中里遺跡・小田原市(1)
中里遺跡は神奈川県小田原市鴨宮に在る。
以下は当地にある説明板から
中里遺跡ポケットパーク

中里遺跡は、1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われました。
その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)の東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりましだ。
右の図のように第Ⅰ地点では多くの住居や倉庫、井戸などのある集落、第Ⅱ地点では水田、第Ⅲ地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。
こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより、弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。
また出土した瀬戸内地方の土器などから、遠く400キロも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術を東日本で最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。
中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから、発掘された住居跡の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。
2000年9月 株式会社ダイドーリミテッド 小田原市教育委員会
2010年03月15日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
小田原市・石垣山一夜城(3)
石垣山一夜城は、豊臣秀吉による小田原攻めに際して築かれた城である。

以下は当地の説明板から
石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18(1590)年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて約二十二万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりました。
この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城とも言われています。
ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分および東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。
「新編相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道のすぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。
小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本衛の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では詳細は不明です。

以下は当地の説明板から
石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18(1590)年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて約二十二万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりました。
この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城とも言われています。
ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分および東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。
「新編相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道のすぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。
小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本衛の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では詳細は不明です。
2010年03月05日 Posted by かるの at 21:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
小田原市・石垣山一夜城(2)
石垣山一夜城は、豊臣秀吉による小田原攻めに際して築かれた城である。

展望台から小田原城を望む。
小田原城を見下ろしつつ、小田原城からは手前の丘で微妙に見えそうで見えない地形である。
以下は当地の説明板から
国指定史跡 石垣山一夜城
所在地:小田原市早川字梅ケ窪一三八三
指 定:昭和三四年五月一三日
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約ニ・五km、国道一号線から東へ約一kmのところにあります。また小田原城まで僅か三kmのところにあり、標高二五七mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
石垣山は、もと笠懸山、松山など呼ばれていましたが、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸一五万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。
秀吉は、この城に滞在していた一〇〇日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えてあったといえます。
この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により昭和六二年度に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。
2010年02月25日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
小田原市・石垣山一夜城(1)
石垣山一夜城は、豊臣秀吉による小田原攻めに際して築かれた城である。
以下は当地の説明板から
石垣山一夜城の構造
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が二六一・五mあります。小田原城の本丸よリ二二七m高く、また小田原城までの距離はわずか三kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。

この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています しかし、実際には約四万人が動員され、天正十八年の四月初めから六月下旬までの八〇日間が費やされました。
城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規摸な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については享保五年(一七二〇)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。
城道は、井戸曲輪の北方からニの丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートのニ筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは秀吉の威信を示していました。
現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、南北の延長は約五五〇m、東西の最大幅は二七五mあります。
2010年02月15日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
愛知県岡崎市・外山古墳群
外山古墳群は岡崎市戸崎町にある。大型スーパー建設時に発掘調査が行われた。
近くには神明宮があり、古代から人の暮らしがあった所と分かる。


この古墳について取り上げたサイトは以下の通り
http://okazakikeikan.boo-log.com/e51416.html
以下は当地の説明板から
外山古墳群(岡崎市戸崎町字外山)
この古墳群は、古墳時代中期から後期にかけて築かれました。
外山第一号墳(5世紀後半)
こんもりした一号墳は、丸い形をした墳丘で、マツリに使われた埴輪や須恵器などが見つかっています。
外山第三号墳(5世紀末から6世紀はじめ)
3号墳の墳丘の外側には、墳丘を守るための 鳥や馬などの形をした形象埴輪と円筒埴輪
中心にあった石室の中からは葬られた人に供えられた馬具や鉄鏃などが発見されました。
愛知県岡崎市 外山古墳群発掘調査概報」岡崎市教育委員会発行 より抜粋
現在は大型スーパーの敷地内に緑地公園として一部が保存されている。
近くには神明宮があり、古代から人の暮らしがあった所と分かる。
この古墳について取り上げたサイトは以下の通り
http://okazakikeikan.boo-log.com/e51416.html
以下は当地の説明板から
外山古墳群(岡崎市戸崎町字外山)
この古墳群は、古墳時代中期から後期にかけて築かれました。
外山第一号墳(5世紀後半)
こんもりした一号墳は、丸い形をした墳丘で、マツリに使われた埴輪や須恵器などが見つかっています。
外山第三号墳(5世紀末から6世紀はじめ)
3号墳の墳丘の外側には、墳丘を守るための 鳥や馬などの形をした形象埴輪と円筒埴輪
中心にあった石室の中からは葬られた人に供えられた馬具や鉄鏃などが発見されました。
愛知県岡崎市 外山古墳群発掘調査概報」岡崎市教育委員会発行 より抜粋
現在は大型スーパーの敷地内に緑地公園として一部が保存されている。
2010年02月05日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
掛川市・平塚古墳
平塚古墳は掛川市にある。

