騎馬武者500騎、入り乱れ…相馬野馬追


 騎馬武者がご神旗(中央の青い布)を奪い合う、福島県南相馬市の「神旗争奪戦」=池谷美帆撮影

 騎馬武者の軍事訓練を再現した「相馬 野馬追 ( のまおい ) 」が24日、福島県南相馬市で行われた。

 呼びものは「 甲冑 ( かっちゅう ) 競馬」と「神旗争奪戦」。約500騎の騎馬武者が市街地から約3キロ行進した後、1周約1キロの馬場を次々と疾駆。続いて、旗が打ち上げられ、武者たちは入り乱れ、落ちてくる旗を奪い合った。


[ 2009年7月24日 (読売新聞)
  

2009年07月31日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)地方文化

奈良時代の刀子復元=金色の装飾鮮やか-正倉院


 奈良市の宮内庁正倉院事務所は23日、奈良時代の「黄楊木把鞘刀子」(つげのきのつかさやのとうす)の復元品を公開した。
 刀子は役人が紙を切ったり、木簡を削ったりした文具。ツゲの木で作られたさやには、翼を広げた金色の鳥の装飾がされ、刀身は金色の唐草模様で飾られている。

 同事務所によると、黄楊木把鞘刀子は、ふたつの刀子(全長約26センチ)が組みひもでつながれた状態で正倉院に保管されている唯一の宝物で、東大寺大仏殿に献上されたとされる。

 2007年度から復元を開始し、今年3月に完成した。同事務所は1972年から宝物の復元をしているが、刀子の復元は初めて。

 奈良国立博物館(奈良市)で開かれる正倉院展で、実物とともに10月24日から公開される。
 

[ 2009年7月23日[時事通信社]


  

2009年07月31日 Posted by かるの at 14:16Comments(0)TrackBack(0)歴史を学ぶ

<日田祇園祭>集団顔見世…夜を彩る山鉾8基勢ぞろい 大分


 明かりがともされ豪華絢爛な姿を現した山鉾=大分県日田市で2009年7月23日午後7時49分、山下恭二撮影

 大分県日田市のJR日田駅前で23日夜、日田祇園祭(25、26日)を前に豪華絢爛(けんらん)な山鉾(やまぼこ)8基が勢ぞろいする集団顔見世があり、提灯(ちょうちん)を掲げた「晩山」が小京都の夜を彩った。

 九州の天領を支配した「西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)」の権威と豪商の財力を象徴する祇園祭は、約340年の伝統を誇る国の重要無形民俗文化財。午後7時半、一斉に点灯されると、山鉾や歌舞伎を題材にした人形が夜空に浮かび、観光客らから感嘆のどよめきが起きた。

 優雅な祇園ばやしの音に乗り、男衆が重さ3~5トンの山鉾を切り返す力技「腰切り」も披露した。最も背が高い「平成山鉾」は今回、人手不足で「飾り山」として展示した。
【楢原義則】

[ 2009年7月23日 (毎日新聞)
  

2009年07月31日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

真言宗vs天台宗1200年の確執はデマだった?

 ちょっと前に、“天台宗と真言宗の確執が1200年ぶりに雪解け”という気になるニュースが報じられていた。きっかけは、天台宗のトップである座主が、高野山で行われた真言宗の法要に公式に参列したこと。
 天台座主が高野山を公式に訪れたのは両宗が開宗した平安時代以来初めてとのことで、1200年も座主の訪問がなかったのは、双方の開祖である最澄と空海がある時期から絶縁状態にあったためだという。でも、天台宗と真言宗といえば歴史の教科書でもおなじみの超メジャーな宗派。両宗に、どんな確執があったというのだろう。真言宗を研究している大正大学・仏教学部の苫米地誠一准教授にたずねてみた。

「日本仏教の研究者の間では、真言宗と天台宗との間に1200年も続く確執があるとは考えられていません。貞和5年に最澄さんの一番弟子が建てた建物の落慶式に空海さんの一番弟子が出席したなど、両宗が交流している記録は数多くありますよ」

両宗の確執説は史実ではない!? だとすると、天台座主の高野山への公式訪問が初めてだというのもガセネタ!?

