豪快な「炮烙割」に歓声 京都の壬生狂言始まる
壬生寺で始まった「壬生狂言」の人気演目「炮烙割」で、舞台から皿を豪快に落とす演者=21日午後、京都市中京区

国の重要無形民俗文化財、壬生狂言が21日、京都市中京区の壬生寺で始まった。
カンデンデンとかねや太鼓のはやしが鳴る中、観客は面をつけた演者の軽妙な無言劇を堪能した。午後1時、人気演目「炮烙割」で開演した。税を免除するという立て札をめぐり炮烙売りと太鼓売りが争う筋書き。
見せ場では厄よけを願って参拝客が奉納した素焼き皿1000枚が高さ約3メートルの舞台の手すりから豪快に落とされた。
[ 2009年4月21日 (共同通信)
2009年04月30日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
<エジプト>鮮明!古代の赤 王朝の4神殿発見
【カイロ和田浩明】
エジプト・シナイ半島北部で3000年以上前に建てられた古代エジプト王朝の神殿4カ所がこのほど発見された。
エジプト考古最高評議会によると、神殿は第18、19王朝時代(紀元前1550~同1186年ごろ)のもので、日干しれんがで造られていた。うち最大の神殿は縦70メートル、横80メートルの敷地にあり、内部には古代エジプトの王トトメス2世やラムセス2世、古代の太陽神ホルスなどの色彩画が描かれていた。
要塞(ようさい)のように厚さ3~4メートルの壁も見つかった。
[毎日新聞4月23日]
2009年04月30日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
100年前の騎兵演習場復元、スポーツ施設に…盛岡・覆練兵場
多目的施設として生まれ変わることになった旧日本陸軍の覆練兵場(盛岡市青山で)

盛岡市は、旧陸軍の「 覆 ( おおい ) 練兵場」(盛岡市青山)を、フットサルなどのスポーツやイベントに使える多目的施設に再生する方針を固めた。
歴史的建造物としての保存を望む住民に配慮し、レンガの亀裂部分の補修など改修を最小限にとどめる。2010年度中に着工し、12年度からの開放を目指す。
覆練兵場は、幅約24メートル、奥行きが約49メートルの平屋建てで、床面積は約1160平方メートル。赤レンガ造りの外観が特徴。1909年に旧陸軍の騎兵演習場として建設され、2005年に市が国から取得した。
市の構想によると、歴史的建造物として保存する意味合いもあるため、建物の外観に関しては、創設時の状態に復元することを目指しながら、敷地内にクラブハウスなどを整備する。
一帯には、別の2つの覆練兵場があったが、昨年相次いで取り壊されており、市が所有する覆練兵場の活用策に関心が集まっていた。
同市青山に住む小山田稔さん(56)は
「今時珍しい赤レンガの色が印象的で、地域のシンボルのような建物。ただ存在するだけでなく、実際に住民が使えるように整備されるのは喜ばしい」
と話す。
全国的にも、覆練兵場が建設当時の姿のまま保存活用される例は珍しい。北海道旭川市にある同様の覆練兵場跡は国の重要文化財に指定されており、盛岡市も国の登録有形文化財への申請を検討している。
[ 2009年4月24日 (読売新聞)
2009年04月29日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
正倉院の宝物そっくり、滋賀「下之郷遺跡」出土の人面容器
下之郷遺跡で出土した「人の顔」を模したココヤシ製の容器(24日、滋賀県守山市の市立埋蔵文化財センターで)=奥村宗洋撮影

滋賀県守山市の環濠集落跡「下之郷遺跡」の出土品で、熱帯原産のココヤシの実の殻を加工して人の顔に見立てた容器が、奈良・正倉院に伝わる宝物「椰子実」と似た造形とわかり、24日、市教委が発表した。
弥生時代中期後半(約2200年前)の遺物とみられ、人面を模したココヤシ製の容器としては国内最古。当時、東南アジアとの交易が内陸部にまで及んでいた可能性を示す貴重な史料となりそうだ。
容器は長さ10・3センチ、高さ10センチの楕円形で、1993年11月に出土。直径約4センチの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で着色されていた。