以下は当地にある説明板から。
掛川市指定文化財 平塚古墳

平成十三年二月二十七日指定
種別 史跡
所在地 掛川市上西郷
二三八二、二三九〇、
二三九一ノー一
所 有 者 法泉寺・中村清一・桑野英一
平塚古墳は、倉真川右岸の標高約50mの独立丘陵の先端にあり、平野から約2Omも高い位置にあります。ここからは、南方に位置する掛川城も遠くに望むことができますので、眺望の良い高所に築かれていることがわかります。
これまで、直径約三〇m、高さ五mの円墳と言われてきましたが、平成十年の確認調査によって、一辺二〇~二五mの方墳であった可能性が出てきました。
石室は、玄室の長さ5.25m、幅0.8m、羨道の長さ8.20mで、石室内には、ニ基の組合せ式箱形石棺が収められています。
この石室からは、太刀・刀子・玉類・耳環・須恵器・土師器などが発見されたと伝えられています。平塚古墳が造られたのは、六世紀後半から末頃と推定され、この時期の掛川市の歴史を知る上で、とても重要な古墳となっています。

石室を覗く

石室上から覗く

抱石
右が前の棺、左が後の棺の中の古墳の霊が逃げないように胸の上に置かれた石といわれています。

古墳がある台地から南方を望む

以下は当地にある説明板から。
掛川市指定文化財 平塚古墳

平成十三年二月二十七日指定
種別 史跡
所在地 掛川市上西郷
二三八二、二三九〇、
二三九一ノー一
所 有 者 法泉寺・中村清一・桑野英一
平塚古墳は、倉真川右岸の標高約50mの独立丘陵の先端にあり、平野から約2Omも高い位置にあります。ここからは、南方に位置する掛川城も遠くに望むことができますので、眺望の良い高所に築かれていることがわかります。
これまで、直径約三〇m、高さ五mの円墳と言われてきましたが、平成十年の確認調査によって、一辺二〇~二五mの方墳であった可能性が出てきました。
石室は、玄室の長さ5.25m、幅0.8m、羨道の長さ8.20mで、石室内には、ニ基の組合せ式箱形石棺が収められています。
この石室からは、太刀・刀子・玉類・耳環・須恵器・土師器などが発見されたと伝えられています。平塚古墳が造られたのは、六世紀後半から末頃と推定され、この時期の掛川市の歴史を知る上で、とても重要な古墳となっています。
掛川市教育委員会

石室を覗く

石室上から覗く

抱石
右が前の棺、左が後の棺の中の古墳の霊が逃げないように胸の上に置かれた石といわれています。

古墳がある台地から南方を望む
2010年01月25日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
沼津市 辻畑古墳
元々は熊野神社として古い由緒のある神社であった。当地の「熊堂」という地名もそれを物語る。
その社の建っている高まりが古墳ではないかとは実しやかに伝わっていたが、今回の発掘調査で古墳である事が確認された。
発掘過程の写真をスライドにしました。
前方後方墳という古墳形態は特に東日本に多く、前方後円墳よりも古い年代の物が多い。

被葬者が埋葬されたであろうと考えられる地点。

後方部断面

出土品





以下は2009年9月13日に行われた現地説明会にて配られた資料より
辻畑古墳発掘調査見学会資料
1.調査の経緯
平成17年年度に建設部街路課(現在は道路建設課)から都市計画道路沼津南一色線(昭和36年都市計画決定)の建設用地となる高尾山穂見神社とその移転先の地域に埋蔵文化財があるかどうか教育委員会(文化振興課)に問い合わせがあり、試掘調査の結果発見することができました。
教育委員会は、開発行為と文化財保護の調整に必要な埋蔵文化財の情報を得る目的で試掘や踏査などの分布調査を実施していますが、私有地を勝手に掘ることはできないので、工事をしようとする機会を捉えていただきながら分布調査をしています。熊野神社境内については、19年に試掘調査を実施しました。この
(伝)辻畑占墳とされてきた高尾山穂見神社の高台は古墳であることが確認されました。このときは、範囲も狭く、一部しか試掘できなかったため、平面形が方形となる「方墳と考えられました。前方後方墳であることを最終確認したのは、東熊堂自治会館建設に際して実施した平成20年5月の本発掘調査です。
2.前方後方墳とは

