うまみ凝縮」江戸時代の料理再現…宮城の農家で
宮城県栗原市の農家で再現された150年前の料理=丹下信之撮影

江戸時代末期の料理書「 大秘方萬 ( だいひほうよろず ) 料理 方全 ( ほうぜん ) 」のメニューを再現した試食会が16日、宮城県栗原市若柳の農家で開かれた。
農家で保存された同書は、約160項目のレシピを記載。内陸部なのに海の幸が多く、地元の 迫 ( はさま ) 川を使った物流が盛んだった様子もうかがえる。郷土史家が現代語訳し、料理愛好家が試作を重ねた。
振る舞われたのは、ハモのすり身やアジ・サバの南蛮漬けなど約20品目。150年前の料理に舌鼓を打った参加者は「食材のうまみが凝縮している」とご満悦。
[ 2009年11月17日 (読売新聞)
2009年11月30日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
大正画壇の異才・村山槐多、投稿少年だった
大正画壇に異彩を放った早世の画家、村山 槐多 ( かいた ) (1896~1919年)が13歳の時、少年向け雑誌に詩歌や作文を次々に投稿していたのが見つかった。作文では文学を志していたことを明かすなど、早熟な才能を裏付ける資料となる。
投稿先は実業之日本社の「日本少年」誌で、1909年10月号~翌年5月号の詩・和歌・狂句・作文欄などに計6編が採用されていた。東京都内のアマチュア画家、安永実さん(75)が古書店で同誌を買い、掲載されているのに気づいた。
このうち作文では、文芸誌「早稲田文学」を読んでいた時、父親から作家志望なのかと問われ、「えゝまあ」と答えたところ、「今の文士は貧乏だよ」とクギを刺された心の動揺をつづる。その選評では、いっぱしの文学者を気取らず、学問に励むべき年頃だ――とたしなめられている。
一連の投稿に続く時期、槐多は絵画へ関心を深めたが、その後も詩や小説も書き続け、22歳で没した翌年には、詩文集「槐多の歌へる」が出版されている。
東京・渋谷区立松濤美術館で開かれる「村山槐多」展(12月1日~来年1月24日)で紹介される予定。瀬尾典昭・同館主任学芸員は
「最初期にあたる文章。様々な欄に投稿しており、作品発表への強烈な意欲が興味深い」
と話している。
[ 2009年11月29日 (読売新聞)
2009年11月30日 Posted by かるの at 09:02 │Comments(0) │TrackBack(0) │人物伝
鷹狩を愛した家康にちなみ…静岡で放鷹術披露
伝統の放鷹術を披露する保存会メンバー=静岡市葵区駿府公園で

鷹狩 ( たかがり ) を愛した徳川家康にちなみ、静岡市葵区の駿府公園で14日、 放鷹 ( ほうよう ) 術の実演が行われた。
伝統の技を知ってもらおうと、諏訪流放鷹術保存会(事務局、東京都青梅市)のメンバーが昨年から各地で披露しているもので、オオタカやチョウゲンボウなどの猛きん類を巧みに操る 鷹匠 ( たかじょう ) の妙技に、見学者から大きな拍手がわき起こっていた。
実演したのは、離れて立つ鷹匠2人の腕から腕へタカを飛ばす「 振替 ( ふりかえ ) 」、遠くの枝から呼び戻す「渡り」、逃げるハトを空中で捕獲する「 振鳩 ( ふりばと ) 」など。演技中、鷹匠の手を離れたチョウゲンボウが、観客の帽子に止まり笑いを誘うハプニングも。
鷹匠を疑似体験するコーナーもあり、参加した千葉県柏市、公務員松田京子さん(29)は
「音も風もなく、気づいたらチョウゲンボウが腕に乗っていた。反対に、飛び立つときは力強さを感じた。目が丸く、かわいかった」
と興奮した様子で話していた。
[ 2009年11月15日 (読売新聞)
2009年11月29日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
江戸の宗教書、北京で発見 重文級の「金言集」
安土桃山から江戸時代初期にかけて布教などの目的で印刷された「キリシタン版」と呼ばれる書籍の一つで、長崎で刊行された宗教書「金言集」が北京の国家図書館に保管されていることが14日、東京都の古書店・雄松堂の調査で分かった。
写真鑑定した上智学院理事長の高祖敏明・上智大教授は
「発見は絶望的と言われていた文献で希少だ。重要文化財級の価値がある」
としており、宗教史、外交史解明に前進をもたらす貴重な発見。
[ 2009年11月14日(共同通信)
2009年11月29日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │歴史史料
<直江兼続>1行ごと裁断 こより状で会津の武将あて密書
「古典籍展観大入札会」に出品される直江兼続書状=2009年11月12日午後3時35分、佐々本浩材撮影

