったことを残念がっていたが『戦後処理ができたのは総司令のおかげ』と感謝していた」
と語った。【大島英吾】
[ 2009年10月3日(毎日新聞)
2009年10月14日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<第二次大戦70年>「ポーランドに開戦責任」露TVに反発
【ウィーン中尾卓司】
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した第二次世界大戦開戦から9月1日で70年を迎える。
開戦地の一つ、北部グダニスクでは同日、メルケル独首相やプーチン露首相らが出席して記念式典が開かれる。しかし、ポーランドでは「開戦のいきさつをめぐりロシアが歴史を歪曲(わいきょく)している」と反発が高まり、両国関係が悪化しかねない様相となっている。
ロシア国営テレビは今月20日、開戦につながった独ソ不可侵条約の締結70年に合わせ、「秘密議定書の秘密」と題した特別ドキュメンタリー番組を放映。番組は、ポーランドとドイツが1934年に軍事協力などに関する秘密議定書を結び、ソ連に対抗しようとしていたと指摘した。
これに対し、独ソに侵略されたポーランドでは「開戦の責任がポーランドにあるとの印象を与えるものだ」とメディアが一斉に批判を展開。ロシアでは6月にも同様の趣旨のテレビ番組が放映され、モスクワのポーランド大使館が「歴史の改ざんだ」と抗議したが、ロシア外務省は「テレビ局の番組内容にまで介入できない」と無視した経緯がある。
ポーランドのトゥスク首相は25日、
「他国のメディア報道にコメントする立場にない」
と語りながらも、
「誰が被害者か明らかだ。過去の事実に背を向け未来の関係を築くことはできない」
と不快感をあらわにした。
開戦直後の39年10月、ポーランド東部で2万人以上のポーランド人が行方不明となり、翌年、虐殺された「カチンの森事件」も両国間の大きな懸念だ。旧ソ連は90年になってソ連軍による虐殺だったと公式に認めた。しかしロシアは、ポーランド侵攻はナチスに対する防衛という立場から「戦争責任はない」との主張は変えていない。02年に大統領として訪れて以来、2度目の来訪となるプーチン首相が、どんな発言をするかも注目される。
◇ことば 独ソ不可侵条約
1939年8月23日、ソ連とドイツがモスクワで結んだ相互不可侵条約。署名した両国外相の名前から「モロトフ・リッベントロップ協定」とも呼ばれる。条約に付随する秘密議定書では、東欧・バルトにおける独ソ両国の勢力範囲が線引きされた。ドイツは9月1日、ソ連は同17日にポーランドに侵攻し、東西から同国を分割占領した。条約は41年6月の独ソ開戦で破綻(はたん)した。
[毎日新聞8月29日
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した第二次世界大戦開戦から9月1日で70年を迎える。
開戦地の一つ、北部グダニスクでは同日、メルケル独首相やプーチン露首相らが出席して記念式典が開かれる。しかし、ポーランドでは「開戦のいきさつをめぐりロシアが歴史を歪曲(わいきょく)している」と反発が高まり、両国関係が悪化しかねない様相となっている。
ロシア国営テレビは今月20日、開戦につながった独ソ不可侵条約の締結70年に合わせ、「秘密議定書の秘密」と題した特別ドキュメンタリー番組を放映。番組は、ポーランドとドイツが1934年に軍事協力などに関する秘密議定書を結び、ソ連に対抗しようとしていたと指摘した。
これに対し、独ソに侵略されたポーランドでは「開戦の責任がポーランドにあるとの印象を与えるものだ」とメディアが一斉に批判を展開。ロシアでは6月にも同様の趣旨のテレビ番組が放映され、モスクワのポーランド大使館が「歴史の改ざんだ」と抗議したが、ロシア外務省は「テレビ局の番組内容にまで介入できない」と無視した経緯がある。