前方後方墳の名称は、その名が示すとおり前に矩形又は台形を呈した土台があリ、後ろにも方形の土台がある占墳につけらわた名前です。これに対して、前方後円墳は、前に方形の土台後ろに円形の土台があります。前方部は、ここで祭礼を執り行ったと考えられています。後方部は前方部より 一段高く、ここに棺を埋葬する埋葬部をもつことが一般的です。年代的には、にその発生は古く、前方後円墳との関係から考えてそれより占くなるものが多いと考えられています。静岡県で確認されている前方後方哨は、辻畑古墳を含めても5基しかありません。
午王堂山3号墳(静岡市清水区)77.6m・ 浅間古墳(富士市)103m ・ 北岡大塚古墳(磐田市)49.5m・小銚子塚(磐田市)47m・新宝院山2号墳(磐田市)34.3mがあり、その年代は新宝院山2号墳と小銚子塚が4世紀前半、午王堂山と浅間は4世紀後半位と考えられています。丸ケ谷戸(富士宮市)26.2mは、3世紀後半と考えられていますが、弥生時代以来の前方後方型周溝菓と考えられてます。
真上から見た形は、右図のようになります。高尾山穂見神社の社殿が乗っていた高台は、発掘調査によって後方部であることがわかりました。
前方後方墳の発生は、主に弥生時代後期末から造られ始める前方後方形墳丘墓との関連が考えられ、古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)でよく造られています。日本列島には約500基の前方後方墳が存在します。
愛知県の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40mもあり、前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられています。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の一辺にこうした突出状の祭壇を設ける墓が流行しました。
その例として愛知県の廻間墓があげられ、祖形と考えられています。この墳形は、西は京都府から東は千葉県までひろがっているそうです。
3.辻畑古墳の概要
全長約62m・後方部幅推定35m・前方部最大幅推定24m・墳丘盛土高約4m・くびれ部幅9.6m、埋葬施設1箇所・埋葬構造:木棺直葬・木棺の形状:調査中・出土遺物:銅鏡1~2面、槍1点、鉄族10点以上、ヤリ鉋1点、その他錆により形状の判らない鉄製品など出土した土器型式などから3世紀代の古墳である可能性が高まっています。
現在、発掘調査は終了し道路計画によって撤去される予定であったが、学術的な評価が固まるのを待ってから、保存か撤去かを判断する予定である。
その社の建っている高まりが古墳ではないかとは実しやかに伝わっていたが、今回の発掘調査で古墳である事が確認された。
発掘過程の写真をスライドにしました。
前方後方墳という古墳形態は特に東日本に多く、前方後円墳よりも古い年代の物が多い。

被葬者が埋葬されたであろうと考えられる地点。

後方部断面

出土品





以下は2009年9月13日に行われた現地説明会にて配られた資料より
辻畑古墳発掘調査見学会資料
1.調査の経緯
平成17年年度に建設部街路課(現在は道路建設課)から都市計画道路沼津南一色線(昭和36年都市計画決定)の建設用地となる高尾山穂見神社とその移転先の地域に埋蔵文化財があるかどうか教育委員会(文化振興課)に問い合わせがあり、試掘調査の結果発見することができました。
教育委員会は、開発行為と文化財保護の調整に必要な埋蔵文化財の情報を得る目的で試掘や踏査などの分布調査を実施していますが、私有地を勝手に掘ることはできないので、工事をしようとする機会を捉えていただきながら分布調査をしています。熊野神社境内については、19年に試掘調査を実施しました。この
(伝)辻畑占墳とされてきた高尾山穂見神社の高台は古墳であることが確認されました。このときは、範囲も狭く、一部しか試掘できなかったため、平面形が方形となる「方墳と考えられました。前方後方墳であることを最終確認したのは、東熊堂自治会館建設に際して実施した平成20年5月の本発掘調査です。
2.前方後方墳とは

前方後方墳の名称は、その名が示すとおり前に矩形又は台形を呈した土台があリ、後ろにも方形の土台がある占墳につけらわた名前です。これに対して、前方後円墳は、前に方形の土台後ろに円形の土台があります。前方部は、ここで祭礼を執り行ったと考えられています。後方部は前方部より 一段高く、ここに棺を埋葬する埋葬部をもつことが一般的です。年代的には、にその発生は古く、前方後円墳との関係から考えてそれより占くなるものが多いと考えられています。静岡県で確認されている前方後方哨は、辻畑古墳を含めても5基しかありません。
午王堂山3号墳(静岡市清水区)77.6m・ 浅間古墳(富士市)103m ・ 北岡大塚古墳(磐田市)49.5m・小銚子塚(磐田市)47m・新宝院山2号墳(磐田市)34.3mがあり、その年代は新宝院山2号墳と小銚子塚が4世紀前半、午王堂山と浅間は4世紀後半位と考えられています。丸ケ谷戸(富士宮市)26.2mは、3世紀後半と考えられていますが、弥生時代以来の前方後方型周溝菓と考えられてます。
真上から見た形は、右図のようになります。高尾山穂見神社の社殿が乗っていた高台は、発掘調査によって後方部であることがわかりました。
前方後方墳の発生は、主に弥生時代後期末から造られ始める前方後方形墳丘墓との関連が考えられ、古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)でよく造られています。日本列島には約500基の前方後方墳が存在します。
愛知県の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40mもあり、前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられています。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の一辺にこうした突出状の祭壇を設ける墓が流行しました。
その例として愛知県の廻間墓があげられ、祖形と考えられています。この墳形は、西は京都府から東は千葉県までひろがっているそうです。
3.辻畑古墳の概要
全長約62m・後方部幅推定35m・前方部最大幅推定24m・墳丘盛土高約4m・くびれ部幅9.6m、埋葬施設1箇所・埋葬構造:木棺直葬・木棺の形状:調査中・出土遺物:銅鏡1~2面、槍1点、鉄族10点以上、ヤリ鉋1点、その他錆により形状の判らない鉄製品など出土した土器型式などから3世紀代の古墳である可能性が高まっています。
現在、発掘調査は終了し道路計画によって撤去される予定であったが、学術的な評価が固まるのを待ってから、保存か撤去かを判断する予定である。
2010年01月15日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
神戸市・琵琶塚
琵琶塚は神戸市兵庫区にある。
以下は当地にある説明板から

