小正月…小豆がゆで吉凶占う

小正月の15日、小豆がゆを使って稲作の豊凶を占う行事が和歌山県橋本市の神社で行われた。「管祭(くだまつり)」と呼ばれ、今年は竹筒の中にたくさんのかゆが入ったことから「豊作」と予想された。
隅田(すだ)八幡神社で江戸時代から200年ほど続く伝統行事。釜で炊く小豆がゆに穴を開けた3つの竹筒を入れ、筒に入った米の量でわせ、なかて、おくての出来を占う。今年はおくての筒にいっぱいに、わせ、なかての筒に8割入り、総合評価で豊作に。
寺本佳文禰宜(52)は「昨年は震災があったが、豊作と出た今年は災害のない年になってほしい」。占いで使ったかゆを食べると一年を無病息災で過ごせるといい、参拝客らに振る舞われた。
(2012年1月15日- 産経新聞)
2012年01月29日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
日本初?の水深図発見 明治の釜石港、公開へ

海上保安庁の東京都内の施設から、日本初の海図の基になった明治初頭の岩手県釜石港の水深図など歴史的資料が多く見つかったことが19日分かった。海保は「この水深図も日本で初めてとみられる」としている。海洋情報部庁舎が昨年12月に東京都江東区に移転した際、資料整理の過程で前の庁舎(中央区)から見つかった。海保は資料を電子データ化。江東区の海洋情報資料館で25日から閲覧できる。
(2012年1月19日- 共同通信)
2012年01月28日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │近現代史
魔よけの札求め「どやどや」四天王寺

紅白の鉢巻きにしめこみ姿の中高生らが魔よけの札を奪い合う恒例の「どやどや」が14日、大阪市天王寺区の四天王寺境内で行われた。
元日から続けられる五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る法要の締めくくり。魔よけの札をもらおうと、地元の農家が境内に「どやどや」と集まったのが起源とされる。
幼稚園児や中高生計約1100人が参加。中高生らは紅白に分かれ、舞い落ちる札を取ろうと、裸の体を激しくぶつけ合って手を伸ばしていた。
(2012年1月14日- 産経新聞)
2012年01月27日 Posted by かるの at 14:02 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
土器片に最古のいろは歌 三重・斎宮跡

伊勢神宮に仕える皇女「斎王」が過ごした斎宮跡(三重県明和町)から出土した平安時代後期の土器片(11世紀末~12世紀前半)に、平仮名で「いろは歌」が書かれていたことが分かり、17日、三重県立の斎宮歴史博物館(同町)が発表した。同館によると、平仮名のいろは歌が書かれた出土品としては日本最古となる。素焼きの土器片をつなぎ合わせると、皿の内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と書かれていた。
(2012年1月18日- 共同通信)
2012年01月26日 Posted by かるの at 14:14 │Comments(0) │TrackBack(0) │考古学(埋蔵文化財)
太宰府で年始の神事 去年の不幸を“うそ”に

学問や厄よけの神様として知られる福岡県太宰府市の太宰府天満宮で7日夜、災厄をはらい一年の幸福を願う「鷽替え・鬼すべ」の神事が行われ、参拝客でにぎわった。鷽替えは鳥のウソに掛けて、前年についてしまったうそや不幸な出来事をはらい清め、今年の運勢を「吉」に替える神事。集まった人たちが暗闇の中、「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに、ウソをかたどった10センチほどの木彫りの伝統民芸品「木うそ」を交換した。
(2012年1月7日- 共同通信)
2012年01月25日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
原発近くの古墳壁画ピンチ 床に木の根、放射能汚染で立入り困難
冠をかぶる人物などが描かれた壁画古墳で、福島第1原発から3・5キロしか離れていない福島県双葉町の国史跡、清戸迫(きよとさく)横穴(よこあな)で、草木の根が壁画近くまで伸びながら、原則立ち入りが禁じられた半径20キロ圏内の警戒区域のため、手つかずとなっていることが分かった。町教委が昨年9月末に状況を確認。町教委は17日、除去作業に入る予定だが、被曝(ひばく)を避けるため時間は数十分に限られ、迅速な作業が求められそうだ。
同古墳は7世紀の築造で、岩盤をくり抜いた埋葬空間(長さ、高さ各2・6メートル)の奥壁に渦巻き文様や馬に乗る人物などが朱色で描かれ、良好な状態で残っている。入り口に保護施設を設けて外部と遮断し、壁画を保護してきた。
しかし、東日本大震災による原発事故で、住民や町職員らが町外へ避難。昨年9月末、町職員が許可を得て調査したところ、保護施設や壁画の損傷はなかったが、床面に長さ1メートル以上の根が伸びているのを確認した。根は壁画まで1メートルに迫り、さらに伸びれば壁画に付着しそうな状況だった。
調査時の放射線量は、屋外で2・47マイクロシーベルト、横穴内は10分の1程度だった。この日の双葉町内での作業時間は計3時間程度だったが、他の文化財の状況確認も必要だったため、根の除去には至らなかった。
町教委は12月8日に再び現地に行ったが、保護施設の扉の鍵の不具合で中に入れなかったため、改めて許可を得て、今月17日に除去作業に入ることになった。担当者は「2~3月は雪が多くなり、その前に根を除去して対策を考えないといけない」と話す。
他の古墳壁画では「飛鳥美人」の描かれた高松塚古墳(奈良県明日香村)やキトラ古墳(同村)で根が付着し、除去できなくなっている。清戸迫横穴で根が壁画に付着すれば、警戒区域内で頻繁に立ち入れないため、より深刻な問題になる。文化庁美術学芸課は「壁画はただちに劣化する状況ではないが、処置も容易にできない」とし、対応に苦慮している。
(2012年1月15日- 産経新聞)
2012年01月24日 Posted by かるの at 14:02 │Comments(0) │TrackBack(0) │文化財保護
福島で伝統の奇祭「裸まいり」 復興願い、綱よじ登る