ポーランドのトゥスク首相は25日、
「他国のメディア報道にコメントする立場にない」
と語りながらも、
「誰が被害者か明らかだ。過去の事実に背を向け未来の関係を築くことはできない」
と不快感をあらわにした。
開戦直後の39年10月、ポーランド東部で2万人以上のポーランド人が行方不明となり、翌年、虐殺された「カチンの森事件」も両国間の大きな懸念だ。旧ソ連は90年になってソ連軍による虐殺だったと公式に認めた。しかしロシアは、ポーランド侵攻はナチスに対する防衛という立場から「戦争責任はない」との主張は変えていない。02年に大統領として訪れて以来、2度目の来訪となるプーチン首相が、どんな発言をするかも注目される。
◇ことば 独ソ不可侵条約
1939年8月23日、ソ連とドイツがモスクワで結んだ相互不可侵条約。署名した両国外相の名前から「モロトフ・リッベントロップ協定」とも呼ばれる。条約に付随する秘密議定書では、東欧・バルトにおける独ソ両国の勢力範囲が線引きされた。ドイツは9月1日、ソ連は同17日にポーランドに侵攻し、東西から同国を分割占領した。条約は41年6月の独ソ開戦で破綻(はたん)した。
[毎日新聞8月29日
2009年09月08日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
全抑協、元抑留者の初の詳細調査 空腹、酷寒、重労働で苦労
【ウラジオストク共同】
第2次大戦後のシベリア抑留経験者らで組織する全国抑留者補償協議会(平塚光雄会長)は13日、シベリアやモンゴルでの抑留経験者を対象としたアンケート結果を発表。
計240人の回答者のうち大半が抑留中の最もつらかった点として「空腹・酷寒・重労働」の“三重苦”を挙げた。
回答者の平均年齢は85・4歳。戦後に詳細なアンケートが行われたのは今回が初めてという。
[ 2009年8月13日 (共同通信)
2009年08月30日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<本土空爆>日系人元米兵のクロキ氏「良心の呵責に悩んだ」
第二次世界大戦中に日系米国人としてただ一人、米陸軍航空隊に所属し日本の本土空爆も実行したベン・クロキさん(92)が、カリフォルニア州カマリロの自宅で毎日新聞のインタビューに応じた。クロキさんは、米国への忠誠心を示すため本土空爆を自ら志願したものの、空爆の際は
「良心の呵責(かしゃく)に悩んだ」
と、胸の内を明かした。【カマリロで小倉孝保】
クロキさんは米メディアに取り上げられたことはあるが、日本メディアのインタビューに答えたのは、戦後64年で初めて。
クロキさんは41年12月の旧日本軍による真珠湾(ハワイ)攻撃を
「裏切りのだまし討ちであり、(日系人として)恥ずかしかった」
と感じ、すぐに陸軍航空隊に入隊を希望した。しかし、当時、日系人は敵性市民・外国人扱いされ入隊は事実上、不可能だった。クロキさんは「涙ながらに」訴え続け、「奇跡的」に入隊を許可されたという。
入隊後は自分だけ皿洗いなどの汚れ仕事をさせられる「差別」を受けたが、耐えた。太平洋岸3州の日系人が強制収容されたことを知り、
「実戦で米国への、(日系人の)忠誠心を証明したいとの思いを強めた」
43年に欧州戦線でB24爆撃機の射撃手になり計30回の任務を完了。米国に戻り強制収容所3カ所を訪ねた際は
「中にいるのは私と同じ(日系の)人々で、監視しているのが、私と同じユニホームを着た兵士だったから、とてもショックだった」
と語る。
その後、日本の本土空爆を志願。両親の祖国を攻撃することについて、
「高校時代の親友がソロモン諸島で日本軍に殺されたため、全くちゅうちょはなかった」
と説明した。
45年、クロキさんはB29で東京や横浜を計28回、爆撃した。その時の模様について、重い口を開くように
「空爆を終え帰るとき、夜空が血のような赤に染まっていた。女性や子どもが猛烈な火の海から逃れられないことを思い、良心の呵責を感じた」