琵琶塚は以前、清盛塚と小道を挟んで北西にあった、もとは前方後円式の古墳であって、その形から琵琶塚と呼ばれていた。
平家物語にみえる琵琶の名人、平経正(清盛の弟、経盛の長男で経俊、敦盛の兄)に結びつけて、琵琶塚つまり、経正の塚と言われる様になった事は延宝八年(1680)「福原びんかがみ」に記されている。
明治三十五年有志が、塚の周辺に大石を積んだ上に大きな自然石に「琵琶塚」と彫って建てたが大正十二年市電松原線がつき、道路拡張のとき清盛塚とともに現地に移転した。
昭加六十三年十一月
以下は当地にある説明板から
琵琶塚
琵琶塚は以前、清盛塚と小道を挟んで北西にあった、もとは前方後円式の古墳であって、その形から琵琶塚と呼ばれていた。
平家物語にみえる琵琶の名人、平経正(清盛の弟、経盛の長男で経俊、敦盛の兄)に結びつけて、琵琶塚つまり、経正の塚と言われる様になった事は延宝八年(1680)「福原びんかがみ」に記されている。
明治三十五年有志が、塚の周辺に大石を積んだ上に大きな自然石に「琵琶塚」と彫って建てたが大正十二年市電松原線がつき、道路拡張のとき清盛塚とともに現地に移転した。
昭加六十三年十一月
2010年01月05日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
千葉県館山市・安房神社洞窟遺跡
安房神社洞窟遺跡は安房神社境内にある。

以下は当地の説明板から。
一九三二年、井戸の掘削工事の時に地表下一mほどのところで、偶然に洞窟がみつかった。東北方向に開口部があるこの海食洞は、全長約十一m、高さ一一m、幅一mの大きさで、現在は再び地下に眠っている。
洞窟の発見直後の緊急発掘調査の結果、人骨二十二体の他、貝製腕輪一九三個、縄文土器、古墳時代の土師器などが出土し、ここが古代の墓所であることがわかった。人骨十五体には、健康な歯を故意に抜く風習である抜歯の跡があり、当時の習俗を知る上で貴重だが、弥生時代とされる時期については再検討が必要である・人骨の一部は近くの宮ノ谷に再び埋葬され、忌部塚として祀られている。
館山市教育委員会
現在は埋められている。

以下は当地の説明板から。
千葉県指定史跡 安房神社洞窟遺跡
昭和四十一一年三月七日指定
一九三二年、井戸の掘削工事の時に地表下一mほどのところで、偶然に洞窟がみつかった。東北方向に開口部があるこの海食洞は、全長約十一m、高さ一一m、幅一mの大きさで、現在は再び地下に眠っている。
洞窟の発見直後の緊急発掘調査の結果、人骨二十二体の他、貝製腕輪一九三個、縄文土器、古墳時代の土師器などが出土し、ここが古代の墓所であることがわかった。人骨十五体には、健康な歯を故意に抜く風習である抜歯の跡があり、当時の習俗を知る上で貴重だが、弥生時代とされる時期については再検討が必要である・人骨の一部は近くの宮ノ谷に再び埋葬され、忌部塚として祀られている。
館山市教育委員会
現在は埋められている。
2009年12月25日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
富士市・富士塚
富士塚は富士市鈴川にある。