下帯姿の男衆が打ち綱によじ登る伝統の奇祭「七日堂裸まいり」が7日夜、福島県柳津町の福満虚空蔵尊円蔵寺であった。熱気に包まれた境内では、参加者や観光客らが東日本大震災からの復興や無病息災を祈った。午後8時半に合図の鐘が鳴ると、数百人が113段の石段をはだしで駆け上がった。冷水で体を清めた後、本堂へ。天井の大鰐口を目指し、体をぶつけて先を争いながら1本の綱をよじ登った。
(2012年1月7日- 共同通信)
2012年01月23日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
日露戦争多数の死に自責の念 乃木大将「養子とらず家断絶」書簡

NHKで2011年12月に放送されたドラマ「坂の上の雲」に登場する重要人物のひとり、乃木希典将軍。彼の直筆の書簡が北海道で見つかった。
過去にも乃木書簡はたびたび発見されているが、今回の内容は日露戦争で多くの兵士を死なせた自責の念がつづられているという。
自身も戦闘で長男勝典、次男保典を亡くす
書簡を入手したのは、北海道札幌市にある伊藤書房だ。宛先は、交流のあった元広島市長の佐藤正で、1910年7月6日の消印となっている。乃木はこの時期、学習院院長を務めていた。妻の静子とともに自刃する2年前だ。
どのような内容が書かれているのか。伊藤書房に取材すると、「日露戦争で『天皇陛下の赤子(せきし)』を多く死なせてしまったことへの後悔が、文章からうかがえます」と説明する。
日露戦争で乃木は陸軍司令官を務め、難攻不落と言われたロシアの旅順要塞を激戦の末に陥落させるなど軍功を立てた。しかし代償も大きかった。約6万人の日本兵が戦死し、乃木自身も長男の勝典、次男の保典を亡くした。明治時代は、ひとりの兵でも失うのは上官として大変不名誉なことと位置付けられていたといい、多くの尊い命が戦争で失われたことへの責任を深く胸に刻みつけていたと思われる。
手紙では、乃木家の後継者として養子を迎えるように勧めていた佐藤に対して、その意思がないことを伝え、自身の代で乃木家が断絶することもやむなしとの覚悟を示しているという。
実は乃木は、1877年に西郷隆盛らが起こした西南戦争で政府軍として鎮圧にあたったにもかかわらず、逆に敵兵から軍旗を奪われるという失態をおかしていた。「明治天皇から賜った旗」を失ったことをこの上もなく恥じ、以後大きな心の傷となった。これも、乃木が後継ぎとなる養子を迎えないひとつの理由だったようだ。
伊藤書房によると、書簡は長年付き合いのある顧客から3年前に購入したという。乃木の直筆という「証明」として、この手紙を読んだ陸軍大将の荒木貞夫や、日露戦争の従軍体験をもとに書いた戦記「肉弾」で知られる作家の桜井忠温の署名が入っている。毛筆で書かれた手紙の長さは150センチに及び、淡々としたトーンで書かれている印象だが、「読んでいくと、日露戦争で多くの犠牲者を出した自責の念や、そこから来る乃木の人生観が伝わってくる」そうだ。書簡は1月25日、札幌古書籍商組合のオークションにかけられる。
義弟からの就職あっせん依頼を断る手紙も
乃木自身がしたためた手紙は、これまでにも何度か見つかっている。2011年9月26日の産経新聞は、乃木が香川県に赴任していた1900年8月、就職の世話を頼まれたことに対する返信が発見されたと報じた。乃木の妹の夫からの依頼とみられるが、手紙には乃木が軍関係の仕事のあっせんを考えたものの、読み書きやそろばんなどの必須内容が依頼者には不向きなため見合わせたとの内容だった。
2006年には、岐阜県瑞浪市で乃木直筆の書簡が保管されていたことが分かった。岐阜新聞によると、町村合併する前の恵那郡陶村が乃木に戦勝記念碑と忠魂碑への揮毫を要請、乃木は「大小2つの碑をつくるのは意志に反する」としたうえで記念碑への揮毫のみ応じていた。碑は1911年に建立され、実際に乃木の揮毫が使われたという。
逆に乃木にあてて書かれた手紙が、米国在住の日本人の自宅から出てきたこともある。2000年、米カリフォルニア州サンノゼ郊外在住の在米日本人が、山縣有朋や桂太郎、東郷平八郎ら陸、海軍関係者からのものを中心に88通の書簡を保管していたことが報じられた。日露戦争で大激戦となった「203高地」攻防戦の末、旅順を落とした乃木に、東郷が手紙で称えているものもある。
(2012年1月14日- J-CAST)
2012年01月22日 Posted by かるの at 14:14 │Comments(0) │TrackBack(0) │人物伝
勇壮な獅子が復活の舞!「大曲浜獅子舞」 宮城県東松島市