と語った。また、
「死者が10万人とも8万人ともなったことを知り悩んだ」
と打ち明けた。
クロキさんは戦後について、
「小さな日本が信じられないほどの経済発展を遂げてうれしい。かつて敵対した米国と日本が良好な関係を築いたことは驚くべきことだと思う」
と感慨深げに話した。
◇ベン・クロキ氏(BenKuroki)
鹿児島県出身の父と奈良県出身の母を持つ日系2世。第二次大戦中、功績を認めた米軍はクロキさんの乗るB29を「サッド・サキ(悲しい酒)」と名付けた。46年に退役した後、大学でジャーナリズムを学び84年までミシガン、カリフォルニア両州で新聞記者。
「良心の呵責(かしゃく)に悩んだ」
と、胸の内を明かした。【カマリロで小倉孝保】
クロキさんは米メディアに取り上げられたことはあるが、日本メディアのインタビューに答えたのは、戦後64年で初めて。
クロキさんは41年12月の旧日本軍による真珠湾(ハワイ)攻撃を
「裏切りのだまし討ちであり、(日系人として)恥ずかしかった」
と感じ、すぐに陸軍航空隊に入隊を希望した。しかし、当時、日系人は敵性市民・外国人扱いされ入隊は事実上、不可能だった。クロキさんは「涙ながらに」訴え続け、「奇跡的」に入隊を許可されたという。
入隊後は自分だけ皿洗いなどの汚れ仕事をさせられる「差別」を受けたが、耐えた。太平洋岸3州の日系人が強制収容されたことを知り、
「実戦で米国への、(日系人の)忠誠心を証明したいとの思いを強めた」
43年に欧州戦線でB24爆撃機の射撃手になり計30回の任務を完了。米国に戻り強制収容所3カ所を訪ねた際は
「中にいるのは私と同じ(日系の)人々で、監視しているのが、私と同じユニホームを着た兵士だったから、とてもショックだった」
と語る。
その後、日本の本土空爆を志願。両親の祖国を攻撃することについて、
「高校時代の親友がソロモン諸島で日本軍に殺されたため、全くちゅうちょはなかった」
と説明した。
45年、クロキさんはB29で東京や横浜を計28回、爆撃した。その時の模様について、重い口を開くように
「空爆を終え帰るとき、夜空が血のような赤に染まっていた。女性や子どもが猛烈な火の海から逃れられないことを思い、良心の呵責を感じた」
と語った。また、
「死者が10万人とも8万人ともなったことを知り悩んだ」
と打ち明けた。
クロキさんは戦後について、
「小さな日本が信じられないほどの経済発展を遂げてうれしい。かつて敵対した米国と日本が良好な関係を築いたことは驚くべきことだと思う」
と感慨深げに話した。
◇ベン・クロキ氏(BenKuroki)
鹿児島県出身の父と奈良県出身の母を持つ日系2世。第二次大戦中、功績を認めた米軍はクロキさんの乗るB29を「サッド・サキ(悲しい酒)」と名付けた。46年に退役した後、大学でジャーナリズムを学び84年までミシガン、カリフォルニア両州で新聞記者。
[ 2009年8月12日 (毎日新聞)
2009年08月23日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
旧陸軍の化学兵器?広島・大久野島沖で発見
引き揚げられた、旧日本軍の兵器とみられる物体(12日、広島県竹原市の大久野島で)=宇那木健一撮影

環境省は12日、広島県竹原市の大久野島沖の海底から、旧陸軍の化学兵器とみられる金属製の物体23個を引き揚げた。
物体は長さ約20センチ、直径約5センチで、くしゃみを起こさせる「赤筒」や催涙作用のある「緑筒」などとみられる。同省は「内容物が流出していても、環境に影響はない」としている。
同省は、大久野島と本土との間で送水管の敷設事業を進めていたが、今年1月の作業中に物体が見つかったため、事業を中止した。
[ 2009年8月12日 (読売新聞)
2009年08月21日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