以下は当地の説明板から
史跡 富士塚(天の香久山)
ここに積み上げられた石は、むかし富士登山をする人々が、登山の安全を析って海水で水垢離をしたのち、海岸の石をひとつづつ置いていったものです。
また、むかしこの海岸に大津波がおしよせて多くのひとびとが家を失い苦しんでいたとき、鈴川村の豪農であった三平という者が「施し米」をするかわり、ひとびとに浜から小石をひとつづつ運ばせ築いたことから「三平塚」とも呼ぶ、とのはなしも伝わっています。
なお、戦国時代には相模国の北条氏はたびたびここを本陣とし、今川氏、甲斐国の武田氏と対峙したといわれ、現在に「天の香久山砦」の名前を残しています。
以下は当地の説明板から
史跡 富士塚(天の香久山)
ここに積み上げられた石は、むかし富士登山をする人々が、登山の安全を析って海水で水垢離をしたのち、海岸の石をひとつづつ置いていったものです。
また、むかしこの海岸に大津波がおしよせて多くのひとびとが家を失い苦しんでいたとき、鈴川村の豪農であった三平という者が「施し米」をするかわり、ひとびとに浜から小石をひとつづつ運ばせ築いたことから「三平塚」とも呼ぶ、とのはなしも伝わっています。
なお、戦国時代には相模国の北条氏はたびたびここを本陣とし、今川氏、甲斐国の武田氏と対峙したといわれ、現在に「天の香久山砦」の名前を残しています。
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浜松市佐久間 水巻城址
水巻城跡は現在、「さくま郷土遺産保存館」の所在する地にあった城である。

(画像は「るるぶ」より)
以下は当地にある説明板から
水巻城は天龍川の作った河岸段丘上にあり、天然の要塞を持った城である。
この城には、奥山氏の一族、奥山美濃守定茂が在城した。奥山氏は奥山郷(現水窪町及び佐久間町の一部)を領し、その本城を高根城(水窪町)に置き、支城をここ水巻城を始め大洞若子城(佐久関町城西)小川城(佐久間町町大井)と置き、領域を治めると共に、南北に通ずる信州街道、天龍川を抑えるなど地域性に即した役割を果たした。
奥山由諸によれば、奥山氏は南北朝期からこの地に入り、戦国期の動乱の中で、ある時は今川氏に、またある時は武田氏に属していた。
城址は平沢台地上の宥泉寺とされるが、城を示す遺構等が発見されていないので定かではないが、築城年代は戦国期とみられている。
武田氏に属し設楽原合戦に臨んだ奥山氏であったが織田・徳川連合軍による武田軍の総崩れにともない水巻城も落城していった。
頃は天正四年~八年(一五七六~一五八〇)城主、奥山美濃守定茂は信濃に落ちる。
佐久間町地域活性化委員会(2009・10.18)

(画像は「るるぶ」より)
以下は当地にある説明板から
所在地 佐久間町中部字平沢
城名 水巻城
城名 水巻城
水巻城は天龍川の作った河岸段丘上にあり、天然の要塞を持った城である。
この城には、奥山氏の一族、奥山美濃守定茂が在城した。奥山氏は奥山郷(現水窪町及び佐久間町の一部)を領し、その本城を高根城(水窪町)に置き、支城をここ水巻城を始め大洞若子城(佐久関町城西)小川城(佐久間町町大井)と置き、領域を治めると共に、南北に通ずる信州街道、天龍川を抑えるなど地域性に即した役割を果たした。
奥山由諸によれば、奥山氏は南北朝期からこの地に入り、戦国期の動乱の中で、ある時は今川氏に、またある時は武田氏に属していた。
城址は平沢台地上の宥泉寺とされるが、城を示す遺構等が発見されていないので定かではないが、築城年代は戦国期とみられている。
武田氏に属し設楽原合戦に臨んだ奥山氏であったが織田・徳川連合軍による武田軍の総崩れにともない水巻城も落城していった。
頃は天正四年~八年(一五七六~一五八〇)城主、奥山美濃守定茂は信濃に落ちる。
佐久間町地域活性化委員会(2009・10.18)
2009年12月05日 Posted by かるの at 21:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
静岡市・瓢箪塚古墳
瓢箪塚古墳は「ひょうたん塚公園」という公園に隣接している。


以下は現地にある説明板から
瓢箪塚古墳
西ノ原一号墳(前方後円墳)
清水市草薙字西ノ原三十一番地
この古墳の築造年代は、凡そ六世紀初頭古墳時代後期と推定されています。
昭和五十二年調査の結果周溝の存在も確認され、全体の保存状態極めて良竹な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代廬原国と云はれ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土他の人々と戦った事び古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫・意加部彦がイオハラ国の国造となりこの地方を支配したと云はれております。それよりずっと下って西暦六六三年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳・牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。なおこの付近には、古墳が点在しておりましたが畑地や宅地の開発が進み現在は道を隔だてた北東側に一ヶ所を残すのみとなって居ります。貴重な遺跡の保存に皆様方の御協力を戴ければ幸いです。