滋賀県守山市の環濠集落跡「下之郷遺跡」の出土品で、熱帯原産のココヤシの実の殻を加工して人の顔に見立てた容器が、奈良・正倉院に伝わる宝物「椰子実」と似た造形とわかり、24日、市教委が発表した。
弥生時代中期後半(約2200年前)の遺物とみられ、人面を模したココヤシ製の容器としては国内最古。当時、東南アジアとの交易が内陸部にまで及んでいた可能性を示す貴重な史料となりそうだ。
容器は長さ10・3センチ、高さ10センチの楕円形で、1993年11月に出土。直径約4センチの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で着色されていた。
[ 2009年4月24日(読売新聞)
2009年04月29日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │考古学(埋蔵文化財)
古代の“モード”似合うかな?福岡の小6が衣装体験
古代衣装を身にまとい歴史の勉強をする福岡市立堤小の6年生(23日、福岡市城南区で)=久保敏郎撮影

福岡市城南区樋井川の市立堤小(本田タカ子校長、637人)で23日、児童が古代衣装を身にまとった“ファッションショー”が行われた。
衣装は、福岡市埋蔵文化財センターが、高松塚古墳(奈良県明日香村)の壁画などを参考に復元した。「古代の生活を身近に感じてほしい」と同センター学芸員らが同小に出向いて指導。この日は6年生108人が、黄や緑などの弥生、古墳、飛鳥時代の衣装に袖を通した。
[ 2009年4月23日 (読売新聞)
2009年04月28日 Posted by かるの at 14:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史を学ぶ
<吉野ケ里遺跡>ガラス管玉、誤って破損 滋賀県立博物館
破損したガラス管玉=滋賀県安土町下豊浦の県立安土城考古博物館で2009年4月24日午後7時27分、南文枝撮影

滋賀県安土町の県立安土城考古博物館は24日、企画展のため文化庁から借りていた吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)出土のガラス管玉(くだたま)(重要文化財、佐賀県立博物館保管)46点のうち十数点を誤って破損したと発表した。
県立安土城考古博物館によると、23日午後5時半ごろ、学芸課長(63)が点検のため、糸で一連につなげられた管玉や銅剣などを載せた台(縦60センチ、横90センチ)を展示ケースから取り出した際、バランスを崩して管玉だけを約70センチ下の床に落としたという。床は布張りだったため大きな衝撃はなかったが、ガラス管玉同士がぶつかって一部が欠けた。
ガラス管玉は89年3月、吉野ケ里遺跡の墳丘墓(弥生時代中期、紀元前2~1世紀ごろ)から計79点が出土。長さ1.8~6.8センチ、直径0.6~1センチの円筒形で、明るい青色をしており、埋葬されていた王族の地位の高さを示す装飾品という。91年に国の重要文化財に指定された。
県立安土城考古博物館は25日から6月14日まで開催の企画展「大型建物から見えてくるもの」で展示する予定だったが、事故を受け出展を取りやめ、修理する方針。【南文枝、金志尚】
[ 2009年4月25日 (毎日新聞)
2009年04月28日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
「細雪」の自筆原稿も、谷崎潤一郎の特別展…兵庫・芦屋
兵庫県芦屋市の市谷崎潤一郎記念館は23日、市民約20人を招き、春の特別展「『細雪』60年-今、出合う二つの原稿」(24日~6月28日)を一足早く公開する「特別無料内覧会」を開いた。
同館は、1日から指定管理者になった読売新聞大阪本社、武庫川女子大、中央公論新社、大阪よみうり文化センターの4者でつくる事業連合が運営。「地域に親しまれる文学館に」と企画した。
参加者は、谷崎の代表作「細雪」の自筆原稿や、洋画家・小磯良平が描いた挿絵の原画など約80点を鑑賞。谷崎が岡山県真庭市で執筆したとみられる「細雪」の下書き原稿7枚と、完成稿を一緒に展示している。
副館長のたつみ都志・武庫川女子大教授は
「谷崎は遅筆の作家。二つの原稿を見比べると、苦しみながら原稿を書いたのがわかる」
と解説。芦屋市翠ヶ丘町の稲田和基さん(70)は
「偉大な作家の苦悩に触れ、身近に感じられた」
と話した。
[ 2009年4月23日 (読売新聞)
細雪の四姉妹、運命を思いあぐねた文豪…下書き原稿公開へ
「こいさんも嘸(さぞ)喜ぶことでせう」。完成稿と全く違う文面が記されていた「細雪」の下書き原稿