戦国の武将・上杉景勝の重臣、直江兼続(かねつぐ)(1560~1619)が会津の武将にあてた密書が見つかり、12日、東京都内で報道陣に公開された。
関ケ原の戦いの直前に徳川家康に送り兼続の名を高めた「直江状」は後世の写しがあるだけで、今回のような
「書状の原本は非常に珍しい」(増田孝愛知文教大教授=書跡史学)
という。敵の目を欺こうと書状を裁断、こより状にして届けたことでも注目される。
書状は1584(天正12)年4月13日付。本能寺の変の2年後で、兼続は執政として、越後(新潟県)の春日山城を拠点に上杉家の勢力拡大を指揮していた。
書状の中で兼続は、上杉家の元家臣で謀反を起こした屋代秀正が城を出て行方不明との情報を会津・葦名家家臣に知らせたうえで、「治安を一層厳重にされたい」と求めた。屋代はのちに徳川家康の臣下となっている。書状はまた、主君の景勝が新発田(しばた)重家を討伐のため近く出陣することを明かし、
「よろしく加勢を頼みたい」
と要請している。
密書は装丁され掛け軸の形で保存されてきたが、もともとは1行ごとに切断され、こより状にして送ったと考えられる。増田教授は
「武将の密書は多いが、このように切り刻んだものを見たのは初めて」
と話す。
直江兼続書状は13、14日に千代田区の東京古書会館で開く「古典籍展観大入札会」で一般公開され、15、16日のいずれかで入札が行われた。【佐々本浩材】
[ 2009年11月13日(毎日新聞)
2009年11月28日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(2) │TrackBack(0) │歴史史料
「せいもん払い」って?福岡で冬の風物詩
福岡市の街に冬の訪れを告げる恒例の大売り出し「せいもん払い」が15日、同市内の商店街やデパートなど約30か所で始まった。
「せいもん払い」は、明治時代に同市博多区の上川端商店街で始まったとされる。
約90店舗が並ぶ天神の新天町商店街でも、洋服や靴、雑貨など各専門店の前には格安の目玉商品を積んだワゴンがずらり。店員が太鼓を鳴らすなどしながら威勢良く呼び込み、品定めする買い物客でにぎわっていた。
[ 2009年11月16日 (読売新聞)
2009年11月28日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
洋風カツ丼?新潟・長岡では昔から愛されてます
「レストラン ナカタ」の洋風カツ丼。ケチャップベースの甘みがあるソースが特徴