以下は現地にある説明板から
瓢箪塚古墳
西ノ原一号墳(前方後円墳)
清水市草薙字西ノ原三十一番地
この古墳の築造年代は、凡そ六世紀初頭古墳時代後期と推定されています。昭和五十二年調査の結果周溝の存在も確認され、全体の保存状態極めて良竹な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代廬原国と云はれ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土他の人々と戦った事び古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫・意加部彦がイオハラ国の国造となりこの地方を支配したと云はれております。それよりずっと下って西暦六六三年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳・牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。なおこの付近には、古墳が点在しておりましたが畑地や宅地の開発が進み現在は道を隔だてた北東側に一ヶ所を残すのみとなって居ります。貴重な遺跡の保存に皆様方の御協力を戴ければ幸いです。
2009年11月25日 Posted by かるの at 21:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
静岡市・天皇原
天皇原は静岡市草薙に鎮座する草薙神社周辺を云う。
現在は故事に因んで命名された公園が在る。
以下は当地にある説明板から
「天皇原と古宮」
日本の古い歴史書「日本書記」に書かれている日本武尊の「草薙の剣物語」にかかわる、由緒ある土地で、草薙川をはさんでこの付近の平な土地を天皇原と呼んでいる。尊の父「景行天皇」がこの地を訪れ乗物を留められ、日本武尊を偲び神社を建て、尊の霊を祀られ草薙神社と名付けられました。
今、此の所を「古宮」と呼ばれるのは、草薙神社が現在の地に遷座されるまでは此の所にあったので、その名が残っている。
では何時頃遷座されたか、草薙神社建築の記録によると天正十八年(一五九〇)徳川家康公が造営されたという、棟札が有り。また寛政九年秋里籬嶋作・東海道名所図絵・巻四・草薙神社の項に
「初めは少し西に神社ありしが天正十八年官家(徳川家康)の台命によってここに移す」という記録もあり、その頃遷座されたと思われている。今は、社と鳥居と両側の樹木が旧草薙神社跡地として守られている。
現在は故事に因んで命名された公園が在る。
以下は当地にある説明板から
「天皇原と古宮」
日本の古い歴史書「日本書記」に書かれている日本武尊の「草薙の剣物語」にかかわる、由緒ある土地で、草薙川をはさんでこの付近の平な土地を天皇原と呼んでいる。尊の父「景行天皇」がこの地を訪れ乗物を留められ、日本武尊を偲び神社を建て、尊の霊を祀られ草薙神社と名付けられました。
今、此の所を「古宮」と呼ばれるのは、草薙神社が現在の地に遷座されるまでは此の所にあったので、その名が残っている。
では何時頃遷座されたか、草薙神社建築の記録によると天正十八年(一五九〇)徳川家康公が造営されたという、棟札が有り。また寛政九年秋里籬嶋作・東海道名所図絵・巻四・草薙神社の項に
「初めは少し西に神社ありしが天正十八年官家(徳川家康)の台命によってここに移す」という記録もあり、その頃遷座されたと思われている。今は、社と鳥居と両側の樹木が旧草薙神社跡地として守られている。
2009年11月15日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
磐田市・高見丘遺跡群
高見丘遺跡群は東名高速道路・遠州豊田パーキングエリアにある。

以下は当地にある説明板から

今、みなさんが立っているところから少し見上げるとそこには磐田原台地が広がっています。この台地には、みなさんの祖先の生活したあと(遺跡)がたくさんあり、ここ磐田市高見丘周辺にも「高見丘遺跡群」といわれる遺跡が発見されています。
ここに遠州豊田パーキングエリアが建設されることになり、平成6年12月から1年9か月の間、約2万5干mの広さを発掘調査しました。
その結果、今から約2万年前の旧石器時代の石の道具である「石器」をつくったあと約30か所や焼いた石で料理をしたあと約130か所、人がほった穴のあと9か所など、多くのくらしのあとが発見されました
。
こうしたものが、土の中から出てきたことで、2万年ものむかし、この台地の上で、石器をつくり、動物
を追い、木の実をとりながら、くらした人々のいたことがはっきりとわかりました。
私たちの祖先が自然とたたかい、また自然ととも生きていたことを、次の時代の人々へ語りついでいただけたらと思います。

人間がほった穴 一土坑-(左の写真)
人々が暮らしたあとから少し離れた場所で、丸い穴や四角い穴が発見されました。土坑といいます。丸い穴は直径約80cm、四角い穴は―辺約90cmで、両方とも深さ1mぐらいの深さで、中には2m近いものもありました。木の実などの食料をたくわえるための貯蔵穴や動物を捕るための落とし穴などと考えられています。
石の道具―石器ー(左の写真)旧石器のくらし 焼け石の集まり―礫群―(石の展示)

握りこぶしぐらいの大きさの丸い石を数十個集めた跡が発見されました。礫群といいます。石は火で焼かれ、赤くなったり割れたりしていました。炭粒も残っていたことから、石を火で焼き、石蒸し料理のような方法で調理をした跡と考えられています。展示した礫群は実際に出土したものを忠実に復元してあります。
多くの石の道具(石器)が発見されました。握りこぶしぐらいの大きさの石を運び、それを打ち欠いて石器を作っています。狩りに使った石 ものを突き刺したり切ったりするナイフ形石器、ものを削る削器などがあります。また、木の実をすりつぶすのに用いた石皿も出土しました。