宮城県東松島市の大曲浜地区に江戸時代から続く「大曲浜獅子舞」が3日、同市内の仮設住宅で披露された。東日本大震災の津波被害を受けて存続も危ぶまれたが、9体のうち4体が見つかり、2体が修繕されて例年通りの勇壮な舞いが実現した。仮設住宅で暮らす葛西恵子さん(48)は「勇壮で豪快な舞いを見て、前向きな気持ちになりました」と笑顔で話していた。
(2012年1月4日- 産経新聞)
2012年01月21日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
八坂神社 平安装束でかるた始め

新春恒例の「かるた始め」が3日、京都市東山区の八坂神社で行われ、平安装束に身を包んだ「かるた姫」らが古式ゆかしく百人一首を初手合わせした。
祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が詠んだ歌が短歌の起源とされることにちなむ新春行事。日本かるた院本院(同市下京区)などが昭和46年から毎年、神前に奉納している。
神事で大学生2人が華麗な手さばきを披露したあと、同院の小学生ら20人が1対1で対戦。境内には名歌を詠み上げる声が響き、初詣客らが華やいだ雰囲気を楽しんでいた。
(2012年1月3日- 産経新聞)
2012年01月20日 Posted by かるの at 14:03 │Comments(0) │TrackBack(0) │歳時記
人類最古のマットレス、南アで発見
知られているものでは世界最古の“マットレス”が南アフリカ共和国で発掘された。
アシやイグサを何層にも重ねて作られたこのマットレスは、草や葉の多い木々を圧縮して作られた寝具の山の最下層から発見された。これらの寝具は3万9000年の期間をかけて南アフリカ共和国東部のクワズール・ナタール州にあるシブドゥ洞窟(Sibudu Cave)に集積したと考えられ、最も古いものは7万7000年前にさかのぼる。
研究を主導したヨハネスバーグにあるウィットウォータースランド大学のリン・ワドリー氏は、「われわれが発見した植物を使った寝具の集積地は、これまで世界中で見つかった同類の場所よりも5万年は古い」と述べている。
3メートルの深さから発掘された、化石植物が圧縮された層から、これらの寝具が定期的に焼却されていたこともわかっている。これは害虫駆除やゴミ処分のためだったと考えられる。
◆虫除け用の「上掛けシーツ」
さらに、古代人はこれらの寝具に「上掛けシーツ」を加えて使っていたと研究チームでは推測している。この「シーツ」は虫除け効果のある植物で作られ、カやアブといった人を刺す虫を避ける目的があったとみられる。
こうした木の葉を使った上掛けは、人類による薬用植物利用の最初の事例だった可能性がある。上掛けに使われている木の葉は、シナクスモドキ属の一種(学名:Cryptocarya woodii)の葉で、昆虫を殺す化学成分を放つ薬用植物だ。
洞窟に住んでいた古代人が寝床に潜む虫に悩まされていたという証拠はないが、こうした植物の葉を使って、ヒトジラミに対抗していた可能性はあるとワドレー氏は述べている。
◆家族全員が眠れる快適な寝具
これらのマットレスは、使用時の高さは30センチ前後あったと推定され、「快適性が高く」、かつ「長期使用に耐える寝具だった」とワドレー氏は考えている。
また最大で2平方メートルという大きさから、これらの寝床は一家全員が寝られる広さを備えていたとみられる。
「イヌイットやカラハリ砂漠に住むサン族(ブッシュマン)など、現代に残る狩猟採集民族には、1人あるいは2人で1つの寝床を占有するという風習はない」とワドレー氏は指摘する。
さらにワドレー氏は「狩猟採集民族では、血縁者が集まって暮らす傾向がある」と述べた。「これは石器時代でも同じだったと推測される。両親、子供、祖父母など、すべての人が同じ寝床を使っていたはずだ」。
今回の研究は、12月9日号の「Science」誌に掲載される。
(2011年12月9日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月19日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │先史時代