新潟県長岡市で昔から市民に愛されてきた「洋風カツ丼」を、安くておいしいB級グルメとして全国区の知名度にしようと、同市のNPO法人「復興支援ネットワーク・フェニックス」(樋口勝博代表理事)などがプロジェクトを始動させた。
全国で熱を帯びる“ご当地グルメ”を生かした地域おこしに注目した。関係者は「地域活性化につなげたい」と期待を寄せる。
洋風カツ丼とは、ごはんの上に豚カツを載せ、ケチャップやデミグラスなどのソースをかけた料理。1931年に同市で創業した洋食店「小松パーラー」(閉店)が発案した。
同NPO法人は、各地の名物料理がB級グルメとして世間から注目を浴びていることから、「昔からあるもので地域活性化を図りたい」と思案。今年、市や長岡商工会議所などで、「長岡ご当地B級グルメ化プロジェクト実行委員会」を発足させた。
委員会では、洋風カツ丼を提供する飲食店を示す専用ののぼり旗を作成、市内25店舗で店先に掲げた。飲食店マップも1万部を製作し、市内の観光施設などに配布。今年8月には、長岡や見附、小千谷市内で配布されているフリーペーパー「まるごと生活情報」で特集を組むなど、知名度アップに力を入れている。
フリーペーパーの配布後、これまで洋風カツ丼を提供してきた老舗の店などでは注文が急増、学生などの若者にも人気が広がっているという。
樋口代表理事は
「個々の店ではなく地域で手を携えてやっていく。長岡での共通メニューは他にはない」
と話す。今後、B級グルメの全国大会などに出場して長岡をPRしていく。
◆原点の味、人気急上昇◆
長岡市内で洋風カツ丼を提供する飲食店は多数あるが、メニュー発祥店「小松パーラー」のケチャップ系ソースを継承する唯一の店が「レストラン ナカタ」(同市坂之上町)だ。
同店の顧問・中田将富さん(69)は、兄が小松パーラーで働いていた縁で、中学卒業の翌日から働き出した。店長だった故・本田正人さんの下で厳しい修業を積み、本田さんが生み出したケチャップや赤ワイン、しょうゆなどで作るソースのレシピを習得した。独特な甘みが特徴だ。
32歳で現在の場所に店をオープンして以来、定番のカレー以外に洋風カツ丼も提供し続けてきた。だが、最近までは洋風カツ丼の注文は姉妹店と合わせても1か月に10皿程しか出ず、客も60歳代以上の人が目立っていた。
しかし、今年8月にフリーペーパーで洋風カツ丼の特集が組まれると、客層は学生や小さな子供連れなどにも広がり、10月は計980皿の注文が殺到した。中田さんは
「洋風カツ丼がこんなに話題になるなんて、小松パーラーのオヤジが近くにいるようだ」
と目を細める。
「これをただのブームで終わらせてはいけない」
と中田さん。
「私が死んでもこの味は変えない」
と、昔ながらの味を守り続ける。
[ 2009年11月15日 (読売新聞)
2009年11月27日 Posted by かるの at 21:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
大衆モダン着物「足利銘仙」の柄、デジタル保存
海外の流行を取り入れた斬新な意匠で昭和初期に全国で流行した大衆着物「足利銘仙」のデザインを後世に残そうと、栃木県の足利商工会議所がデジタル化して保存する事業を進めている。
これまで約500点を集め、今後、壁紙や和装小物のデザインなど商品化の可能性を探る。来年1月にはフランス・パリでの展示会でも披露する。
同商議所は「集めたデザインは足利産業の底力を示すもの」と話し、かつて繊維産業の都として栄えた足利のブランド力向上に活用していきたい考えだ。
足利銘仙は平織り絹織物の大衆着物で、他の産地に比べ約3分の1という価格の安さとモダンなデザインで昭和初期に社会進出しつつあった女性の間で流行したとされる。
1939年には足利市が伊勢崎市(群馬県)や桐生市(同)などの生産地を抑えて銘仙の全国生産高第1位となり、繊維産業の黄金期を迎えた。戦後、洋装が一般化するなかで次第に廃れていった。
商議所が進める「足利銘仙柄原画データカルテ」事業は2008年春、足利のブランド力向上の一環として始めた。足利銘仙のデザインは約3000種類あったとされるが、今では散逸している。
商議所は市立美術館(同市通)が地下倉庫に保管していた約250点と、市内の和装小物店の在庫約200点を借り受けるなどして、約500点を集めた。
集められた着物は、全体像と、柄がわかるような型紙大のデザインをそれぞれ写真撮影し、パソコンのデータとして保存していった。
工業デザイナーや足利銘仙に詳しい繊維産業の関係者がデザインを細かく分類し、作られた年代を推定する作業も合わせて行った。
銘仙など近代の服飾文化に詳しい武庫川女子大(兵庫県西宮市)の横川公子教授は
「足利銘仙は当時の海外の流行を参照するなど、モダンな図柄が評判だった。現在見ても斬新に映るデザインもあって、データベース化は当時の生活文化を知る上でも意義深い」
と評価する。
商議所経営支援1課の斎藤正行課長(43)は
「今後はデータをインターネットで公開したり、自由にパソコンで利用できるようにするなど活用を検討したい。足利の地力を広く知らせる『旗』の役割を担ってもらえれば」
と話している。
来年1月にフランス・パリで商議所が開く足利産商品の展示会でも、会場の飾りなどの演出デザインで利用するという。
商議所友愛会館(同市通)では「データカルテ」のデザインを利用した新商品の発表会も予定している。問い合わせは同商議所(0284・21・1354)へ。(谷合俊史)
[ 2009年11月15日 (読売新聞)
2009年11月27日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
家光の威光、二条城「女院御殿」跡から金箔瓦
女院御殿の一部とみられる建物跡=菊政哲也撮影

