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城の山古墳:大量の副葬品 公開も−胎内/新潟
胎内市大塚にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城(じょう)の山古墳」から発見された副葬品は、当時の大和政権と被葬者に深い関係があったことをうかがわせた。政権が4世紀に既にこの地域まで影響力を持っていた可能性があり、「日本の歴史を変える意味合いも強い」(同市教委)。調査は今後も続けられる予定で、さらなる新事実の発見も期待されそうだ。【小林多美子】
同古墳(直径約41メートル、高さ約5メートル)は県内で3番目に大きい古墳で、97年に第1次調査が始まった。今回は第6次調査で今年4〜9月にかけて行われた。当初は、舟形木棺(長さ約8メートル)の遺物の一部を取り上げるだけの予定だったが、大量の副葬品が発見されたため棺内の全てを調査することになったという。
被葬者が大和政権との関係を深めた背景について、同市教委は「最新の技術でもたらされる鉄製品を手に入れることは、地域の有力者として権力を誇示し、保つ手段になったのでは」と解説する。古墳周辺の東西200メートルには、同時代と思われる生活集落の遺跡2カ所(大塚遺跡、天野遺跡)が存在する。
同古墳は現在の調査では楕円(だえん)形の円墳とされるが、北側に農道が走るため調査ができておらず、市教委はレーザー探査などに取りかかる予定だ。より高位の人が葬られるとされる「前方後円墳」だった可能性もあり、今後の調査が期待される。
同市教委によると、同古墳は盗掘など荒らされた形跡はほとんどなく、原形をとどめていた。繊維や木製の有機物が出土することは希少で、同市教委の小野達也教育長は6日の記者会見で「地域の皆さんが大切に守ってくれたことを感謝したい」と話した。地元では、昔から古墳を「ひと籠(かご)山」と呼び、「三郎という力持ちの若者が、山をかごに乗せて運び、現在の場所に置いた」という伝説も残るという。
同古墳(直径約41メートル、高さ約5メートル)は県内で3番目に大きい古墳で、97年に第1次調査が始まった。今回は第6次調査で今年4〜9月にかけて行われた。当初は、舟形木棺(長さ約8メートル)の遺物の一部を取り上げるだけの予定だったが、大量の副葬品が発見されたため棺内の全てを調査することになったという。
被葬者が大和政権との関係を深めた背景について、同市教委は「最新の技術でもたらされる鉄製品を手に入れることは、地域の有力者として権力を誇示し、保つ手段になったのでは」と解説する。古墳周辺の東西200メートルには、同時代と思われる生活集落の遺跡2カ所(大塚遺跡、天野遺跡)が存在する。
同古墳は現在の調査では楕円(だえん)形の円墳とされるが、北側に農道が走るため調査ができておらず、市教委はレーザー探査などに取りかかる予定だ。より高位の人が葬られるとされる「前方後円墳」だった可能性もあり、今後の調査が期待される。
同市教委によると、同古墳は盗掘など荒らされた形跡はほとんどなく、原形をとどめていた。繊維や木製の有機物が出土することは希少で、同市教委の小野達也教育長は6日の記者会見で「地域の皆さんが大切に守ってくれたことを感謝したい」と話した。地元では、昔から古墳を「ひと籠(かご)山」と呼び、「三郎という力持ちの若者が、山をかごに乗せて運び、現在の場所に置いた」という伝説も残るという。
(2012年09月07日 毎日新聞地方版)
2012年11月05日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │考古学(埋蔵文化財)
古代山陰道の遺構か 鳥取
鳥取市で発見された古代山陰道とみられる遺構

官道「古代山陰道」の一部とみられる遺構が、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で見つかったことが、鳥取県埋蔵文化財センターの調査で分かった。同センターは「全国の古代官道の発掘約200例の中で、最も保存状態が良好」としている。
8~12世紀(奈良―平安時代)の構築とみられる遺構は、ほぼ東西に長さ約45メートル。道路部分は台形で、最大幅約7・8メートル、路面の上面幅約4メートルで高さ約0・6メートル。路肩に沿って木製のくいが打ち込まれている。
道路の構造は盛り土の上に広葉樹の枝を格子状に重ね、その上に粘土を約15センチ積み、表層には川原石を約5センチの厚さで敷き詰めている。入念な造りや、「柏尾駅」の推定地が近いことなどから、古代山陰道の一部とみられる。
古代山陰道は、都と地方を結ぶために整備された官道のうち、主要な七道の一つ。これまで倉吉市や松江市など5カ所で発掘されている。
同センターは弥生時代の集落を調査するため、遺構を含む一帯225平方メートルを6月から調査。「官道の構造を土木工学的に探るうえで貴重だ」としている。

官道「古代山陰道」の一部とみられる遺構が、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で見つかったことが、鳥取県埋蔵文化財センターの調査で分かった。同センターは「全国の古代官道の発掘約200例の中で、最も保存状態が良好」としている。
8~12世紀(奈良―平安時代)の構築とみられる遺構は、ほぼ東西に長さ約45メートル。道路部分は台形で、最大幅約7・8メートル、路面の上面幅約4メートルで高さ約0・6メートル。路肩に沿って木製のくいが打ち込まれている。
道路の構造は盛り土の上に広葉樹の枝を格子状に重ね、その上に粘土を約15センチ積み、表層には川原石を約5センチの厚さで敷き詰めている。入念な造りや、「柏尾駅」の推定地が近いことなどから、古代山陰道の一部とみられる。
古代山陰道は、都と地方を結ぶために整備された官道のうち、主要な七道の一つ。これまで倉吉市や松江市など5カ所で発掘されている。
同センターは弥生時代の集落を調査するため、遺構を含む一帯225平方メートルを6月から調査。「官道の構造を土木工学的に探るうえで貴重だ」としている。
2012・10・29中国新聞
2012年11月03日 Posted by かるの at 14:18 │Comments(0) │考古学(埋蔵文化財)
「冨」似た漢字墨書き 9世紀ごろの土器出土
土器の底面に墨書きされた「冨」に似た文字(富士市教委提供)

富士市厚原の「中桁・中ノ坪遺跡」(奈良時代~平安時代)で、「冨」に似た漢字が墨書きされた土器=写真=が出土した。土器は9世紀に作られたものとみられる。同市教委は「現在の『富士』や『富士山』の表記につながる出土品かもしれない」と期待を寄せている。
「冨」に似た漢字は土器の底面に書かれている。富士山の「富」の字とは異なり「わかんむり」で、冠の下の「一」がないのが特徴だ。同市教委文化振興課によると、同遺跡の東の「東平遺跡」で2000年、「布自(ふじ)」と墨書きされた8世紀の土器が出土したほか、富士市今泉でも、今回と同じように読めそうだが判読不能の文字が書かれた土器が見つかった例があるという。
同市教委の説明では、土器に墨で文字などを書いたものを「墨書土器」といい、地名や身分、方位が書き込まれているほか、「財」「吉」などめでたい言葉として漢字が書かれていることもある。今回の「冨」に似た漢字も同様の意味が込められている可能性があるが、「万葉集の時代にはこの地が『ふじ』と呼ばれていたことは明らかで、現在の表記である『富士』のルーツである可能性は否定できない」(同課埋蔵文化財調査室)という。
同市教委は今後、さらに分析を進め、奈良時代から平安時代にかけての「富士」や「富士山」の姿を明らかにしていくという。
(2012年10月26日 読売新聞)