関東の戦没者名21人公表=沖縄の捕虜収容所で死亡-NPO調査
太平洋戦争の戦没者の遺骨などを遺族に返還する活動をしている特定非営利活動法人(NPO法人)「戦没者を慰霊し平和を守る会」は7日、東京都庁で記者会見し、沖縄県の米軍捕虜収容所で亡くなったとみられる関東地方出身者21人の氏名を公表した。同会の塩川正隆副理事長(65)は
「遺族はぜひ名乗り出て」
と呼び掛けている。
塩川副理事長によると、同会は2月、米国の国立公文書館で約6000人分の英文表記の「太平洋戦争日本軍捕虜戦死者名簿」を入手。うち沖縄県で埋葬されたとされる240人分について、4月から3カ月かけて沖縄県平和祈念資料館(同県糸満市)にある「平和の礎(いしじ)」に刻まれた約24万人の戦死者名と照合した結果、階級と合わせ182人が一致した。名簿には氏名や階級のほか、埋葬場所を示す記号、日付、死因などが含まれていた。
同会は6月に沖縄県で記者会見し、182人の氏名を公表。これまでに戦没者20人の遺族から連絡があったという。塩川副理事長は
「遺骨はいったいどこにあるのか。遺族の方と一緒に調査し、せめて親と同じお墓に入れてあげたい」
と話している。
同会の連絡先は0942(89)5135。ホームページでもリストを公開している。
同会が今回公表した21人の氏名は次の通り(敬称略)
【茨城】清水文治【栃木】鈴木恒夫【埼玉】内田福太郎、岸喜一郎、増田耕作(上等兵)、増田耕作(不明)、中里今朝一【千葉】石川茂、岩井義治、中村清【東京】浅井謙二郎、江口新八郎、川本影久、岸原巌、佐藤正、芝本元春、高田明、竹内弥三郎、水澤武雄、渡辺一雄【神奈川】野村俊人。
[ 2009年8月7日[時事通信社]
2009年08月15日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<被爆者の声>元記者が集めたテープ14巻、ネットでも保存
1000人以上の被爆者にインタビューし、今年3月に72歳で亡くなった元放送記者、伊藤明彦さんが編集したカセットテープ14巻が、インターネットのサイト「被爆者の声」で順次公開され始めた。
サイトを訪れた人が被爆者の声をキーボードで打ち込むとテロップのように文字がサイト上に表示され保存される。サイトを運営するコピーライターの古川義久さん(55)は
「文字として打ち込むことで、原爆を知らない世代に証言の手伝いをしてもらいたい」
と話している。【平井桂月】
◇旧知の古川さん、HPに音声公開
NBC長崎放送の記者だった伊藤さんは70年に退社後、全国を回り、1003人の被爆者の証言をテープに収録した。このうち284人の証言を編集した9枚組みのCDを06年に完成させ、古川さんの提案を受けて同年5月にスタートした「被爆者の声」で公開した。
このCDとは別に、伊藤さんは14人分の証言をカセットテープに編集して89~92年、図書館など延べ944施設に合計1万6600巻を寄贈していた。しかし「反応はなく」(古川さんによる生前の伊藤さんの証言)、埋もれた形になっていた。テープは1人が1~2時間じっくりと語る構成。CDには入っていない、1954年にビキニ環礁で被ばくした第5福竜丸の漁労長、見崎吉男(みさき・よしお)さんの証言も含まれている。
「このテープを埋もれさせるのは惜しい」
伊藤さんが亡くなって1カ月後、古川さんの作業が始まった。聞き取りにくい音は専用のソフトで調整。現在、3人の証言を公開するまでにこぎつけた。「被爆者の声」のアドレスは
http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html
[毎日新聞8月4日]
2009年08月09日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
