芥川龍之介:未発表の書簡発見 薄田泣菫宛て、倉敷で



 芥川龍之介(1892~1927)の未発表の手紙とはがきが、岡山県倉敷市が所蔵する資料から見つかった。倉敷市出身の詩人で、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部長を務めた薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)(1877~1945)に宛てた書簡。泣菫の遺族から同市に寄贈された遺品の中にあった。

 手紙は濃いピンクの封筒に入れられ、大正8(1919)年5月23日の消印がある。
 「大阪朝日の披露会は菊池及(および)僕を招待せず恐らく商売仇(かたき)のせいでせう」
などと述べている。泣菫は当時、新進作家だった龍之介や菊池寛を積極的に社員として採用していた。大阪毎日のライバル紙の大阪朝日新聞(現朝日新聞)が文芸関係者を集めたパーティーに招待されなかったことについて、龍之介は
 「招待された顔ぶれをみると柳沢(朝日の文芸担当)の友だちが多いので一笑しました」
と皮肉を記している。

 はがきは大正10(1921)年10月21日の消印で、養生のために訪れていた神奈川県の湯河原から投函(とうかん)されている。
 「腹下しはやつととまりましたが神経衰弱は中々なほりません」
などとあり、後の龍之介の自殺につながる心身の衰弱ぶりがうかがえる。

 泣菫の遺品には、龍之介や寛のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻や谷崎潤一郎ら当時、泣菫と交流のあった作家たちの書簡や生原稿などが多数あり、市が全国の研究者7人に依頼して調査していた。今回確認された龍之介の2通は、岡山大大学院の西山康一准教授と東京成徳大の庄司達也教授が調べた。

 倉敷市文化振興課は「研究し尽くされた芥川龍之介に関して、未発表書簡があったのは大変な驚き。今後も資料調査を続けたい」と説明している。【小林一彦】

 ◇芥川龍之介

 1892年東京生まれ。東大在学中、夏目漱石に認められ文壇へ。1919年、大阪毎日新聞に入社し作家活動に専念した。21年、同社海外視察員として中国旅行。帰国後、心身を病み、27年自殺した。代表作に「羅生門」「河童」「鼻」など。

 ◇薄田泣菫

 1877年、現在の岡山県倉敷市生まれ。97年、詩壇デビューし明治を代表する詩人となった。1912年、大阪毎日新聞入社。学芸部長として、芥川や菊池寛を新聞小説に起用した。代表作に詩集「白羊宮」など。


[ 2011年5月20日 (毎日新聞)



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2011年06月06日 Posted byかるの at 21:16 │Comments(0)人物伝

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