世界遺産・二条城(京都市中京区)で、3代将軍・徳川家光が在位した江戸時代前期の建物跡や 金箔 ( きんぱく ) 瓦などが見つかり、市埋蔵文化財研究所が13日、発表した。
同時代の絵図などから、二条城を大改修した家光が後水尾天皇を招いた際に建てた「 女院御殿 ( にょいんごてん ) 」の一部とみられ、同研究所は「家光の威光がうかがえる」としている。
二条城南端の「桜の園」から、柱を据える礎石や礎石の抜き取り穴が約20基出土。建物は南北約15メートル以上、東西約5メートル以上とみられる。
金箔が一部残った瓦約50点(長さ10センチ前後)や家具に使われた銅製引き手(長さ10センチ)も見つかった。
二条城は徳川家康が築き、家光が1624年から大改修した。大工だった中井家が所蔵する江戸期の絵図などから、建物跡は、後水尾天皇が26年9月に訪問した際、母親の中和門院らの居所として造られた女院御殿西端の建物である可能性が高いという。
[ 2009年11月14日 (読売新聞)
2009年11月26日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │考古学(埋蔵文化財)
宝くじの先祖「箕面富」140年ぶり復活
約140年ぶりに復活する「箕面富」の木箱=永井哲朗撮影

宝くじの原型とされる大阪府箕面市の 瀧安寺 ( りゅうあんじ ) の富くじ「 箕面富 ( みのおのとみ ) 」が15日、約140年ぶりに同寺で復活する。
商売繁盛や家内安全にご利益があり、江戸時代には「当たり」を求めて多くの人でにぎわったが、明治政府の富くじ禁止政策で、途絶えていた。
前売りが完売する人気ぶりで、関係者は「約950年前の記録が残る伝統の行事。復活を箕面のにぎわいにつなげたい」と期待する。
箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の梅田―箕面間が開通して来年100年を迎えるのに合わせ、同寺や地元企業などが計画した。
箕面富の当たりは、同寺の住職に代々伝わる秘法の 祈祷 ( きとう ) を受けた「大福御守」。江戸時代には賞金が当たる富くじが広がり、幕府が「人心を乱す」と禁止令を出したが、箕面富は賞金でなく福を授ける形だったため適用されず、明治まで続いた。
今回は1790年代の「摂津名所図会」に描かれた箕面富を再現。江戸時代に作られたとされる同寺所蔵の木箱を使い、小穴から 錐 ( きり ) で木札を突いて書かれた番号で当たりを決める。「大福御守」が3人、「招福御札」が10人に授けられる。
1000円の別のお守りを買うと参加できる。前売り300体は売り切れ、当日は午後0時半から先着200人に販売する。問い合わせは「箕面わいわい株式会社」(072・724・5151)。
[ 2009年11月15日 (読売新聞)
2009年11月26日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │地方文化
静岡市・瓢箪塚古墳
瓢箪塚古墳は「ひょうたん塚公園」という公園に隣接している。