大阪の旧家に育った四姉妹の人間模様を華やかに描く文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)の代表作「細雪」の下書き原稿7枚が来月24日から、兵庫県芦屋市の谷崎潤一郎記念館で公開される。
完成稿と正反対の姉妹の運命をも想像させる“謎の手紙”が筆書きされていた。調査した武庫川女子大のたつみ都志教授は
「谷崎が苦心して名作を生んだ過程の伝わる貴重な資料」
としている。
下書きは、谷崎が45年から約1年疎開した岡山県真庭市の元旅館で記されたらしい。4年前、記念館に寄贈された。
長女の鶴子を筆頭に、幸子、雪子、妙子の織り成す物語は、雪子と妙子の結婚問題を軸に進む。下書きは妙子の男性関係を鶴子が、監督役の幸子に手紙で詰問する前後の場面だった。
手紙は書き出しが完成稿と同じ。だが、妙子の交際相手に触れた文面は、<(相手の家の)意向が分つて安心しました……何事も貞之助さんや幸子ちやんにお任せします……兄さんにはそのうち話して置きます、こいさんも 嘸 ( さぞ ) 喜ぶことでせう>と続く。
完成稿が強硬に、<断然たる処置を取って欲しい>と迫るのに対し、温情的な内容で際立っていた。
下書きは、千葉県流山市の稲沢秀夫さん(80)が92年に存在を確認し、私家本での指摘にとどめていた。
[ 2009年3月31日(読売新聞)
2009年04月27日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │人物伝
100年前の看護婦の仮装写真見つかる、ヒゲ軍人や薬売り姿
長野市上松の水野宗一さん(72)方から、仮装した日本赤十字社の看護婦が写った、約100年前の写真が見つかった。
水野さんは写真を、日赤県支部に併設されている県赤十字歴史資料館(長野市南県町)に寄付することにしている。
民家の庭のようなところで撮影された写真には、男性1人と女性14人が写っている。女性たちは、ひげをはやして刀を持った軍人や、荷物を背負った薬売りなど、凝った仮装をしている。
写真は厚紙に張られており、裏には、「明治四捨壱年捨壱月参日」(1908年11月3日)という撮影の日付とともに、「赤十字病院看護婦」が明治天皇の誕生日の天長節を祝い、余興で仮装したという説明と、15人全員の名前が書き込まれている。撮影者や撮影場所は書かれていなかった。
水野さんは、この写真が自宅にあることは知っていたが、昨年秋頃、改めて見て、日赤の看護婦の写真だと気づいた。水野さんの祖父の時代の写真とみられるが、家族に日赤関係者はおらず、
「なぜ家に残っていたのか、まったくわからない」
という。水野さんは
「日露戦争後の、まだのんびりした時代の雰囲気を感じることができる。しかるべきところに保管してもらうのがいいと思う」
と話す。
同資料館は、1899年(明治32年)に建てられた旧日本赤十字社長野支部事務所の一部を修復したもので、現存する国内の日赤支部の建物で最も古い。日赤の資料を展示する施設としては、国内随一とされるが、日赤県支部の中村秀徳・総務課主事は
「資料館にも、明治時代の写真は数少ない。まして仮装している写真は見たことがない。機会をみつけて展示したい」
と話している。
[ 2009年4月21日(読売新聞)
2009年04月26日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │近現代史
アル・カポネ作曲の歌、CDに=獄中で執筆-米
【ニューヨーク17日時事】
1930年代の米国で「暗黒街のボス」として恐れられたアル・カポネが作曲したラブソングがCD化され、来月にも発売されることになった。米メディアが17日までに伝えた。
カポネは冷徹なギャングの顔とともに、バンジョーなどを弾きこなす音楽愛好家の側面も持ち合わせていた。
歌のタイトルは「マドンナ・ミア」。「空にあるのはたった一つの月と、たった一つの輝く太陽。僕にもたった1人、愛する人がいる。それが君さ」と情熱的に歌い上げるイタリア歌謡曲風の作品だ。カポネが30年代、脱税の罪で収監されたカリフォルニア州アルカトラズ島の連邦刑務所で執筆し、知人に贈った。
[ 2009年4月17日[時事通信社]
2009年04月26日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │人物伝
明代だけで「万里」超=8851km…長城全面測量で判明
【北京=杉山祐之】
中国政府は18日、勇壮な城壁で名高く、日本人にもなじみが深い明代(1368~1644)の「万里の長城」の総延長が8851・8キロであると発表した。
国家文物局などが、2006年に開始した長城保護プロジェクトの一環として、全面的な測量を実施した。長城は秦、漢など他時代にもつくられており、2010年までに測量するという。
現在の中国の「1里」は500メートルに相当、明代の長城だけで「万里」を大きく超えることになる。
[ 2009年4月18日 (読売新聞)
2009年04月26日 Posted by かるの at 09:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
四神図「青竜」の復元図が完成 キトラ古墳、最新写真も
公開されたキトラ古墳の四神図「青竜」の推定復元図(奈良文化財研究所飛鳥資料館提供)