 「それは事実のようですが、そもそも天台座主とは宗派の象徴のような存在で比叡山にいることが多く、江戸時代までは京都を出ること自体、あまりなかったんです」
とは、天台宗を研究している大正大学・仏教学部の塩入法道教授。

 「真言宗側から言うと、江戸時代まで宗の中心の寺は名目上は東寺で、実質的に力を持っていたのは仁和寺と醍醐寺です。高野山は聖地として仰がれているだけで、何か特別な目的でわざわざ参詣に行くことはあっても、それ以外に普段外から人が入る寺ではなかったんです」(苫米地准教授)

 確かに最澄と空海の間には主義主張による論争はあったが、個人的な確執があったという記録は見つかっていないという。
 どうやら最澄と空海の確執説は、2大カリスマ高僧の違いを特徴づけるためにいつしか生まれた伝説のようです。



[ 2009年7月17日(R25)
  

2009年07月30日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)歴史を学ぶ

武家屋敷の堀と紐金具発見=石田三成の居城跡-滋賀



 滋賀県教育委員会は23日、豊臣秀吉の有力家臣だった石田三成の居城「佐和山城」(彦根市)の遺跡から、武家屋敷跡の堀を発見したと発表した。秀吉が用いた「桐(きり)紋」をかたどった紐(ひも)金具なども見つかった。同教委は、佐和山城の実態を初めて明らかにした貴重な史料としている。

 同教委によると、今回の調査では約20~30メートル単位で区切られた幅2~3メートルの堀が見つかった。

 一緒に出土した土器類の年代から、1590年~1600年に佐和山城主だった三成の時代のものと推定。江戸時代後期に描かれた「佐和山城絵図」では侍屋敷と記述されており、この区切られた単位が、堀の内側にあった屋敷の区画を示しているという。 


[ 2009年7月23日[時事通信社]


  

2009年07月30日 Posted by かるの at 14:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

七つの器持ち、あでやか花嫁行列…福島・南会津


 花嫁姿で練り歩く女性ら(福島県南会津町の「田島祇園祭」で)

 花嫁姿の女性らが七つの器を持って練り歩き、五穀 豊穣 ( ほうじょう ) を祈る「 七 ( なな ) 行器 ( ほかい ) 行列」が23日、福島県南会津町で行われた。

 国の重要無形民俗文化財で、800年以上の歴史を持つ「田島祇園祭」のメーン行事。男性はかみしも姿、女性は島田や丸まげ姿に盛装することから、花嫁行列とも呼ばれる。

 男女約90人が神社までの約1キロをあでやかに歩き、赤飯やお神酒を入れた器を奉納した。沿道には大勢の観光客が詰めかけ、熱心にカメラに収めていた。


[ 2009年7月23日 (読売新聞)
  

2009年07月30日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

インドネシア>大統領選投票もゼロ 文明を拒むバドゥイ族


 内バドゥイの集落から街へと向かう途中のアジャさん=井田純撮影

 東西5000キロの33州が沸いたインドネシア大統領選は、推計投票率80%(14日現在)で、平穏に終わった。首都ジャカルタでは、市民が「印米に次ぐ世界3番目に大きい民主国家」の成熟を誇らしげに語る。だが、そこから80キロしか離れていない近郊の山地に「投票率ゼロ」の村があった。信仰と生活風俗の考え方から、選挙を含めたあらゆる文明と無縁の生活を守る人々が今も暮らす。文明を拒む小さな集落のたたずまいを紹介する。【カネケス村(インドネシア・バンテン州)で井田純】