アジアでもデニソワ人と交雑の可能性
2010年、ヨーロッパの初期現生人類とネアンデルタール人の異種交配を示す研究が発表され、各界に衝撃が走った。さらに今回、東南アジア付近の現生人類もネアンデルタール人の姉妹グループである「デニソワ人」と交雑していた可能性が明らかになった。中国南部一帯に住む現代人の遺伝子構造の約1%はデニソワ人に由来するという。
デニソワ人は既に絶滅した化石人類の一種であり、大きな歯を持っていたとされるが、詳細の解明は進んでいない。まったく未知の人類と考えられていた時期もある。
最新の研究成果によると、現生人類とデニソワ人との異種交配で生まれた子孫が、現在もアジア本土に存在しているという。
2008年にロシア南部アルタイ山脈で見つかった約4万年前のデニソワ人の指骨から抽出したDNAが、この研究の基になっている。
2010年に「Nature」誌で発表された研究では、同じ化石のDNAを解析した結果、現在のパプアニューギニアをはじめ、南太平洋メラネシアの島々の住人とDNAの約4~6%が共通していることを突き止めた。
しかし、アジア本土でデニソワ人の遺伝子は見つかっていない。
研究に参加したスウェーデン、ウプサラ大学進化生物学センターのマティアス・ヤコブソン(Mattias Jakobsson)氏は、「対象範囲を広げて、旧人類の痕跡を調査した」と説明する。
◆わずかな痕跡を求めて
ウプサラ大学の研究チームは、一塩基多型(SNP)という種類のデータを基に、DNA構成要素の遺伝的変化を測定した。SNPの遺伝子型データは数千人分が登録されているため、完全なゲノムを使用するよりもはるかに多くのデータを利用できる。
同チームは、各人種1500人分以上のSNPデータを用いて、デニソワ人とネアンデルタール人のゲノムと比較した。
ただし、この方法は現生人類がアフリカから世界に拡散した過程でのボトルネック効果(急激な人口減少による遺伝的多様性の減少)などの要因により偏りや誤差が出やすい。同チームでは人類拡散のさまざまなコンピューターモデルを用いてこの誤差を取り除いた。
ヤコブソン氏によると、アジア本土におけるデニソワ人の痕跡は、メラネシア人ほど色濃く残っていない。異種交配の経緯がメラネシアとアジア本土では違ったと仮定すると説明が付くという。
また、デニソワ人の遺伝情報を持たない現生人類が、異種交配よりも後で東南アジア本土に流入した可能性もあるという。
しかし、ドイツのテュービンゲン大学の古遺伝学者ヨハネス・クラウス氏は、今回の研究成果に異論を唱える。「その痕跡はごくわずかだ。1%では確かな証拠とはいえない」。
◆現生人類の95%はアフリカ起源
クラウス氏のチームは、ウプサラ大学チームよりも早い10月7日付けの「American Journal of Human Genetics」誌で相反する説を発表している。「東南アジアの約50集団から270人を対象に調査を行ったが、ウプサラ大学チームが発表したような痕跡はまったく見当たらなかった」とクラウス氏は述べている。
アメリカ、ボストンにあるハーバード・メディカルスクールのデイビッド・ライヒ(David Reich)氏が率いたDNA解析でも、アジア本土の現生人類にデニソワ人の遺伝情報の痕跡はまったく見つからなかった。
ライヒ氏の研究では、オーストラリア人、フィリピン人、「ウォレス線」の東側にある島の住人まで対象を広げて、デニソワ人との関係性を調査した。ウォレス線は生物の分布境界線であり、この線を発見した進化理論家アルフレッド・ラッセル・ウォレスにちなんで名付けられた。ウォレス線より西の生物相は進化の起源がアジアにあり、東の生物相はオーストラリアにある。
「このような研究では、“人類の遺伝的起源は定説よりも混在しており複雑”と結論付ける場合が多い」とクラウス氏は指摘する。
「しかし、アフリカから拡散した人類の一部は原始人類との交雑があったが、遺伝的起源の割合は5%を超えることはない。つまり、95%は5万年前にアフリカを旅立った現生人類に由来する」。