奈良文化財研究所飛鳥資料館は16日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末-8世紀初め)の極彩色壁画で、大半が泥に覆われて見えない四神図「青竜」の推定復元図を公開。
文化庁は同日、石室からはぎ取り、保存処置が終わった青竜図の最新写真を公開。復元図は17日-6月21日、実物の壁画は5月8-24日に同資料館(明日香村)で展示する。
[ 2009年4月16日 (共同通信)
2009年04月25日 Posted by かるの at 21:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
字や史実の違い気にせず友好第一…遼寧省の阿倍仲麻呂の碑
阿倍仲麻呂の記念碑を指し示す石興道さん(東港市で)=牧野田亨撮影

黄海に面した中国遼寧省東港市に、奈良時代に唐に渡った阿倍仲麻呂が立ち寄ったとする記念碑がある。
単なる伝説で史実としては怪しいが、碑を巡るエピソードには日中の近代史が反映されており、地元では「日中友好の新たな礎にしたい」との声が上がっている。
東港市西部にある大孤山の急な山道を約20分間かけて登ると、唐代から続く道教のお寺、聖水宮にたどり着く。
◆碑の名前は「安部仲麿」◆
碑はその入り口にあり、はっきり「安部仲麿之遺跡」と刻まれていた。正しくは「阿倍」のはずだが、住職の石興道さんは
「唐の高官になった有名な日本人。あなたが言う阿倍仲麻呂のこと」
と自信たっぷりに言う。
遣唐使として唐に渡った阿倍が、一度帰国しようとして嵐に遭い、船が今のベトナムに流されたことはよく知られる。東港市の伝説では、阿倍はもう1回帰国しようとして黄海で船が難破し、漁民に救われて大孤山に着いた。郷土史にもそう記されている、という。
この伝説が碑に結びつくのは、近代になってから。日清戦争の後、聖水宮に来た日本人が伝説を聞き、阿倍の 位牌 ( いはい ) を残した。その後に訪ねて来た日本の軍人らが位牌に感激し、おさい銭を置いていく姿を見て、当時の住職・胡然方が1934年に碑を建てた。胡は阿倍の 廟 ( びょう ) を造り、座像も安置。聖水宮は日本人の観光名所となり、胡はこの功績が満州国に認められ、日本に招待されるなど厚遇を受けたという。
だが、日本の敗戦後、胡は身を守るため廟と座像を壊し、碑を山中に隠した。胡の死後、83年に碑が見つかり、再建されたという。石さんは
「胡は文化大革命で日本のスパイとして捕まった。妻が日本人だったという話もある」
と言う。
◆仲麻呂「その地に行ったことはない」◆
遣唐使に詳しい奈良大の東野治之教授によると、大孤山に近い朝鮮半島経由の渡航ルートもあったが、阿倍の時代には使われていなかった。東野教授は
「阿倍が帰国しようとしたのは1回だけ。その地に行ったことはない」
と話す。
もっとも、石さんは伝説の真偽や、碑の由来はあまり気にしていない。
「碑は歴史の一部。今は日中友好の時代だ。その証しとして、多くの人に見に来てほしい」
と笑った。(東港市で 牧野田亨)
[ 2009年4月18日 (読売新聞)
2009年04月25日 Posted by かるの at 14:01 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
<太宰治>未発見の顔写真 旧制弘前高時代のアルバムから
単独で撮影された丸刈り姿の太宰治の写真(弘前大付属図書館提供)

