<芥川龍之介>27歳の手紙発見 文学青年に小説指南
芥川龍之介が作家志望の青年にあてた直筆の手紙=岩下幸一郎撮影

日本近代文学を代表する小説家、芥川龍之介(1892~1927年)が、作家志望の青年にあてた手紙が見つかった。毛筆でしたためられた長文の手紙からは、芥川の実直で義理堅い一面がうかがえる。今後の芥川研究にとって、貴重な資料となりそうだ。【棚部秀行】
「あなたの批評眼を養ふ上に於て幾方でも利益があればよいと思つて書きました」
あて先は東京・神谷町の「中村眞雄様」。遺品を整理中の親族が発見した。手紙は縦18センチ、長さ約120センチの和紙に書かれ、1919年3月8日の日付がある。中村さんは当時21歳の学生で、作家を志していたという。
手紙では、他の作家が同人誌に書いた作品、リルケら有名作家の名を挙げながら、
「人道主義的な感激とが互にエフエクトを強め合つてゐます」など作品の長所と短所を懇切丁寧に指摘。親身になってアドバイスしている。
芥川は当時27歳。横須賀の海軍機関学校に教師として勤務していた。「地獄変」や「邪宗門」を発表した直後で、新鋭作家として数多くの原稿依頼をこなしていたとみられる。この年の4月から学校を辞め、大阪毎日新聞の正式な社員となった。
文芸評論家の川村湊さんは
「芥川は夏目漱石に『鼻』を読んでもらったことがきっかけになって、見いだされた。自分も若い人たちには丁寧に応対しようと思っていたのだろう。芥川の人柄を再確認できる発見だ」
と話す。
芥川龍之介の研究で知られる都留文科大名誉教授の関口安義さんの話
「いかにも律義な芥川らしい書簡と言えよう。彼は一読者に対してもへりくだって便りを出すのが常であった。謙虚さが伝わってくる。当時、芥川は原稿の締め切りに追われ、2年4カ月ほど勤めた海軍機関学校を辞めるため、自分の身の始末だけでも大わらわであったのに、無名の青年への手紙をおろそかにしない。芥川の側面がよく分かる書簡として貴重である。」

日本近代文学を代表する小説家、芥川龍之介(1892~1927年)が、作家志望の青年にあてた手紙が見つかった。毛筆でしたためられた長文の手紙からは、芥川の実直で義理堅い一面がうかがえる。今後の芥川研究にとって、貴重な資料となりそうだ。【棚部秀行】
「あなたの批評眼を養ふ上に於て幾方でも利益があればよいと思つて書きました」
あて先は東京・神谷町の「中村眞雄様」。遺品を整理中の親族が発見した。手紙は縦18センチ、長さ約120センチの和紙に書かれ、1919年3月8日の日付がある。中村さんは当時21歳の学生で、作家を志していたという。
手紙では、他の作家が同人誌に書いた作品、リルケら有名作家の名を挙げながら、
「人道主義的な感激とが互にエフエクトを強め合つてゐます」など作品の長所と短所を懇切丁寧に指摘。親身になってアドバイスしている。
芥川は当時27歳。横須賀の海軍機関学校に教師として勤務していた。「地獄変」や「邪宗門」を発表した直後で、新鋭作家として数多くの原稿依頼をこなしていたとみられる。この年の4月から学校を辞め、大阪毎日新聞の正式な社員となった。
文芸評論家の川村湊さんは
「芥川は夏目漱石に『鼻』を読んでもらったことがきっかけになって、見いだされた。自分も若い人たちには丁寧に応対しようと思っていたのだろう。芥川の人柄を再確認できる発見だ」
と話す。
◇謙虚さが伝わる
芥川龍之介の研究で知られる都留文科大名誉教授の関口安義さんの話
「いかにも律義な芥川らしい書簡と言えよう。彼は一読者に対してもへりくだって便りを出すのが常であった。謙虚さが伝わってくる。当時、芥川は原稿の締め切りに追われ、2年4カ月ほど勤めた海軍機関学校を辞めるため、自分の身の始末だけでも大わらわであったのに、無名の青年への手紙をおろそかにしない。芥川の側面がよく分かる書簡として貴重である。」
[ 2009年5月28日 (毎日新聞)