以下は当地にある説明板から
高見丘遺跡群
―遠州豊田パーキングエリア建設に伴う発掘調査-

今、みなさんが立っているところから少し見上げるとそこには磐田原台地が広がっています。この台地には、みなさんの祖先の生活したあと(遺跡)がたくさんあり、ここ磐田市高見丘周辺にも「高見丘遺跡群」といわれる遺跡が発見されています。
ここに遠州豊田パーキングエリアが建設されることになり、平成6年12月から1年9か月の間、約2万5干mの広さを発掘調査しました。
その結果、今から約2万年前の旧石器時代の石の道具である「石器」をつくったあと約30か所や焼いた石で料理をしたあと約130か所、人がほった穴のあと9か所など、多くのくらしのあとが発見されました
。
こうしたものが、土の中から出てきたことで、2万年ものむかし、この台地の上で、石器をつくり、動物
を追い、木の実をとりながら、くらした人々のいたことがはっきりとわかりました。
私たちの祖先が自然とたたかい、また自然ととも生きていたことを、次の時代の人々へ語りついでいただけたらと思います。
平成19年
磐 田 市 教 育 委 員 会
静 岡 県 教 育 委 員 会
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所(調査)
静 岡 県 教 育 委 員 会
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所(調査)

人間がほった穴 一土坑-(左の写真)
人々が暮らしたあとから少し離れた場所で、丸い穴や四角い穴が発見されました。土坑といいます。丸い穴は直径約80cm、四角い穴は―辺約90cmで、両方とも深さ1mぐらいの深さで、中には2m近いものもありました。木の実などの食料をたくわえるための貯蔵穴や動物を捕るための落とし穴などと考えられています。石の道具―石器ー(左の写真)旧石器のくらし 焼け石の集まり―礫群―(石の展示)

握りこぶしぐらいの大きさの丸い石を数十個集めた跡が発見されました。礫群といいます。石は火で焼かれ、赤くなったり割れたりしていました。炭粒も残っていたことから、石を火で焼き、石蒸し料理のような方法で調理をした跡と考えられています。展示した礫群は実際に出土したものを忠実に復元してあります。
多くの石の道具(石器)が発見されました。握りこぶしぐらいの大きさの石を運び、それを打ち欠いて石器を作っています。狩りに使った石 ものを突き刺したり切ったりするナイフ形石器、ものを削る削器などがあります。また、木の実をすりつぶすのに用いた石皿も出土しました。
2009年11月05日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
浜松市佐久間町・半場遺跡
半場遺跡はJR飯田線・中部天竜駅のホームにある

以下はホ-ムにある説明文
半場遺跡は、1933年に三信鉄道(飯田線の前進)中部天竜駅の建設工事に際して発見されました。
出土した土器・石器・敷石住居跡・石畳・井戸状敷石・土偶、埋葬墓地などから、縄文時代中期初頭から弥生時代後期の長期間にわたり、ここに人々の生活が営まれていたことがわかりました。
そして土器は、関東系、中部山地系、東海系のものから、遠く東北系や関西系のものが複雑に混り合っています。
これは、この地域が中部山地圈と東海地域圈の境界に位置し、矢作川、豊川、天竜川を介して両地域間の交流点にあることや、そのルートは遠く東北地方や関西方面にまで通じていたことを物語っています。
この展示物は、1933年(昭和8年)に三信鉄道(飯田線の前身)中部天竜駅建設工事の中で発見された半場遺跡の出土品です。
配石遺構は、ホーム辰野方の先端附近から出土し、南北約7m、東西約7mの範囲内に敷き並べられていました。
これは従来まで敷石住居跡と言われて来ましたが、石はこのようにでこぼこに並べられ、礎石になる石もないことから、この上に建物が建っていた可能性は低いと言われています。
近年では、原始的な神社の形態を示す遺構の可能性が重視され、山や岩をご神体とし、配石遺構で祭祀を行ったものではないかと言われ、神社信仰を研究する上で責重な資料とされています。