英、毒ガスで東京攻撃を検討=「小型爆弾が効果的」-第2次大戦
【ロンドン26日時事】
英公文書館は26日、第2次世界大戦中の1944年、英国当局が東京を毒ガスで攻撃する計画を検討していたことを示す秘密文書を公開した。同日付英紙タイムズによれば、欧州戦末期の翌45年1月の文書では、ドイツ軍にも同様の毒ガス武器を使用することが検討されていた。
政府系学者は44年5月8日付の「ガス爆弾による東京攻撃」と題するメモで、戦争省(国防省の前身)の軍事情報局長が提供した東京の情報や写真に基づいて、効率的な毒ガス攻撃を説明。「(東京の)冬は平均的に寒く、マスタードガスの危険は(日本人にとって)無視しうる程度かもしれない。暑い夏の場合、例年到来する大雨の間隙(かんげき)をぬって攻撃すればベター(より効果的)だろう」と述べている。
また、
(1)東京の建物の多くが木でできていて燃えやすい
(2)住宅地域は狭い通りばかりだが、オフィス街の通りは欧州型の広い道路だ
-などとした上で、「日本型建物の密集地域では通りは狭く、ガスの流れがそれによって阻害されてしまうだろう」と結論。この問題を解消するため「極めて多数の小型(ガス)爆弾を使用」するよう勧告している。
[ 2009年6月27日[時事通信社]
2009年07月05日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
米で発見の日本兵捕虜死亡者リスト、沖縄戦没者180人が一致
米国立公文書館で発見された太平洋戦争中の日本兵捕虜死亡者リストに沖縄で埋葬されたと記録されている約180人が、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の 礎 ( いしじ ) 」に刻まれた沖縄戦の戦没者名と一致することが、NPO法人「戦没者を慰霊し平和を守る会」(佐賀県みやき町)の調査でわかった。
リストには、不明確だった埋葬地や死因などが記載されており、同NPOは「リストは戦没者の足跡を知り、遺骨を見つける有力な手がかりとなる」として、県などに調査を求める方針。
リストは米国の戦争捕虜に関する情報機関が1952年に作成したもので、5979人分の氏名、階級、死亡日、死因、埋葬地などが英文で記されている。同NPOは今年1月、リストを入手。分析を進めたところ、沖縄に埋葬された捕虜が240人いることがわかった。
これを受け、同NPOは同公園内の県平和祈念資料館で、平和の礎に刻銘された戦没者の検索システムを利用して調査。うち約180人の氏名が一致し、氏名の漢字や出身県がわかった。一部については、死亡日や死亡場所も判明したが、リストの情報と異なるケースが多かったという。
県によると、平和の礎には現在、沖縄戦で亡くなった国内外の約24万人の氏名を刻銘。国内戦没者については、旧日本軍などの国内資料に基づいているという。
塩川正隆・同NPO副理事長は
「リストは、捕虜を管理していた米軍が作成したもので、旧日本軍の記録より正確なはず。遺骨はリストに記載された埋葬地にある可能性が高い」
とみている。リストには、沖縄の埋葬地名が8種類ほど記載されているが、いずれも場所は特定されておらず、同NPOは埋葬地について調べる。(小松一郎)
[ 2009年6月14日(読売新聞)
2009年06月23日 Posted by かるの at 20:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
沖縄の日章旗、親族見つかる…「小林正次郎」さんはなお不明
高田さん(右)に日章旗を手渡すビショフさん

米海軍横須賀基地に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントンの女性乗組員セネカ・ビショフさん(25)の祖父(故人)が戦時中、沖縄で発見した日本兵出征用の日章旗2枚のうち、1枚の方の親族が判明した。