弘前大(青森県弘前市)は15日、作家、太宰治(本名・津島修治)が通った旧制弘前高校時代の学級アルバムから未発見の太宰の顔写真が見つかったと発表した。写真は中学生だった1927年の撮影で、17歳の丸刈り頭の太宰が素朴な表情で写っている。同大は「太宰が一人で写った当時の写真はなく、貴重な資料」としている。
アルバムは、学校側が生徒の資料用に作った「昭和二年四月入学写真帖」で、太宰の写真は「文甲1組」のページに載っていた。縦87ミリ、横56ミリで、左胸には旧制青森中学時代の優等生を表す「優」の字が入った銀色バッジが付けられていた。
写真右中央には、文甲1組に合格した41人の中での成績順を示す「16」の数字がスタンプで押され、写真左下には「14」と手書きされていた。「14」は、実際の入学者を成績上位から並べた席次を表しているといい、既に見つかっている学籍簿とも一致した。
写真は、同大付属図書館が旧弘前高の資料を整理中に見つけた。太宰が中学を1年早く修了後、高校受験のため青森市の写真館で撮影したとみられる。同大人文学部の山口徹准教授は
「清新でひたむきな太宰の一面を伝える肖像写真だ」
と話している。【塚本弘毅】
[ 2009年4月15日 (毎日新聞)
2009年04月24日 Posted by かるの at 21:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │人物伝
<重要文化財>高島屋東京店、百貨店で初の指定へ…8件答申
重要文化財への指定を答申された高島屋東京店=文化庁提供

文化審議会(西原鈴子会長)は17日、東京・日本橋の百貨店「高島屋東京店」や泡盛を醸造する沖縄県名護市の「津嘉山酒造所施設」など建造物8件(新規7件、追加1件)を重要文化財に指定するよう、塩谷立文部科学相に答申した。百貨店の重文指定は初めて。
高島屋東京店は地上8階、地下3階建て。現在の約3分の1の規模で1933年に建てられ、戦後に増築した。当初の建築部分は西欧の歴史様式に日本的要素を加味し、増築部分は近代建築の手法を駆使するなど、一体不可分の作品として完成度が高いとされた。
津嘉山酒造所施設は28年ごろ建てられたとみられ、現在も稼働中。昭和初期の酒造施設の形態を良くとどめ、歴史的価値が高いとされた。
また、「重要伝統的建造物群保存地区」に石川県の輪島市黒島地区と福岡県の黒木町黒木の二つの伝統的建造物群保存地区を新たに選定するよう答申した。【加藤隆寛】
◇他に重文指定を答申された建造物は次の通り。
白岩堰堤(えんてい)砂防施設(富山市、富山県立山町)▽忠谷家住宅(石川県加賀市)▽旧遠江国(とおとうみのくに)報徳社公会堂(静岡県掛川市)▽随願寺(兵庫県姫路市)▽旧魚梁瀬(やなせ)森林鉄道施設(高知県奈半利町、田野町、安田町、馬路村、北川村)=以上新規▽小野家住宅(長野県塩尻市)=隠居屋などを追加指定
[ 2009年4月17日 (毎日新聞)
2009年04月24日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
幸せな結婚祈り、未婚女性がまるまげで練り歩き…富山
市内を練り歩き、最終地点の千手寺にたどり着いた女性たち(17日、氷見市の千手寺で)