以下は現地にある説明板から
瓢箪塚古墳
西ノ原一号墳(前方後円墳)
清水市草薙字西ノ原三十一番地
この古墳の築造年代は、凡そ六世紀初頭古墳時代後期と推定されています。
昭和五十二年調査の結果周溝の存在も確認され、全体の保存状態極めて良竹な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代廬原国と云はれ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土他の人々と戦った事び古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫・意加部彦がイオハラ国の国造となりこの地方を支配したと云はれております。それよりずっと下って西暦六六三年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳・牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。なおこの付近には、古墳が点在しておりましたが畑地や宅地の開発が進み現在は道を隔だてた北東側に一ヶ所を残すのみとなって居ります。貴重な遺跡の保存に皆様方の御協力を戴ければ幸いです。


以下は現地にある説明板から
瓢箪塚古墳
西ノ原一号墳(前方後円墳)
清水市草薙字西ノ原三十一番地
この古墳の築造年代は、凡そ六世紀初頭古墳時代後期と推定されています。昭和五十二年調査の結果周溝の存在も確認され、全体の保存状態極めて良竹な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代廬原国と云はれ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土他の人々と戦った事び古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫・意加部彦がイオハラ国の国造となりこの地方を支配したと云はれております。それよりずっと下って西暦六六三年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳・牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。なおこの付近には、古墳が点在しておりましたが畑地や宅地の開発が進み現在は道を隔だてた北東側に一ヶ所を残すのみとなって居ります。貴重な遺跡の保存に皆様方の御協力を戴ければ幸いです。
2009年11月25日 Posted by かるの at 21:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │遺跡を見ると、胸が騒ぐ…
文化財級・JR鳥栖駅の玄関柱まがったまま
傾いたままのJR鳥栖駅入り口の柱

佐賀県鳥栖市のJR鳥栖駅正面入り口に10月中旬、タクシーが突っ込み、木製の柱が折れたままになっている。
JR九州は応急措置として鉄柱で支えているが、120年前に建てられた駅舎は文化財的な価値もあり、慎重に修理計画の策定を進めている。完全修復は今月末になる見通しという。
鳥栖駅などによると、10月19日午前7時ごろ、客待ちのタクシーの運転手がブレーキと間違えてアクセルを踏み、柱にぶつかった。通勤時間帯で乗降客も多かったが、けが人はなかった。
柱がある入り口部分は、駅舎が建てられた1889年当時のままで、駅舎から約2メートル突き出た形になっている。文化財には指定されていないが、鉄道の歴史を伝える貴重な建造物と評価する人も多い。
柱は石の土台(高さ約60センチ)に載っており、高さ約3メートル。根元部分が折れ、傾いた。JR九州は、代わりの鉄柱の周囲を板で囲み、人が近づかないようにしている。
鳥栖駅の大坪恭司副駅長は
「柱を新しくすれば、そこだけ浮いた印象になる。全体の雰囲気を損ねず、周囲とどう調和させるか考えるのに時間がかかった。安全面に問題はないので、もうしばらく待ってほしい」
と説明している。
[ 2009年11月9日 (読売新聞)
2009年11月25日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
粘土塊にくさび形文字…ハンムラビ王時代の「封泥」
テル・エル・ダバ遺跡で発見された、バビロニアの印影が残る粘土塊=エジプト考古最高評議会提供