 カネケス村は、ジャカルタから車で4時間弱。「バドゥイ族」と呼ばれる人々が暮らし、村の入り口の門の脇には「すべての乗り物の進入を禁ず」の立て札があった。カネケスでは自転車すら許されず、電気も通じていない。乗り物すべてがタブーなのだ。

 北米に多いプロテスタントの一派「アーミッシュ」も文明を拒む信仰だが、移動には馬車を使う。バドゥイ族はさらに禁欲的だ。

 バドゥイ族は、履物をはかない、字を書かないなど、より厳格な慣習を持つ内バドゥイと、やや世俗化した外バドゥイに分かれて暮らす。「内」から「外」には移れるが、その逆はない。「外」を出て街に住んだ場合も同様。イスラム伝来時に改宗を拒み、文明を逃れて山に移った人々の子孫といわれるが、正確にはわかっていない。

 内バドゥイの人々は、オランダ統治時代も第二次大戦中も、彼らが「アダット」と呼ぶ伝統に基づき、イスラム教ともヒンズー教とも違う独自の土着信仰と生活様式を守った。現在の人口は内バドゥイ約1300人、外バドゥイが約1万人。

 投票日を前に、外バドゥイの集落を訪ねた。村入り口の門から約40分、険しい山道を歩くと、竹で編んだ壁とヤシの葉でふいた屋根の高床式住宅が並んでいる。主産業は農業。女性たちが縁側で糸をつむぎ、機を織っている。外国人の立ち入りが禁じられている内バドゥイの集落までは、さらに2時間の道のりという。

 街に出るために「外」の集落に出てきた「内」住民のアジャさん(57)に会った。裸足で、頭に布を巻きつけた独特の姿だが、選挙のことも候補者の名前も知っていた。「選挙のことを話す人が4回ほど村に来た」という。投票率向上を図る選挙委員会の啓発活動らしい。「でも、投票には行かないだろう。外の世界にはかかわらず、自分の暮らしを続けるのがアダットだから」。ジャワ西部で使われるスンダ語の古い方言で話す。

 「誰が選ばれようと、結果には従うが、選ぶ仕組みには関心がない」というアジャさんは、年2回、3日間歩いてジャカルタを訪れる。「世の中はときどき見るだけで十分だ」

 カネケス村長のダイナさんによると、村の有権者は内と外で計約6300人。4月の総選挙も今回の大統領選も、投票率は2割程度だった。投票したのは全員が外バドゥイで、内バドゥイの選挙参加は「これまで一度も例がない」と言う。


[ 2009年7月15日 (毎日新聞)
  

2009年07月29日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)海外

唐代の重文級漢字字書「玉篇」、写本発見


 約80年ぶりに見つかった「玉篇」第9巻の写本の断簡(京都国立博物館で)

 京都の旧家が所蔵し、行方不明になっていた中国の漢字字書「 玉篇 ( ぎょくへん ) 」の写本(7~8世紀)の一部が約80年ぶりに見つかったと、京都国立博物館が13日、発表した。

 博物館で14日から始まる「シルクロード」展に出品される。

 玉篇は543年に完成し、全30巻で1万6917字を収録したという。日本には唐代などの写本が伝わり、現存する数巻は国宝や重文の指定を受けている。

 見つかったのは第9巻の断簡で、約60の漢字を部首別に分類し、意味や用法を説明している。現在は個人蔵で、調査した同博物館学芸部の赤尾栄慶副部長は「重文級」と話している。


[ 2009年7月13日 (読売新聞)
  

2009年07月29日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)歴史史料

「夏目漱石」財団法人設立 親族同士で意見対立


明治の文豪、夏目漱石に関する財団法人設立を巡り、親族間で意見が対立している。
 財団反対側は、漱石は「我が国の共有文化財産」としているのに対し、設立側は、「まだ公式に作った記念館がない」などと反論しているようなのだ。

夏目房之介さんが財団設立に反対表明


この財団法人は、「一般財団法人 夏目漱石」。2009年4月1日に設立され、ひ孫の夏目一人さんが理事長をしている。一人さんは、大手広告会社を経て、現在は会社経営者。