以下はホ-ムにある説明文
半場遺跡は、1933年に三信鉄道(飯田線の前進)中部天竜駅の建設工事に際して発見されました。
出土した土器・石器・敷石住居跡・石畳・井戸状敷石・土偶、埋葬墓地などから、縄文時代中期初頭から弥生時代後期の長期間にわたり、ここに人々の生活が営まれていたことがわかりました。
そして土器は、関東系、中部山地系、東海系のものから、遠く東北系や関西系のものが複雑に混り合っています。
これは、この地域が中部山地圈と東海地域圈の境界に位置し、矢作川、豊川、天竜川を介して両地域間の交流点にあることや、そのルートは遠く東北地方や関西方面にまで通じていたことを物語っています。
佐久間町教育委員会
この展示物は、1933年(昭和8年)に三信鉄道(飯田線の前身)中部天竜駅建設工事の中で発見された半場遺跡の出土品です。
配石遺構は、ホーム辰野方の先端附近から出土し、南北約7m、東西約7mの範囲内に敷き並べられていました。
これは従来まで敷石住居跡と言われて来ましたが、石はこのようにでこぼこに並べられ、礎石になる石もないことから、この上に建物が建っていた可能性は低いと言われています。
近年では、原始的な神社の形態を示す遺構の可能性が重視され、山や岩をご神体とし、配石遺構で祭祀を行ったものではないかと言われ、神社信仰を研究する上で責重な資料とされています。
佐久間町教育委員会
2009年10月29日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
下田市・恵比寿島遺跡
下田市・恵比寿島遺跡に行って来ました。

この島の頂からは7世紀から8世紀の須恵器や祭祀に使われたと思われる滑石の臼玉や、手づくねの土器が発見されている。
祭祀遺物の土層からは火を焚いた跡もあり、海の彼方の神々を祀ったと推測される。
下田市には白浜神社の火達山遺跡、田牛の遠国島遺跡などにも同様の遺跡が見られる。
ただ私の勝手な推測だが、祭祀だけでなく、伊豆半島沖合いを航行する舟の灯台様な役割もあったのではないかと考える。

手で触っただけでも崩れてしまうほど侵食しています。もしかすると失われた遺物も多いかもしれません。

若山牧水の歌碑。牧水は恵比寿島の灯台守をしていた友人を訪ねて逗留した時に詠んだ。

この島の頂からは7世紀から8世紀の須恵器や祭祀に使われたと思われる滑石の臼玉や、手づくねの土器が発見されている。
祭祀遺物の土層からは火を焚いた跡もあり、海の彼方の神々を祀ったと推測される。
下田市には白浜神社の火達山遺跡、田牛の遠国島遺跡などにも同様の遺跡が見られる。
ただ私の勝手な推測だが、祭祀だけでなく、伊豆半島沖合いを航行する舟の灯台様な役割もあったのではないかと考える。

手で触っただけでも崩れてしまうほど侵食しています。もしかすると失われた遺物も多いかもしれません。

若山牧水の歌碑。牧水は恵比寿島の灯台守をしていた友人を訪ねて逗留した時に詠んだ。
2009年07月19日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
河津町 見高段間遺跡
河津町今井浜にある見高段間遺跡に行って来ました。
河津町立東小学校の造成時に発見されました。
縄文時代早期から中期の遺跡で、大量の黒曜石の出土が特徴。
その総量は250キロにもなり、20キロ近い原石もあった。その殆どが神津島産であり、関東一帯で出土される黒曜石が神津島からの産出で、産出された黒曜石はここに陸揚げされたのではないかと推測されている。

すぐ裏には式内社である見高神社があり、古来から重要な土地であったようだ。
出土した遺物が小学校で展示しています。小学校が開いている時間であれば見学が出来ます。

現在の小学校の校庭が遺跡地です。

校庭の隅には復元された住居があります。

子供たちにも重要な遺跡であると伝えて欲しいと思います。
河津町立東小学校の造成時に発見されました。
縄文時代早期から中期の遺跡で、大量の黒曜石の出土が特徴。
その総量は250キロにもなり、20キロ近い原石もあった。その殆どが神津島産であり、関東一帯で出土される黒曜石が神津島からの産出で、産出された黒曜石はここに陸揚げされたのではないかと推測されている。

すぐ裏には式内社である見高神社があり、古来から重要な土地であったようだ。
出土した遺物が小学校で展示しています。小学校が開いている時間であれば見学が出来ます。

現在の小学校の校庭が遺跡地です。

校庭の隅には復元された住居があります。

子供たちにも重要な遺跡であると伝えて欲しいと思います。
2009年07月06日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
浜松市 蜆塚遺跡
地名の由来ともなった蜆塚遺跡を見る。
浜松市博物館も併設され、遺跡公園となっています。



「蜆塚」がこのように見れます。ブツブツしているのは全て貝殻です。

地名になったのも頷けます。所々、魚の骨なども見えますが、とにかくこの貝殻の量は圧巻です。ちょっと寒気もします。
現在も浜名湖が潮干狩りで賑わうのも頷けます。
遺跡の年代とは異なりますが、浜名湖周辺で見られた農家を移築してあります。

浜松市博物館も併設され、遺跡公園となっています。



「蜆塚」がこのように見れます。ブツブツしているのは全て貝殻です。

地名になったのも頷けます。所々、魚の骨なども見えますが、とにかくこの貝殻の量は圧巻です。ちょっと寒気もします。
現在も浜名湖が潮干狩りで賑わうのも頷けます。
遺跡の年代とは異なりますが、浜名湖周辺で見られた農家を移築してあります。


