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奈良県下市町・ 丹生川上神社下社

 ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
 神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
 ここでは私が尋ねた神社を紹介します。




丹生川上神社下社は奈良県吉野郡下市町長谷1-1に座する式内社に比定される旧官幣大社の神社である。



 祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)

産霊石(むすびいし)

古来の性神信仰の名残か。

水の神らしく境内に井戸


蛙が立ち上がった姿に見えるということで蛙石

瞬時に決断が出来るように、という御利益。

 例大祭は6月1日


今までの訪ねた神社をマッピングしました。ご参考にして下さい。

より大きな地図で Holymountain を表示
  


2012年11月15日 Posted by かるの at 14:04Comments(0)神社探訪

さよなら円形校舎 習志野

取り壊される2棟の円形校舎

 習志野市立津田沼小学校(児童619人)の円形校舎2棟が、老朽化で近く解体される。築55年。9千人を超える卒業生が輩出した。27日、児童や卒業生、地域住民の「見納めの集い」があった。
 1957年に東校舎、翌年に西校舎が完成した。直径29メートル、高さ15メートルの3階建て。校長室、職員室などの2階建て管理棟をはさんで両側にある。
 「近くにあった木造の古い校舎から木の小さないすを持ち、アリの行列のように歩いて新しい円形校舎に引っ越したのを覚えている」。62年度卒業の製粉会社社長白鳥理一郎さん(61)は懐かしそうだ。
 円形校舎は当時、敷地の有効利用と建材が少なく、建設コストが抑えられることから全国的に普及。国内に約100棟が現存するというが、老朽化で取り壊しが続く。市内でも市立第二中学校、習志野高校もかつて円形だった。
 バームクーヘンを切ったような扇形の教室は中心側に黒板があり、後方がガラス窓。櫻井克美校長(58)は「教壇からは末広になるので、子どもたちの視線、表情を把握しやすかった」という。
 教室は円形廊下でつながり、各フロアに二つある階段の一つはらせんだ。当時かららせん階段は上り専用で、下りは一般階段との決まりがある。
 78年度卒業の布団店経営植草誠さん(46)は「たまにズルしてらせん階段を下りたことがある。『ルールを守れ』って先生に怒られた」との思い出がある。
 一男一女も通うPTA役員伊藤希実子さん(41)は82年度卒。「円形の廊下はクラス替えで別々になった友達を探しやすかった。普通校舎だった中学校は長い廊下。会いに行きづらかった」
 8月の夏休みには見学会があった。延べ13日間で卒業生の1割に当たる約1千人が訪れた。子どもたちは12月、隣接に完成する4階建て新校舎に移る。特別に設計された円形教室の2階図書室、3階音楽室が名残だ。 (佐々木和彦)


2012年10月28日 朝日新聞
  


2012年11月06日 Posted by かるの at 14:16Comments(0)文化財保護

城の山古墳:大量の副葬品 公開も−胎内/新潟

  胎内市大塚にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城(じょう)の山古墳」から発見された副葬品は、当時の大和政権と被葬者に深い関係があったことをうかがわせた。政権が4世紀に既にこの地域まで影響力を持っていた可能性があり、「日本の歴史を変える意味合いも強い」(同市教委)。調査は今後も続けられる予定で、さらなる新事実の発見も期待されそうだ。【小林多美子】

 同古墳(直径約41メートル、高さ約5メートル)は県内で3番目に大きい古墳で、97年に第1次調査が始まった。今回は第6次調査で今年4〜9月にかけて行われた。当初は、舟形木棺(長さ約8メートル)の遺物の一部を取り上げるだけの予定だったが、大量の副葬品が発見されたため棺内の全てを調査することになったという。

 被葬者が大和政権との関係を深めた背景について、同市教委は「最新の技術でもたらされる鉄製品を手に入れることは、地域の有力者として権力を誇示し、保つ手段になったのでは」と解説する。古墳周辺の東西200メートルには、同時代と思われる生活集落の遺跡2カ所(大塚遺跡、天野遺跡)が存在する。

 同古墳は現在の調査では楕円(だえん)形の円墳とされるが、北側に農道が走るため調査ができておらず、市教委はレーザー探査などに取りかかる予定だ。より高位の人が葬られるとされる「前方後円墳」だった可能性もあり、今後の調査が期待される。

 同市教委によると、同古墳は盗掘など荒らされた形跡はほとんどなく、原形をとどめていた。繊維や木製の有機物が出土することは希少で、同市教委の小野達也教育長は6日の記者会見で「地域の皆さんが大切に守ってくれたことを感謝したい」と話した。地元では、昔から古墳を「ひと籠(かご)山」と呼び、「三郎という力持ちの若者が、山をかごに乗せて運び、現在の場所に置いた」という伝説も残るという。


(2012年09月07日 毎日新聞地方版)
  


2012年11月05日 Posted by かるの at 14:15Comments(0)考古学(埋蔵文化財)