川島芳子生存説の女性、長崎に=元秘書の墓訪れる
旧日本軍のスパイとして、北京で処刑されたとされる「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が中国吉林省で生存していたと証言した女性画家の張※(※=金ヘンに玉)さん(41)らが5日、長崎市にある芳子の秘書だった小方八郎氏の墓を訪れ、冥福を祈った。
張さんは、亡くなる直前の祖父から芳子の生存を告げられ、芳子を救出したとされる男性が小方氏にあてた書簡入りの獅子像を託された。墓前で書簡を手に「ここに含まれた意味を知るのはあなただけ」と語り掛けた。
張さんは
「(芳子とされる)方おばさんは生前、『小方』という言葉を話していた。祖父の遺言を実現できてよかった」
と話した。
川島芳子の写真「目の光同じ」=生存説の中国人女性-松本
旧日本軍のスパイとして、北京で処刑されたとされる「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が処刑を逃れ中国吉林省で生存していたと証言した女性画家の張※(※=金ヘンに玉)さん(41)らが3日、長野県松本市の川島芳子記念室を訪れ、芳子の女学生時代の写真などを見学した。
芳子の若いころの写真を初めて見たという張さんは
「方おばあちゃん(芳子とされる女性)は人の心の底まで見抜く眼力を持っていた。この目の光は、おばあちゃんと同じ」
と指摘。義理の祖父が張さんの母(64)に告白した芳子生存説に確信を深めた様子だった。
「東洋のマタ・ハリ」川島芳子に新生存説…78年まで長春で
旧日本軍のスパイとして1948年に北京で処刑された川島芳子について、中国吉林省長春市の民間研究者が「実際は処刑を逃れ、78年まで長春で暮らしていた可能性が高い」との調査結果をまとめた。
今年が処刑から60年に当たることもあり、地元メディアが相次ぎ報道し、話題になっている。
元吉林省芸術学校長の李剛氏(54)らによる調査で、長春に住む段続●さん(64)、張●さん(41)母娘の証言が核。段さんの養父(2004年に86歳で死去)が2000年と死去直前の2回、一家と付き合いがあり、78年に死亡した「方おばさん」について「実は川島芳子だった」と打ち明け、自らの死去前に遺品を引き渡したという。(最初の●は「敬」の下に手、次の●は金ヘンに「玉」)
遺品は川島と親交があった歌手兼女優、李香蘭(山口淑子・元参院議員)のレコードと七宝焼の獅子の置物、フランス製双眼鏡、日本画の模写など。養父はレコードは李香蘭に、獅子の置物は川島の秘書だった小方八郎(故人)に渡すよう頼んだという。
李氏らによると、養父は満州国の警察学校を経て、警察幹部の日本語通訳を務めた。張さんは「祖父は『警察学校時代の仲間2人が金で処刑の身代わりを用意した』と言った。川島芳子とは面識があったそうだ」と証言。方おばさんは長春郊外に住み、仕事はせず、張さんに日本語や日本の歌などを教えたという。
この調査がきっかけで、清朝の皇帝一族だった愛新覚羅家の 末裔 ( まつえい ) 、徳崇(溥旻)さん(63)も「55年か56年に瀋陽で会った」と明らかにした。中年女性が自宅を訪れた際、父親が「ああ、璧輝」と声をかけたという。川島の中国名は「金璧輝」。日本人の養女になって名前が変わったが、もとは清朝の王女だった。徳崇さんは「姉から『あの人は金璧輝と言い、文武に優れ、代わりに死んでくれる人までいる』と教わった」と話す。
ただ、決定的な証拠は見つかっていない。「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」の異名を取った川島に関しては処刑直後から替え玉説が流れ、過去にも生存情報があった。「川島芳子を偲ぶ会」(長野県松本市)の穂苅甲子男会長(84)は「早朝、寝間着姿のまま連行された川島に所持品を持ち出す余裕はなかったはず。今回の真偽はよくて五分五分ではないか」と話した。(長春で、牧野田亨)
◆川島芳子 1906年、あるいは07年、北京生まれ。清朝復興を夢見て満州事変、上海事変などで 防諜 ( ぼうちょう ) 活動に従事した。45年10月、国民党政府に逮捕された。
2008年12月5日(読売新聞)
川島芳子、金の延べ棒で処刑回避?=生存説めぐり旧満州で調査
【北京16日時事】
旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が処刑を逃れ、旧満州の中国吉林省長春市で1978年まで生存していたとの情報について、同市で専門家による調査が行われており、これまでに身代わり処刑された女性の家族に金の延べ棒が渡された可能性のあることが分かった。
調査は、義理の祖父から川島芳子生存説を告白され、遺品を託された女性画家、張※(※=金ヘンに玉)さん(41)が長春市の研究者に委託。遺品の鑑定作業などが行われている。
調査に加わった吉林省の元芸術学校長、李剛さんによれば、替え玉になったとみられるのは末期がんの女性で、代償として金の延べ棒10本が家族に渡される約束だった。しかし、女性の妹は4本しか受け取れなかったため、内実を暴露し、裁判所に訴えた。当時の国民党当局は「デマだ」と否定したが、国共内戦でうやむやになったという。この情報は、48年4月の北京紙・北平日報でも報じられた。
張さんは、亡くなる直前の祖父から芳子の生存を告げられ、芳子を救出したとされる男性が小方氏にあてた書簡入りの獅子像を託された。墓前で書簡を手に「ここに含まれた意味を知るのはあなただけ」と語り掛けた。