財団ホームページによると、「夏目漱石の偉業を称えるとともに文芸の復興を図り、豊かな社会の実現に寄与する」ことが設立目的という。事業としては、漱石に関する人格権、肖像権、商標権、意匠権などを管理することを挙げた。また、「夏目漱石記念館」(仮称)を設立したり、漱石賞や各種フォーラム、正しい標準語を養う漱石検定を実施したりするなどとしている。こうした事業を行うため、ホームページ上で寄付金なども募っている。一般財団法人は、登記すれば誰でも設立できるが、この財団では、税法上のメリットがある従来型の公益財団法人を目指しているという。

これに対して、別の家系で漱石の孫に当たるマンガ・コラムニストの夏目房之介さんが、自らのブログで7月10日、財団設立に反対を表明した。

そのエントリーによると、財団から6月17日付で協力してほしいとの手紙が届いたといい、
 「僕の連絡した親族たちは困惑し、いささかうんざりしている」
と漏らした。

房之介さんは、
 「漱石の著作権は戦後すぐに消滅しております」
と指摘。漱石は、「我が国の共有文化財産」だとして、自らは、著作権などについて、報酬の要求や介入をしない方針を貫いてきたとしている。そして、自らの著書を引用して、
 「そうすることが漱石という文化的存在を将来にわたって維持し、享受や批判をさかんにして再創造につなげてゆく方向だろうと思っている」
と述べている。

「まだ公式に作った記念館がない」

一方、夏目房之介さんブログのコメント欄には2009年7月12日、「一般財団法人 夏目漱石」理事長の夏目一人さんを名乗った反論が寄せられている。

そのコメントでは、まず「突然のブログへの書き込みに驚いております」。財団設立は、祖父の遺品類や漱石の資料が存在しており、まだ公式に作った記念館がないためとし、「肖像物など公に正しい方法で提供するシステムを作りたい」と説明した。そして、活動の支障になるとして、ブログの全文削除を求めた。「このような形で、回答することは誠に心苦しい」ともしている。

漱石の遺品などは、神奈川近代文学館に房之介さんが父親の死後に寄贈したものがある。また、熊本市の史跡に指定された旧居内と、伊豆・修善寺で逗留した旅館が、漱石の記念館になっている。東京・新宿区でも、晩年に過ごした漱石山房を復元して、記念館的な建物にしようという取り組みが進められている。

新宿区の取り組みについては、財団との関係に関する問い合わせがあったといい、区の文化観光国際課は7月7日、「新宿区と、この財団法人とは、一切の関係はありません」とのお知らせをサイト上に載せた。同課の課長は、「寄付金を募ったり、フォーラムを開催したりするなど、財団の事業概要とよく似ているので、一緒にやっていると誤解されては困ると考えました」と説明する。

そんな中で、財団は、なぜ新たな記念館などを手がけようとしたのか。J-CASTニュースでは、財団側に取材を申し込んだが、広報担当者が不在とのことだった。

[ 2009年7月14日 (J-CAST)
  

2009年07月28日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

勇壮な駆け抜け、博多祇園山笠フィナーレ


 勇壮に駆け抜ける六番山笠・土居流の男衆=足立浩史撮影

 博多祇園山笠のフィナーレを飾る「追い山」が15日、福岡市博多区で行われ、七つの 舁 ( か ) き山が早朝の街を勇壮に駆け抜けた。

 午前4時59分、太鼓の音を合図に一番山笠・東 流 ( ながれ ) がスタート。 櫛田 ( くしだ ) 神社になだれ込むと、桟敷席から拍手と歓声がわき起こった。

 締め込みに法被姿の男衆は「博多祝い 唄 ( うた ) 」を歌い上げ、さっそうと博多の街へ繰り出した。


[ 2009年7月15日 (読売新聞)
  

2009年07月28日 Posted by かるの at 09:40Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