【カイロ和田浩明】
バビロニア(現在のイラク中・南部)のハンムラビ王(在位紀元前1792~1750年)に仕えた高官の印影が残る粘土塊を、オーストリアの研究チームがエジプト北部のテル・エル・ダバ遺跡で発掘した。エジプト考古最高評議会が15日発表した。バビロニアのくさび形文字アッカド語が使用されており、「エジプトで発見されたものでは最古」(同チーム)という。
粘土塊は、物資の数量管理などに使用された「封泥」で、物資を入れた箱やつぼなどの入り口に付けられたとみられる。同評議会は「バビロニアからの交易品か贈り物の封印ではないか」と推定している。
ハンムラビ王は世界最古の法典の一つと言われる「ハンムラビ法典」を整備した。テル・エル・ダバ遺跡はカイロ北東約120キロのナイル川三角州にあり、紀元前18世紀ごろから約100年間エジプトを支配した「ヒクソス」と呼ばれるアジア系異民族の拠点だったとみられている。
オーストリアの研究チームは今回の発見について「ヒクソスが広範な対外関係を持っていた証拠だ」と説明している。
[ 2009年11月17日 (毎日新聞)
2009年11月24日 Posted by かるの at 21:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
奈良・興福寺の「五十二段」、110年ぶり改修
奈良市登大路町の興福寺と猿沢池を結ぶ階段「五十二段」で、改修工事が進められている。
石の階段が波打ったり、雨天に転倒する参拝者らがいたりするためで、全面改修は明治以来約110年ぶりという。奈良県は「来年に平城遷都1300年祭を控え、観光客や市民らが安心して散策できるよう安全性を確保したい」としている。
仏門に入る修行の段階にちなんで段数が52あり、猿沢池から興福寺の五重塔を眺める際に見えるなど、市民らから「五十二段」として親しまれている。県によると、階段の幅は約9メートル、高低差は約8メートルあり、いつ造られたかは不明だが、1898年頃に踊り場を撤去する改修工事が行われ、現在の形になったとされる。
土の上に直接、花こう岩を置いているため、長年の利用で基礎部分がずれて石が上下しているほか、凹凸があった表面がすり減り、雨の日に滑って転倒する人もいるという。
本格的な工事は10月13日に始まり、すでに石を重機で撤去。コンクリートで基礎を造り、滑り止めとして、凹凸に加工した石を再び据える。来年3月末までに完成する。
[ 2009年11月9日 (読売新聞)
2009年11月24日 Posted by かるの at 09:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
武家屋敷跡からスペンサー銃の弾46発…久留米
出土したスペンサー銃の弾

福岡県久留米市は12日、京町の京隈侍屋敷遺跡で江戸時代の武家屋敷や道路の跡、スペンサー銃の弾などが見つかったと発表した。
市文化財保護課は「武士の居住区の様子と、久留米藩でも当時、最新鋭とされた武器を使っていたことがわかった」としている。
同藩では、上級武士は久留米城内に屋敷を与えられたが、中級、下級の武士は城周辺の京隈(京町、城南町)や櫛原(櫛原町)に住んでいたとされる。
今回の発掘調査は、九州新幹線開通に向けたJR久留米駅周辺整備の一環。約2000平方メートルを調べ、武家屋敷数軒と屋敷を区切る道路が見つかった。道路と屋敷の間には側溝跡や 漆喰 ( しっくい ) を塗った壁の跡があった。
藩士の 可児 ( かに ) 家跡からは、茶わんなどの陶器のほか、子どもたちがままごとに使ったとみられる数センチのかまどや花瓶も出土。貯蔵用の穴倉や、ごみ捨て穴も見つかった。
同家跡からは、スペンサー銃の未使用弾46発も出土。スペンサー銃は、米国の南北戦争時に使用され、江戸末期に佐賀藩によって輸入されたもので、 戊辰 ( ぼしん ) 戦争では最新鋭の銃として活躍した。これまで久留米藩での使用を示す文献はなかったが、同藩でも使われていたことがわかったという。
久留米藩は戊辰戦争で政府軍として東北に追討軍を派兵し、可児家は隊の幹部として参加していた。同課は「後の西南戦争前に政府は武器を回収しているが、使用しなかったものを隠していたのではないか」と推測している。(沢井友宏)
[ 2009年11月14日 (読売新聞)
2009年11月23日 Posted by かるの at 21:18 │Comments(0) │TrackBack(0) │考古学(埋蔵文化財)
旧日本軍の潜水艦2隻発見=ソ連警戒し接収後沈める-ハワイ沖
【ワシントン時事】
米海洋大気局(NOAA)とハワイ大学は12日、終戦直後に米軍に接収され、沈められた旧日本軍の伊号潜水艦2隻をハワイ・オアフ島沖の海底で発見したと発表した。
NOAAとハワイ大の調査チームによると、潜水艇を使い、今年2月に深さ約914メートルの海底で2隻を発見。船体に記された番号などから旧日本軍の潜水艦と確認した。
1隻は飛行機2機を搭載した伊14型、もう1隻は大戦末期に高速性を重視して建造された伊201型潜水艦。米軍は戦後、接収して性能を調べたが、旧ソ連からも調査要求があった。当時評価が高かった日本の潜水艦の情報を渡さないため1946年に沈めたという。
[ 2009年11月13日[時事通信社]
2009年11月23日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
かやぶき屋根を後世に…職人養成や費用助成
重厚なかやぶきが美しい国指定重要文化財「鈴木家住宅」