張さんは
「(芳子とされる)方おばさんは生前、『小方』という言葉を話していた。祖父の遺言を実現できてよかった」
と話した。
[ 2009年3月5日[時事通信社]
川島芳子の写真「目の光同じ」=生存説の中国人女性-松本
旧日本軍のスパイとして、北京で処刑されたとされる「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が処刑を逃れ中国吉林省で生存していたと証言した女性画家の張※(※=金ヘンに玉)さん(41)らが3日、長野県松本市の川島芳子記念室を訪れ、芳子の女学生時代の写真などを見学した。
芳子の若いころの写真を初めて見たという張さんは
「方おばあちゃん(芳子とされる女性)は人の心の底まで見抜く眼力を持っていた。この目の光は、おばあちゃんと同じ」
と指摘。義理の祖父が張さんの母(64)に告白した芳子生存説に確信を深めた様子だった。
[ 2009年3月3日[時事通信社]
「東洋のマタ・ハリ」川島芳子に新生存説…78年まで長春で
旧日本軍のスパイとして1948年に北京で処刑された川島芳子について、中国吉林省長春市の民間研究者が「実際は処刑を逃れ、78年まで長春で暮らしていた可能性が高い」との調査結果をまとめた。
今年が処刑から60年に当たることもあり、地元メディアが相次ぎ報道し、話題になっている。
元吉林省芸術学校長の李剛氏(54)らによる調査で、長春に住む段続●さん(64)、張●さん(41)母娘の証言が核。段さんの養父(2004年に86歳で死去)が2000年と死去直前の2回、一家と付き合いがあり、78年に死亡した「方おばさん」について「実は川島芳子だった」と打ち明け、自らの死去前に遺品を引き渡したという。(最初の●は「敬」の下に手、次の●は金ヘンに「玉」)
遺品は川島と親交があった歌手兼女優、李香蘭(山口淑子・元参院議員)のレコードと七宝焼の獅子の置物、フランス製双眼鏡、日本画の模写など。養父はレコードは李香蘭に、獅子の置物は川島の秘書だった小方八郎(故人)に渡すよう頼んだという。
李氏らによると、養父は満州国の警察学校を経て、警察幹部の日本語通訳を務めた。張さんは「祖父は『警察学校時代の仲間2人が金で処刑の身代わりを用意した』と言った。川島芳子とは面識があったそうだ」と証言。方おばさんは長春郊外に住み、仕事はせず、張さんに日本語や日本の歌などを教えたという。
この調査がきっかけで、清朝の皇帝一族だった愛新覚羅家の 末裔 ( まつえい ) 、徳崇(溥旻)さん(63)も「55年か56年に瀋陽で会った」と明らかにした。中年女性が自宅を訪れた際、父親が「ああ、璧輝」と声をかけたという。川島の中国名は「金璧輝」。日本人の養女になって名前が変わったが、もとは清朝の王女だった。徳崇さんは「姉から『あの人は金璧輝と言い、文武に優れ、代わりに死んでくれる人までいる』と教わった」と話す。
ただ、決定的な証拠は見つかっていない。「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」の異名を取った川島に関しては処刑直後から替え玉説が流れ、過去にも生存情報があった。「川島芳子を偲ぶ会」(長野県松本市)の穂苅甲子男会長(84)は「早朝、寝間着姿のまま連行された川島に所持品を持ち出す余裕はなかったはず。今回の真偽はよくて五分五分ではないか」と話した。(長春で、牧野田亨)
◆川島芳子 1906年、あるいは07年、北京生まれ。清朝復興を夢見て満州事変、上海事変などで 防諜 ( ぼうちょう ) 活動に従事した。45年10月、国民党政府に逮捕された。
2008年12月5日(読売新聞)
川島芳子、金の延べ棒で処刑回避?=生存説めぐり旧満州で調査

【北京16日時事】
旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」、川島芳子が処刑を逃れ、旧満州の中国吉林省長春市で1978年まで生存していたとの情報について、同市で専門家による調査が行われており、これまでに身代わり処刑された女性の家族に金の延べ棒が渡された可能性のあることが分かった。
調査は、義理の祖父から川島芳子生存説を告白され、遺品を託された女性画家、張※(※=金ヘンに玉)さん(41)が長春市の研究者に委託。遺品の鑑定作業などが行われている。
調査に加わった吉林省の元芸術学校長、李剛さんによれば、替え玉になったとみられるのは末期がんの女性で、代償として金の延べ棒10本が家族に渡される約束だった。しかし、女性の妹は4本しか受け取れなかったため、内実を暴露し、裁判所に訴えた。当時の国民党当局は「デマだ」と否定したが、国共内戦でうやむやになったという。この情報は、48年4月の北京紙・北平日報でも報じられた。
[ 2008年11月15日【時事通信社】
2008年03月07日 Posted byかるの at 09:26 │Comments(3) │人物伝
この記事へのコメント
川島芳子さんの生存説は私もテレビで拝見致しました、小方八郎は私の父方の祖父の末弟でした(今は故人)墓は長崎におります、今は私の家族が守っております、いつかは松本の川島芳子記念館を訪れたいと思っております、
Posted by 小方貴美子 at 2014年06月19日 10:20
真実が証明されてほしい。
Posted by Bao at 2016年05月15日 08:50
小方八郎先生日記,有?
Posted by 村里 at 2020年08月27日 12:28