着物にまげ姿の未婚女性が町を練り歩く「まるまげ祭り」が17日、富山県氷見市内で行われ、県内外から18歳以上の未婚女性45人が参加した。
この日参加した45人のうち、カナダやアイルランドなど外国からも5人が参加。丸いまげのカツラに着物姿の女性たちは、市中心部を約1時間かけて練り歩き、沿道に並ぶアマチュアカメラマンらが盛んに撮影していた。市内の中学校で外国語指導助手(ALT)を務める米国テキサス州出身のジュリー・ヒーリーさん(22)は
「着物を着たり、(まげのカツラをかぶるために)髪を整えたりするのが初めて。準備からとても面白かった」
と笑顔を見せた。
祭りは、幸せな結婚を願う市内の芸者たちが、既婚者の象徴の丸いまげを結って千手寺(氷見市幸町)に参拝したのが始まりとされる。
[ 2009年4月18日 (読売新聞)
2009年04月24日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
ムソリーニ長女が禁じられた恋 手紙発見
【ローマ19日共同】
イタリアの独裁者ムソリーニの長女エッダが、父親のファシズム体制と戦ったパルチザンのボンジョルノ氏と恋に落ちていたことが、最近見つかったエッダの恋文などで明らかになった。
コリエレ・デラ・セラ紙などが19日までに伝えた。
エッダはファシズム体制崩壊後、イタリアの反ファシズム政権により南部シチリア島沖の小島リパリに一時拘束されたが、そこでボンジョルノ氏と知り合った。
[ 2009年4月19日(共同通信)
2009年04月23日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
幻の南蛮菓子「ケジヤアド」、佐賀でレシピ発見…再現して販売
試作品の「ケジヤアド」

江戸時代の書物に名前だけが出てくる幻の南蛮菓子「ケジヤアド」のレシピ(作り方)が、佐賀市の老舗菓子店「鶴屋」に伝わる古文書(鶴屋文書)に記されていることが分かった。
カボチャのあんを、小麦粉やゴマ油で作った皮で包んで焼いたもので、チーズを使ったポルトガルの焼き菓子を日本風にアレンジしたとみられる。専門家は「南蛮菓子の歴史を調べる上で貴重な発見」と評価しており、鶴屋はこの菓子を再現し、夏頃に売り出す計画だ。
ケジヤアドの名前が登場するのは、長崎出身の天文学者・西川如見(1648~1724年)の談話を筆録した「長崎 夜話草 ( やわそう ) 」。カステラや金平糖などとともに、長崎土産の南蛮菓子として記されている。
[ 2009年4月20日 (読売新聞)
2009年04月23日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
<起し太鼓>男1000人裸の激突 岐阜・飛騨
大太鼓が鳴り響き始まった古川祭の「起し太鼓」=岐阜県飛騨市古川町で2009年4月19日午後9時39分、兵藤公治撮影

裸男約1000人がもみ合う勇壮な「起(おこ)し太鼓」が19日夜、岐阜県最北の飛騨市古川町で繰り広げられた。大太鼓(直径80センチ)を乗せた太鼓櫓(やぐら)へ突進する集団と、阻止しようとする集団の激しい攻防が深夜まで続き、沿道や民家の2階に陣取った約3万人の見物客は荒々しい神事に酔いしれた。
午後9時過ぎ、さらし姿の集団が市中心部の広場へ集結し、高さ3メートルの太鼓櫓の上にまたがった若者がバチを振り下ろして「ドーン、ドーン」と出発の合図。弓張りぢょうちんをかざす裸男の音頭で、櫓は古い町並みへ。つじつじでは小太鼓を丸太に結んだ「付け太鼓」の集団が接近し、櫓を警護する裸男とのぶつかり合いが続いた。起し太鼓はこの日開幕した古川祭の呼び物。歴史は江戸時代にさかのぼる。【奈良正臣】
[ 2009年4月20日 (毎日新聞)
2009年04月22日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │歳時記
<源氏物語結婚式>紫式部邸宅跡で十二単 女子大生が発案
自分たちで企画した京都ウエディングを十二単姿で説明する大学生=京都府京田辺市で2009年4月20日、望月亮一撮影