美しい里山の風景を後世に伝えようと、秋田県羽後町が、かやぶき民家の保存に乗り出した。
高齢化などで減少しているかやぶき職人の養成を先月から始めたほか、来年度、かやぶきを修理する住民に費用の一部を助成する。伝統のかやぶき民家を1軒でも多く残し、将来、観光に生かす狙いもある。
町企画商工課によると、町内には現在、国指定重要文化財の「鈴木家住宅」など、約80軒のかやぶき民家が残っている。東北有数の軒数で、里山と一体になった風景を写真撮影しに訪れる観光客も多いという。
◆増えるトタン屋根◆
だが、かやぶき職人の数は高齢化と後継者不足によって町内でわずか5人に減り、トタン屋根の民家が次第に増えてきている。
町がかやぶき民家の保存に乗り出したきっかけの一つは、今年2月、かやぶき民家の住民を対象に市民団体と合同で行ったアンケート調査だった。80軒のうち、6割を超す50軒が、かやぶき民家を保存したいと回答したが、「職人が高齢化して頼みづらい」「修理費が高い」との声が多かった。
そこで町は、職人養成事業の開始を決め、9月議会で333万4000円の補正予算を確保した。さらに来年度、かやぶきの修理費用の一部を住民に助成する方針も固めた。
職人養成事業に応募した6人の中から面接などで選抜され、先月、職人の卵となったのが、柴田徳一さん(43)だ。研修開始から約1か月。町で最もベテランの職人、村上賢助さん(82)の指導のもと、かやぶきの修理や、材料になるススキを刈る作業を行っている。
◆風景守るため頑張る◆
柴田さんの父はかつて村上さんと一緒に仕事をしたかやぶき職人だった。若い頃、作業で真っ黒になって帰ってくる父の姿を見て、「自分は職人になるなんて考えたこともなかった」といい、工場勤めや店員などをしてきたが、今回、村上さんや両親の勧めで、職人への転身を決めた。
「全くの素人で、作業を覚えるのは大変だけど、かやぶきの風景を守るために頑張りたい」
と柴田さん。今後3年間、町の援助を受けながら、村上さんのもとで腕を磨く予定になっている。
◇
職人養成事業の対象は2人だったが、柴田さんと同時に研修を始めた男性が不向きを理由にやめたため、町は現在、希望者1名を追加募集している。
普通自動車免許の保有などが条件。土日祝日は休みで、日給1万円が支給される。
希望者は10日必着で履歴書を町役場内の観光物産協会に送付する。
問い合わせは町役場((電)0183・62・2111)へ。(川瀬大介)
[ 2009年11月9日 (読売新聞)
2009年11月22日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
地上絵残したナスカ人の滅亡、森林伐採で加速=研究
[バルセロナ(スペイン) 2日 ロイター]
ペルーに巨大な地上絵を残し、謎に包まれているナスカ人は、1500年前に森林を伐採し自らの滅亡を早めていたという。2日に発表された最新の研究で明らかになった。
英ケンブリッジ大学などの研究者らによると、この地域に生息する根の長い木が湿度を保ち、葉が土壌の養分となっていたが、伐採により空気が乾燥しすぎたため、人々が十分な食料を収穫できなくなったことが分かったという。
研究グループは、世界中の乾燥地帯の環境保護を強化する必要が示されたと指摘。研究に参加したキュー王立植物園のオリバー・ホエーリー氏は
「過去の過ちが、今の時代に重要な教訓を与えてくれている」
と述べた。
これまでに、一部の考古学者は、ナスカ人が滅亡したのは大規模なエルニーニョ現象が発生し、大雨や壊滅的な洪水が引き起こされたためとの考えを示していた。
[ 2009年11月2日
2009年11月22日 Posted by かるの at 09:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
ツタンカーメン王墓を修復へ エジプト、カビで損傷
エジプト南部ルクソール「王家の谷」にあるツタンカーメン王墓(エジプト考古最高評議会提供・共同)