東京都在住の2人で、29日に神奈川県横須賀市内のビショフさん宅を訪れ、約60年ぶりに身内に引き渡された。
海兵隊員だったビショフさんの祖父が1945年、 洞窟 ( どうくつ ) で見つけた日章旗2枚には、それぞれ「仮屋真之」さんと「小林正次郎」さんの名前が大きく入り、寄せ書きで埋まっていた。
名乗り出たのは東京都品川区のデザイナー高田由美さん(50)ら仮屋さんのめい2人。新聞でビショフさんが日章旗の持ち主を捜していることを知り、今月中旬に申し出た。
高田さんによると、仮屋さんは、寄せ書きに「 済々黌 ( せいせいこう ) の書生さん」とあったように熊本市育ち。中国・北京で勤務していた45年に現地召集され、旧ソ連によるシベリア抑留を経て47年に帰国したが、71年に46歳で病死した。
沖縄には従軍しておらず、なぜ沖縄の洞窟で日章旗が見つかったのか不明だが、仮屋さんの弟で高田さんの父 正董 ( せいとう ) さん(77)(山口県岩国市)は
「預かった同僚が日章旗を兄に渡せないまま、沖縄に従軍したのでは」
と推測している。
ビショフさんは、米国の母親とインターネットで連絡を取り、母子で
「うれしくて興奮している」
と感激。日章旗を受け取った高田さんは
「長く日章旗を保管していただき、不思議な縁を感じます。大事にしたい」
と感謝していた。日章旗は正董さんが預かるという。
もう1枚の「小林正次郎」さんの日章旗には「名古屋尋常小学校職員一同」のほか、「紫田一雄」「黒田和」らの名前があり、ビショフさんは
「こちらも見つかって欲しい」
と願っている。
「日の丸返したい」見つけた祖父の遺志継ぐ米空母女性兵曹
戦時中、出征した日本兵に贈られたとみられる2枚の日章旗の持ち主を、神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントン(GW)の女性乗組員セネカ・ビショフさん(25)(1等兵曹)が捜している。
日章旗は、ビショフさんの祖父が沖縄の 洞窟で見つけたもので、
「亡くなった祖父に代わって、ぜひ返したい」
と、情報提供を求めている。
日章旗は、いずれも縦66センチ、横81センチ。1枚は、出征する「仮屋真之」さんに向けて、「九州男児」「 済々黌 ( せいせいこう ) の書生さん、頑張れ」などと寄せ書きされており、熊本県の県立済々黌高校の出身者とみられている。
もう1枚の出征者は「小林正次郎」さん。寄せ書きの中に「名古屋尋常小学校職員一同」とあり、名古屋市の関係者の可能性が高い。
ビショフさんの祖父ポール・スミスさんは、海兵隊員として沖縄にいた1945年、戦場の洞窟の中で、この日章旗2枚を見つけ、カリフォルニア州の自宅に持ち帰った。スミスさんは14年前に亡くなったが、生前、自宅のトランクの中で日章旗を大切に保管し、
「自分たちの物ではない。いつか持ち主に戻したい」
と話していたという。
ビショフさんが昨年11月、GW勤務となって来日したのを機に、母親のロビン・モントイートンさん(47)が先月、日章旗をビショフさんに郵送し、持ち主を捜し始めた。モントイートンさんは、ビショフさんを訪ねて現在来日中で、母子は
「日米友好のためにも、祖父の願いをかなえてあげたい」
と話している。

米海軍横須賀基地に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントンの女性乗組員セネカ・ビショフさん(25)の祖父(故人)が戦時中、沖縄で発見した日本兵出征用の日章旗2枚のうち、1枚の方の親族が判明した。
東京都在住の2人で、29日に神奈川県横須賀市内のビショフさん宅を訪れ、約60年ぶりに身内に引き渡された。
海兵隊員だったビショフさんの祖父が1945年、 洞窟 ( どうくつ ) で見つけた日章旗2枚には、それぞれ「仮屋真之」さんと「小林正次郎」さんの名前が大きく入り、寄せ書きで埋まっていた。