<大太鼓>勇壮な音を響かせ豊作祈願 北秋田・綴子地区

 雷鳴のような音をとどろかせて進む大太鼓=秋田県北秋田市綴子地区で2009年7月14日午後7時23分、丸山博撮影

 秋田県北秋田市綴子(つづれこ)地区の八幡宮綴子神社(武内尊英宮司)で14日、例大祭が始まり、ギネスブックにも掲載された直径3.71メートルの大太鼓が集落を練り歩いた。

 雨ごいや豊作を祈願する約700年続く伝統行事。同地区の下町が豊臣を、上町が徳川を名乗って毎年交互に担当し、近年まで太鼓の大きさを競ってきた。

 今年は下町が当番。大太鼓は午後7時ごろ、2台の太鼓を従えて集落を出発し、「ドーン、ドーン」と勇壮な音を響かせながら神社へ向かった。


[ 2009年7月14日 (毎日新聞)
  

2009年07月27日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

<皆既日食>明治人が見た…市民のスケッチ100枚発見


 右下に2本のコロナが延びる。「此図甚可し(この図はなはだよし)」などのコメントも添えられている=国立天文台提供

 122年前の皆既日食の際、明治政府の呼びかけで市民が描いた太陽コロナのスケッチ約100枚が国立天文台(東京都三鷹市)で見つかった。一般市民による国内初の皆既日食の観測記録で、同天文台は「近代化を目指し、科学の重要性を広く浸透させようとした明治政府と、それに応えた市民の姿を示す歴史的に貴重な資料」としている。【足立旬子】

 1887(明治20)年8月19日の皆既日食は、新潟、福島、茨城の各県などで見られた。世界中から観測隊が集まり、国内初の近代的な観測が行われた。

 当時、月が太陽をすっぽり隠す皆既日食は不吉な現象と考えられ、市民が家にこもることなどが想定された。そこで、文部省(当時)は、事前に官報に「白光(コロナ)写図心得」との観測マニュアルを示し、皆既日食が見られる地域の役所や学校などに、外へ出てコロナを観測するよう促した。皆既の2、3分前に手ぬぐいで目を覆い、目を慣らすなどの注意も添えた。

 スケッチは、A4サイズほどの和紙に墨や鉛筆で描かれ、約3センチの黒い円の周囲に白く放射状にこぼれ出るコロナをとらえた。好天に恵まれた新潟、茨城両県で学校の先生たちがスケッチしたものが多く、観測者の署名などから約100カ所で約150人がかかわったとみられる。

 スケッチは郡役所から県知事、文部省などを経て、東京天文台(国立天文台の前身)の斎藤国治教授(故人)が整理したが、退職後に持ち主や保管場所が変わり、膨大な資料とともに書庫に眠っていた。国立天文台天文情報センターの山崎裕子図書係長は
 「地方で教養のある学校の先生たちが一生懸命、客観的に観測したことがよく分かる」
と話す。

 原画の1枚は9月6日まで府中市郷土の森博物館(東京都)で公開され、複製は今月末まで、国立天文台で見ることができる。


[ 2009年7月16日 (毎日新聞)
  

2009年07月27日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)歴史史料

90m屋根ソロ~リ…東本願寺・御影堂で工事終了

 修復が完了した東本願寺の御影堂=菊政哲也撮影

 真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)は16日午前、 御影 ( ごえい ) 堂全体を覆っていた修復工事用の「素屋根」を外し始めた。

 修復を予定している隣接の阿弥陀堂で再利用するため、移動させる。約17万枚の瓦をふき替えた真新しい御影堂が、5年ぶりに姿を見せた。

 世界最大級の木造建築・御影堂をすっぽり覆う素屋根は南北90メートル、東西80メートル、高さ50メートル。2004年7月に瓦のふき替え中の雨を防ぐために設置、修復作業は昨年末にほぼ終了した。今度は、12年から修復工事を始める阿弥陀堂で利用する。