【カイロ共同】
エジプト考古最高評議会は10日、米国の基金と提携し、南部ルクソールの「王家の谷」にあるツタンカーメン王墓を5年かけ修復する計画を発表した。
評議会のザヒ・ハワス事務局長は、王墓内の壁に描かれた彩色画や彫刻などが、観光客が持ち込んでいるとみられるカビや湿気で損傷していると危機感を示していた。ツタンカーメン王墓は1922年、英考古学者ハワード・カーターが発見した。
[ 2009年11月11日 (共同通信)
2009年11月21日 Posted by かるの at 21:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
「実に実に実に実に」切腹無念、武市瑞山の書状か
新たに見つかった武市瑞山の書状(高知市の土佐山内家宝物資料館で)

幕末の志士・坂本龍馬の盟友として知られ、土佐勤王党を主宰した 武市 ( たけち ) 瑞山(半平太、1829~65年)が、切腹直前に獄中から仲間に送ったとみられる書状が、高知市の土佐山内家宝物資料館で見つかった。
反論の機会すら与えられず、罪状を言い渡されたことに対し
「実に(以下3回) 絶言語申候 ( げんごにぜっしもうしそうろう ) (言語道断だ)」
と、「実に」を4度重ねており、同館は「志を遂げられなかった悔しさが生々しく伝わる」としている。13日から同館の特別展で公開される。
同館が、志士らの書状約20通をまとめた巻物を所蔵資料から見つけた。武市の書状は複数あり、あて先は不明だが、いずれも藩に捕らえられた1863年から切腹までの1年半の間に記されたらしい。
「実に」と書かれた書状は、65年の罪状言い渡しの直後のもの。病床から無理やり連れて行かれた取り調べの様子などを筆記。「皆々…所置(切腹)スル事」になるだろうとの覚悟を記して結んでいる。
明治時代の歴史書「維新土佐勤王史」には同様の内容は記されていたが、書状の所在は不明だった。武市は土佐藩の尊皇 攘夷 ( じょうい ) 派のリーダー的存在で、龍馬も若い頃、土佐勤王党に加わっていた。
藤田雅子・同館学芸員は
「武市の普段の字よりも小さいが、『実に』の字だけは大きく、無念さがわかる」
と話している。

幕末の志士・坂本龍馬の盟友として知られ、土佐勤王党を主宰した 武市 ( たけち ) 瑞山(半平太、1829~65年)が、切腹直前に獄中から仲間に送ったとみられる書状が、高知市の土佐山内家宝物資料館で見つかった。
反論の機会すら与えられず、罪状を言い渡されたことに対し
「実に(以下3回) 絶言語申候 ( げんごにぜっしもうしそうろう ) (言語道断だ)」
と、「実に」を4度重ねており、同館は「志を遂げられなかった悔しさが生々しく伝わる」としている。13日から同館の特別展で公開される。
同館が、志士らの書状約20通をまとめた巻物を所蔵資料から見つけた。武市の書状は複数あり、あて先は不明だが、いずれも藩に捕らえられた1863年から切腹までの1年半の間に記されたらしい。
「実に」と書かれた書状は、65年の罪状言い渡しの直後のもの。病床から無理やり連れて行かれた取り調べの様子などを筆記。「皆々…所置(切腹)スル事」になるだろうとの覚悟を記して結んでいる。
明治時代の歴史書「維新土佐勤王史」には同様の内容は記されていたが、書状の所在は不明だった。武市は土佐藩の尊皇 攘夷 ( じょうい ) 派のリーダー的存在で、龍馬も若い頃、土佐勤王党に加わっていた。
藤田雅子・同館学芸員は
「武市の普段の字よりも小さいが、『実に』の字だけは大きく、無念さがわかる」
と話している。
[ 2009年11月13日 (読売新聞)