名乗り出たのは東京都品川区のデザイナー高田由美さん(50)ら仮屋さんのめい2人。新聞でビショフさんが日章旗の持ち主を捜していることを知り、今月中旬に申し出た。
高田さんによると、仮屋さんは、寄せ書きに「 済々黌 ( せいせいこう ) の書生さん」とあったように熊本市育ち。中国・北京で勤務していた45年に現地召集され、旧ソ連によるシベリア抑留を経て47年に帰国したが、71年に46歳で病死した。
沖縄には従軍しておらず、なぜ沖縄の洞窟で日章旗が見つかったのか不明だが、仮屋さんの弟で高田さんの父 正董 ( せいとう ) さん(77)(山口県岩国市)は
「預かった同僚が日章旗を兄に渡せないまま、沖縄に従軍したのでは」
と推測している。
ビショフさんは、米国の母親とインターネットで連絡を取り、母子で
「うれしくて興奮している」
と感激。日章旗を受け取った高田さんは
「長く日章旗を保管していただき、不思議な縁を感じます。大事にしたい」
と感謝していた。日章旗は正董さんが預かるという。
もう1枚の「小林正次郎」さんの日章旗には「名古屋尋常小学校職員一同」のほか、「紫田一雄」「黒田和」らの名前があり、ビショフさんは
「こちらも見つかって欲しい」
と願っている。
[ 2009年4月30日 (読売新聞)
「日の丸返したい」見つけた祖父の遺志継ぐ米空母女性兵曹
戦時中、出征した日本兵に贈られたとみられる2枚の日章旗の持ち主を、神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントン(GW)の女性乗組員セネカ・ビショフさん(25)(1等兵曹)が捜している。
日章旗は、ビショフさんの祖父が沖縄の 洞窟で見つけたもので、
「亡くなった祖父に代わって、ぜひ返したい」
と、情報提供を求めている。
日章旗は、いずれも縦66センチ、横81センチ。1枚は、出征する「仮屋真之」さんに向けて、「九州男児」「 済々黌 ( せいせいこう ) の書生さん、頑張れ」などと寄せ書きされており、熊本県の県立済々黌高校の出身者とみられている。
もう1枚の出征者は「小林正次郎」さん。寄せ書きの中に「名古屋尋常小学校職員一同」とあり、名古屋市の関係者の可能性が高い。
ビショフさんの祖父ポール・スミスさんは、海兵隊員として沖縄にいた1945年、戦場の洞窟の中で、この日章旗2枚を見つけ、カリフォルニア州の自宅に持ち帰った。スミスさんは14年前に亡くなったが、生前、自宅のトランクの中で日章旗を大切に保管し、
「自分たちの物ではない。いつか持ち主に戻したい」
と話していたという。
ビショフさんが昨年11月、GW勤務となって来日したのを機に、母親のロビン・モントイートンさん(47)が先月、日章旗をビショフさんに郵送し、持ち主を捜し始めた。モントイートンさんは、ビショフさんを訪ねて現在来日中で、母子は
「日米友好のためにも、祖父の願いをかなえてあげたい」
と話している。
[ 2009年4月8日 (読売新聞)
2009年05月02日 Posted by かるの at 21:03 │Comments(0) │TrackBack(0) │戦記
<雑記帳>日露戦争の戦利品、拳銃を発見 モスクワで展示へ
奈良県内の民家で見つかった「ナガンM1895」

日露戦争の際、元日本兵が戦利品として持ち帰ったとみられるロシア製の拳銃「ナガン」が奈良県内の民家で発見された。100年以上を経て、モスクワの博物館に展示されることになった。
外交関係者によると、日露戦争に従軍歴がある男性が死亡し、遺品整理中の06年5月に見つかった。在日ロシア大使館経由で照会したところ、「歴史的価値があり、本国に引き取りたい」と回答があった。
1902年製で、帝政ロシアの将校が所有していたらしい。ナガンは旧ソ連時代まで使われた。戦争の記憶が呼び覚まされる武器が平和裏に返還されたことは、日露の友好の進展を印象づけた。【柳澤一男】
[ 2009年3月23日 (毎日新聞)