 この日は午前10時から、素屋根の下部にローラーを取り付け、 牽引 ( けんいん ) ジャッキ2台で引っ張った。1分間に約50センチずつスライドさせ、阿弥陀堂までの67メートルを約3時間半かけて移動させる。

 両堂の修復は11年に迎える宗祖・親鸞の七百五十回 御遠忌 ( ごえんき ) に合わせた事業。御影堂については、親鸞の木像・ 御真影 ( ごしんねい ) を戻す「 還座 ( げんざ ) 式」が今年9月30日に営まれ、完了する。


[ 2009年7月16日 (読売新聞)
  

2009年07月26日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

たいまつ担ぎ「ソリャ、ソリャ」…那智の火祭り

 たいまつを担いで練り歩く「那智の火祭」=関口寛人撮影

 熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)の「那智の火祭」が14日、日本一の落差(133メートル)を誇る那智の滝前であり、氏子らが燃えさかる12基のたいまつを担いで勇壮に練り歩いた。

 白装束に 烏帽子 ( えぼし ) 姿の氏子らが約50キロのたいまつを担ぎ、「ソリャ、ソリャ」と威勢のよいかけ声を上げて石段を練りながら、みこしを先導。観光客らは飛び散る火の粉を避けつつ、勇壮な様子に歓声を上げていた。


[ 2009年7月14日(読売新聞)


<那智の火祭>大たいまつ勇壮に乱舞 和歌山・熊野那智大社

 勇壮に行われた那智の火祭=和歌山県那智勝浦町で2009年7月14日午後2時17分、三村政司撮影

 和歌山県那智勝浦町の熊野那智大社で14日、「那智の火祭」があった。燃え盛る大たいまつが那智の滝前で勇壮に乱舞した。

 熊野の神々が年に一度、12基の扇みこし(高さ6メートル)に乗って滝に里帰りする神事。滝前の参道で烏帽子(えぼし)に白装束姿の氏子たちが、点火した重さ50キロの大たいまつ12本を担いで参道の石段を上り、扇みこしと合流。「ハリヤ、ハリヤ」の掛け声とともに石段を下り始めると、勢いを増した炎が杉木立を赤々と照らした。躍る炎に約8000人の観光客が酔いしれた。【神門稔】


[ 2009年7月14日 (毎日新聞)
  

2009年07月26日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

「社会の敵NO.1」に命中?の銃競売-米



 【シカゴ12日時事】
 1930年代前半に米国で数々の銀行強盗を働き、「社会の敵ナンバーワン」の悪名をはせたジョン・デリンジャー。その生涯は、映画館外で捜査官の待ち伏せ銃撃を受けて幕を閉じたが、デリンジャーに致命傷を負わせた可能性がある拳銃が今月下旬、シカゴで競売に掛けられる。

 地元紙によれば、1934年7月22日の銃撃現場では複数の捜査官が発砲。今回競売に出されるのは、銃弾を命中させたとされるイーストシカゴ警察警部の銃と銃ケースで、最高1万2000ドル(約110万円)の「控えめな」予想入札額がはじき出されている。

 同僚の銃が2007年、1万7550ドル(約160万円)で競り落とされており、高値が付いても不思議ではないという。

 デリンジャーをめぐっては、その人生を描いた人気俳優ジョニー・デップ主演の映画「パブリック・エネミーズ」が今月、全米で封切られ、話題を呼んでいる。 

[ 2009年7月13日[時事通信社]


  

2009年07月25日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)海外

<幻のスーパーカー>マツダの倉庫で発見 修復しデモ走行


 快音を響かせながら走るマツダRX500=広島市西区で2009年7月11日午後1時8分、小関勉撮影

 マツダが1970年に発表した幻のスーパーカーが11日、久々にエンジン音を響かせた。広島市西区の大型商業施設の駐車場で、同市交通科学館が主催したデモ走行があり、1万1000人のファンが詰めかけた。