同志社女子大の学生がブライダル会社「TNCブライダルサービス」(京都市中京区)と連携し、紫式部の邸宅跡とされる廬山寺(ろざんじ)(同市上京区)での十二単(じゅうにひとえ)姿による結婚式「源氏物語ウエディング」を発案、20日、同大学京田辺キャンパスで発表した。
関口英里・学芸学部准教授のゼミの学生16人が08年9月から準備を重ね、各企業などと交渉、実現にこぎ着けた。披露宴は京ならではの閑静な料亭を選び、引き出物に漬物やお香を取り入れるなど随所に京都テイストを盛り込んでいる。
十二単姿で発表に臨んだ同ゼミ生の河村美和子さん(20)は
「自分の時もぜひ着てみたい」
と笑顔で話した。【望月亮一】
[ 2009年4月20日 (毎日新聞)
2009年04月22日 Posted by かるの at 14:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
伝説の「牛石」復元へ、タガネ打つ氏子ら…日光二荒山神社
復元に向け原石を刻む氏子たち

大正時代ごろまで中禅寺湖畔にあった奇石「 牛石 ( うしいし ) 」の復元に乗り出した日光二荒山神社中宮祠(栃木県日光市中宮祠)は14日、氏子ら約30人が原石にタガネを打ち込んで復元作業を開始した。
女人牛馬禁制を破って引いてこられた牛が石になったと伝えられる牛石は、同神社の前にあったが、いつしか形が変わってなくなったとされる。
この日は、復元に使う男体山産の原石のお 祓 ( はら ) いをし、氏子を中心に新たに結成した「牛石友の会」(約80人)の会員らが次々と原石に向かいハンマーをふるった。砕いた石は、祈願石としてお守りにする。今後、観光客にも彫刻に参加してもらって、10月11日に完成する予定だ。
同神社の斎藤芳史中宮祠部長は
「参加者が多いほど、魂がこもって素晴らしい牛石になると思う」
と話していた。
[ 2009年4月15日 (読売新聞)
「牛石」みんなで復元しよう、日光・二荒山神社で丑年企画
日光二荒山神社の新しい「牛石」にする予定の巨石

日光二荒山神社中宮祠(栃木県日光市中宮祠)が4月から、 丑 ( うし ) 年にちなんで、神社前に大正時代頃まであった珍石「牛石」の復元に乗り出す。
巨石を参拝者に牛の形に削ってもらい、10月に完成させ、無病息災を願って境内に安置する。
かつての牛石は長さ230センチ、幅180センチ、厚さ90センチで、形が牛の横たわった姿のように見えたという。修験道の霊場として、奥日光は明治初期まで「女人牛馬禁制」だった。その禁を破って引いてこられた牛が、石になったと言い伝えられている。
昭和初期の書物には、大正時代初めまであったこと、いつしか形が変わって片づけられたことが記述されている。地元の中宮祠自治会の小島喜美男会長は
「大正3年の中宮祠大火の際に、石も焼けて、牛の形に見えなくなってしまったのではないか」
と推測する。
新たな「牛石」になる巨石は、第1いろは坂の降り口付近に埋まっていた石英安山岩。かつての牛石よりやや大きめで重さ約7トン。
4月14日(丑の日)に復元始祭を行い、加工に着手。下絵などを基に、参拝者にノミで石を削ってもらい、牛の形に整えていく。砕いた石をお守りとして記念に持ち帰ってもらうことも検討している。
完成は10月11日(同)を予定。
同神社の斎藤芳史中宮祠部長は
「修験の歴史を後世に伝える意味でも牛石の復元に、多くの人に参加してほしい」
と話している。問い合わせは同神社(0288・55・0017)。
[ 2009年3月26日 (読売新聞)

