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近江八景 「膳所城からの眺望」 京大研究者が史料発見
「石山の秋月(しゅうげつ)」や「三井の晩鐘(ばんしょう)」で知られる近江八景は、「寬永の三筆(さんぴつ)」の公卿(くぎょう)近衛信尹(のぶただ)(1565~1614年)が琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み、選んだことが分かる史料を京都大の研究者が23日までに見つけた。近江八景の選定を巡っては従来諸説があり、室町後期の関白近衛政家が選んだと記した辞典が多いが、覆ることになる。
■寛永の三筆 近衛信尹、和歌詠み選定
また、近江八景が滋賀県全域ではなく琵琶湖南部に集中している謎は、膳所城を中心とした景色の取り合わせだったことで説明が付くことになる。
史料は、江戸初期の1624年に儒学者の菅得庵が記した「八景和歌<琵琶湖>」(伊勢神宮の神宮文庫蔵)。近江八景をそれぞれ詠み込んだ和歌8首を写して「この和歌は、信尹公が膳所城からの八景を眺望して紙に写し、城主に賜れた」(意訳)と記していた。
得庵は、二代膳所城主の戸田氏鉄に儒学を講じていたことが分かっており、記述を見つけた京都大大学院文学研究科の鍛冶宏介非常勤講師(日本史学)は「近江八景の始まりを氏鉄から聞いたと考えられる極めて信頼性の高い史料」とみる。
近江八景を巡っては、近衛政家が1500年夏、近江滞在時に選んだとする説が江戸中期の地誌で広まり、この説を今も記す辞典が多い。しかし、政家の日記によれば同時期は京都の自邸にこもっていたとされる上、近江八景の絵などの作品が江戸時代以降にならないと確認できないなど信憑(しんぴょう)性が低かった。
一方、信尹説を記した文献も1803年刊の随筆「閑田耕筆(かんでんこうひつ)」など以前からあったが、信尹とほぼ同時代の信頼性の高い史料が見つかったことで、近江八景に詳しい大津市歴史博物館の横谷賢一郎学芸員(44)は「信尹選定が決定的となった。信尹が近江八景を和歌で詠んで公家たちに受け入れられ、江戸中期以降、絵画化によって日本を代表する名所として広まった」とみている。
【近江八景】 琵琶湖周辺の8景勝=図。山水画で知られる中国の景勝、瀟湘(しょうしょう)八景にちなむ。歌川広重の浮世絵で有名。現行の近江八景が定着するまでも室町時代から京都の禅僧たちがさまざまな八景を琵琶湖で詠んでいたとされる。
【 2012年09月24日 09時42分 】
2012年09月30日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │歴史史料
これが幕末~明治の医学生…写真97枚見つかる
長州藩の医学生ら(撮影時期不明)=長崎大付属図書館提供

長崎府医学校の前でヘールツ(中央)らと写ったマンスフェルト(左)(1871年撮影)=長崎大付属図書館提供
幕末から明治初期に長崎や熊本、京都などで活動し、北里柴三郎らを指導したオランダ人医学教師、マンスフェルト(1832~1912年)が所有していた写真が見つかった。
当時の医学生や医学校が写った97枚で、長崎大付属図書館がスイスに住む孫から画像データの形で提供を受けた。日本の医学教育の歴史を伝える貴重な資料として評価されており、10月から長崎市や福岡市など全国5か所で展示される。
マンスフェルトは1866年、江戸幕府の招きで来日し、長崎大医学部の前身の精得館(せいとくかん)に赴任。明治時代に入っても日本に残り、72年に移った熊本医学校(現・熊本大医学部)では北里柴三郎らを指導したほか、京都や大阪でも西洋医学を教えた。
医学教育の歴史を調査していた同図書館が写真を入手したのは半年前。日本人女性がマンスフェルトに宛てた手紙を翻訳するよう、米国に住むひ孫から依頼を受けた際、マンスフェルトが日本に滞在していた頃の写真をスイス在住の孫が保管していることがわかった。ひ孫らは「マンスフェルトの功績を日本の人に知ってもらえるのなら」と、孫の手元にあった97枚のデータ提供を快諾したという。
写真には「出島のオランダ領事館」「1874年8月22日の台風後の長崎」などオランダ語の説明が書き添えられていた。精得館から改称された長崎府医学校で1871年に撮影された写真には、マンスフェルトとともに、薬局や処方箋の制度の基礎を築いたオランダ人の薬学教師ヘールツも写っていた。
また、長州藩から学びに来ていた約100人の医学生が記念撮影している写真には、予科生として基礎教育を受けた藩士の子供も納まっていた。医学や薬学に関する人材が長崎に集まっていたことがうかがえるという。このほか、マンスフェルトが熊本城からの眺めや京都の役者を自ら撮影した写真も含まれている。
同図書館の姫野順一館長は「鮮明な写真が多く、当時の医学に関わった人物を特定できる可能性もある」と話している。(山田裕子)
(2012年9月12日17時58分 読売新聞)
2012年09月22日 Posted by かるの at 14:14 │Comments(0) │歴史史料
「今も昔も災害の連続」 大郷・震災解体家屋から古文書
角田さん方で見つかった古文書
東日本大震災で被災した宮城県大郷町大松沢の無職角田剛佶さん(75)方から、江戸時代後期-明治初期の古文書が多数見つかった。解体した家屋のふすまやびょうぶの内側に、角田さんの先祖が村の村長格の肝入(きもいり)を務めていた際の関連文書があった。角田さんは「当時の先祖たちの暮らしがしのばれる」と整理を進めている。
角田家の口伝や旧大松沢村史などによると、角田さんから数えて6代前の林左衛門、太五平親子は江戸後期から幕末にかけて肝入、明治には村扱などの役職に就いた。村内の年貢の割り当て、戸籍調査などを行った。
築73年の角田さん方は、東日本大震災でひびが入ったり、ゆがみが生じたりした。家屋の解体に当たり、ふすまやびょうぶの下張りに使われた大小400枚以上の古文書が出てきた。
文書には、「天保」「安政」「明治」といった年号の記載があった。「切支丹(きりしたん)改め」の証文や、借金をした村民の保証人になった際の借用書なども見つかった。
村は江戸後期、天候不順でたびたび災害や凶作に襲われている。村民の年貢や租税の延期を求める文書もあった。役所に出した文書の写しとみられ、角田さんは「今も昔も、災害に苦労する歴史の連続だ」と思いをはせる。
角田さんは現在、敷地内に新築した自宅で、文書の解読や調査を独自に行っている。角田さんは「地域の歴史の編さんに少しでも役に立ってくれれば」と話している。
2012年08月17日 河北新報