 RX500は、東京モーターショーに初登場。長さ約4.3メートル、幅約1.7メートル、高さ約1メートルで、流体力学を応用した砲弾形のスタイル。エンジンは200馬力以上を誇り、ロータリーエンジンなど最新鋭の技術を投入した高速実験車だったが、ブームが終わるとともに78年ごろの展示を最後に姿を消した。

 約2年前、マツダの倉庫に保管されていたのが見つかった。修復にあたった同市西区の栃林昭二さん(58)は
 「技術屋として幻を復活させたかった」
と話す。デモ走行では、修復中でエンジン音にばらつきがあったものの、迫力のあるうなり声を上げた。


[ 2009年7月11日 (毎日新聞)
  

2009年07月25日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)産業史

<祇園祭>「神の使い」資格を稚児に 八坂神社で社参の儀


 馬に乗り、八坂神社へ向かう長刀鉾の稚児=京都市下京区で2009年7月13日午前10時3分、望月亮一撮影

 祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行で先頭に立つ長刀鉾(なぎなたぼこ)の稚児が「神の使い」としての資格を得る「社参の儀」が13日、京都市東山区の八坂神社であった。

 稚児を務める今西優太朗君(9)=左京区=が立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)姿で白馬に乗り、禿(かむろ)の宮下凌太朗君(10)や深田直貴君(9)らと共に長刀鉾町会所(下京区)から約1.5キロ東の同神社に向かった。

 儀式で「五位(ごいの)少将、十万石大名」の格式を与えられた稚児は、神の使いとなったことで地面に足をつくことが許されなくなり、お供の肩に担がれて本殿を後にした。【野宮珠里】


[ 2009年7月13日 (毎日新聞)
  

2009年07月24日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

サメの肉いかが?レシピ集と料理店紹介


 フカヒレ生産とサメの水揚げ量が日本一の宮城県気仙沼市で、サメの肉を使った料理のレシピ集とサメ料理が味わえる市内8か所の飲食店を紹介した地図が完成。

 飲食店や漁協などでつくる「気仙沼ふか食普及推進会議」が作製した。

 レシピ集ではつみれ汁や赤ワイン煮込みなど12品を紹介し、料理のポイントを入れるなどの工夫も。地図はイラスト入りでふかバーガーなどを提供する店を掲載した。

 サメ肉は低カロリー・高たんぱくで栄養満点といい、担当者は「おいしいサメ肉料理をぜひ味わって」とPR。


[ 2009年7月11日 (読売新聞)
  

2009年07月24日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)地方文化

ファミコンよりも昔…世界初のテレビゲームってどんなもの?


 1983年の「ファミリーコンピュータ」発売から四半世紀(以上)。

 当時のゲームといえば、ドット絵のチープなグラフィックと、3和音しか出せない電子音の、今から思うとずいぶんシンプルなものでした。

 では、それよりもっと前、世界で初めて誕生したテレビゲームって、いったいどんなゲームだったんでしょ? ゲーム誕生の歴史に詳しい、『週刊ファミ通』編集部の小山太輔さんに聞きました。

 「コンピューターでプログラムを動かし、ほかの画面に何かを表示して動かすという意味では、1949年ごろに『バウンシングボール』という、ボールが落ちる様子をリアルタイムで描画するプログラムがあったという記録があります。しかしこれはゲームというよりリアルタイムシミュレータでした」

 1949年! 実に60年前にまでさかのぼるんですね。

 「ゲーム性のあるものとしては、1952年にケンブリッジ大学のEDSACというコンピューターを利用し、『TIC TAC TOE』(ティックタックトゥー)というゲームが作られました。これは現在あるようなモニターではなく、体育館の得点板のような、ドットの集まった表示機を使って遊んでいました。これが画面の記録が残っているなかで、現在知られている最古のゲームです。内容は○と×を3つ並べた方が勝ちという、いわゆるマルバツゲームですね」

 初期のゲームは、コンピューターを使っていた研究者が仕事の手慰みに、遊びで作ったようなものが多く、年月を経てから「実は…」と新たに発見、発掘されることが多いそう。当時のコンピューターは壁面いっぱいもあるような巨大なもの。そんな大きなコンピューターを“遊び”で使ってみようという研究者の好奇心は、すごいものがありますね。

 「現在のテレビゲーム産業の基礎を作ったという意味では、1972年に発売された、『PONG(ポン)』という、家庭でなく外の店で遊ぶアーケードゲームが大きな役割を果たしました。テレビゲームがビジネスとして成功した、世界で初めてのゲーム機で、開発者のノーラン・ブッシュネルはその前後にアタリという会社を作り、アタリは全米にその名を轟かすゲームメーカーになります」

 その後、日本にテレビゲームが初めてやってきたのは1973年。当時ジュークボックスなどの輸入販売をしていたセガとタイトーから、『ポントロン』と『エレポン』という外で遊ぶアーケードゲームが販売されました。ゲームが日本の家庭に入りこんだのは、1975年にエポック社から発売された『テレビテニス』(内容は『PONG』と一緒)。黒と白しか表現できない原始的なテニスゲームでしたが、当時の人々は熱狂したのだといいます。

 さらに1977年には任天堂から何種類ものゲームが遊べる家庭用ゲーム機器、『テレビゲーム6』、『テレビゲーム15』が発売されるなど、徐々に “テレビゲーム”という遊びが世間に知られるようになっていき、1978年には日本中で大ブームを呼んだアーケードゲーム『スペースインベーダー』がタイトーから発売されます。

 ようやく僕らにもおなじみのゲーム会社の名前が出てきました。

 こうしてみると、一口に“テレビゲーム”といっても半世紀以上の壮大な歴史があるものなんですねえ。
(R25編集部)


(R25 - 07月14日 11:05)
  

2009年07月23日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)産業史

天神祭「お迎え人形」、ロボットで復活

 牛若丸風装束で、船渡御で大阪締めをする「ワカマル」=永井哲朗撮影

 かつて天神祭の船渡御を大阪・堂島川下流でにぎやかに出迎える役を担ったものの、戦後多くが出番を失った「お迎え人形」が、25日の船渡御でロボットに姿を変えてよみがえる。

 三菱重工業が開発したヒト型コミュニケーションロボット「ワカマル」を活用、船上で大阪大の学生らがプログラミングした「大阪締め」を披露する。約1000年の歴史を持つ天神祭に、今夏は最先端技術を集めた「科学の子」が花を添える。

 お迎え人形の始まりは、人形浄瑠璃などの町人文化が華開いた江戸・元禄期のころ。当時の船渡御のコースは、現在とは反対に堂島川を下るコースだった。周辺の氏子らは御祭神の船を「お迎え船」で出迎え、人形はそのへさきに飾られた、という。

 江戸後期には 素戔嗚尊 ( すさのおのみこと ) や八幡太郎義家など約50体あったが、戦後間もなく地盤沈下で橋が低くなり、下を船が通れなくなったことなどからコースも変わり、出番がなくなった。

 ワカマルを研究などに活用している阪大の教授らが、こうした歴史を知り、「ワカマルを使って今様のお迎え人形を作ろう」と企画。

 学生らは平安装束体験所(京都市)の指導で牛若丸風の衣装を作ったほか、船がすれ違う時に行われる大阪締めのプログラムを製作中。ワカマルは船渡御当日、阪大が運航する船に乗る。

 今回の企画に携わった金水敏・阪大コミュニケーションデザイン・センター長は
 「ワカマルは 眉 ( まゆ ) が牛若丸に似ていることから名付けられた。何かの縁かもしれない。立派に演じさせ、祭りを盛り上げたい」
と話している。


[ 2009年7月11日 (読売新聞)
  

2009年07月23日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)地方文化