ウプサラ大学チームの研究は、10月31日付けの「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌オンライン版に掲載されている。
(2011年11月2日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月18日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │TrackBack(0) │先史時代
ストーンヘンジ石材、未知の産地が判明
イギリスの巨石遺跡ストーンヘンジの中心で円を描く火山岩「ブルーストーン」。その一部が、約260キロ離れたウェールズにある露頭の岩と一致したという。この発見により、遺跡の巨大な構成要素がソールズベリー平原に到着した過程が2つに絞られる。すべて人力で運ばれたか、途中まで氷河によって動かされたかだ。
5000年前に作られたストーンヘンジは20~30トンの砂岩が並ぶ外側の円、3~5トンのブルーストーンで構成される内側の円と馬蹄形の構造物から成る。
外側の大きな「サルセン石」は32~48キロほど離れた現在のイングランドで切り出された可能性が高い。イングランドでは砂岩は一般的な石材だ。
一方、ブルーストーンに関しては、顕微鏡レベルで類似性の高い岩はストーンヘンジ周辺から見つかっていなかった。
◆ストーンヘンジの起源は牧場付近
イギリス、レスター大学のロバート・アイクサー(Robert Ixer)氏とウェールズ国立博物館のリチャード・ベビンズ(Richard Bevins)氏は、約20年にわたってウェールズの露頭でブルーストーンの起源を探ってきた。しかしストーンヘンジと一致する岩は見つからず、2年前にはウェールズではないという結論に達しかけた。
ただし、20年前から採取してきたサンプルの一部は、顕微鏡での調査が終わっていなかった。アイクサー氏らは正確を期すため、残りの石を薄切りして、調べることにした。すると、最初の石がストーンヘンジのブルーストーンとぴったり一致した。20年前にウェールズで採取したサンプルだった。この発見から2年間、アイクサー氏らはウェールズの他の露頭を調査した。「広範にサンプルを集めたが、近い石はそれ以上見つからなかった」とアイクサー氏は振り返る。
アイクサー氏らの分析で特定された露頭は「クレイグ・ロス・ア・フェリン(Craig Rhos-y-Felin)」と名付けられている。ヒツジを飼育している牧場からほど近い私有地にある。現地は茂みに覆われた岩山が連なり、その規模は2階建てバス4台ほどだ。
◆次は道具の跡
今回の発見により、どのようにしてウェールズの岩がソールズベリーに到着したかについて2つの説が浮上してくる。
まず、人間が現地から切り出し、木のいかだで引いたという説。もう1つは、巨大な氷河が削り取り、ストーンヘンジに向かって160キロほど動かし、最後だけ人間が引いたという説だ。
もし人間が切り出したのであれば、道具の跡などの証拠が見つかる可能性がある。道具の跡がなければ、氷河説が優勢になるだろう。「切り出した場所が特定できれば、人間が関わったかどうかが明らかになるだろう」とアイクサー氏は期待している。
ストーンヘンジのブルーストーンの起源に関する論文は、「Archaeology in Wales」誌で発表される予定である。
(2011年12月26日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月16日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
竹駒神社・宮城県岩沼市
ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

竹駒神社は宮城県岩沼市稲荷町1-1 に座する。


祭神は倉稲魂神
例大祭は3月21日


今までに訪ねた神社をまとめました。
より大きな地図で Holymountain を表示
神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
ここでは私が尋ねた神社を紹介します。

竹駒神社は宮城県岩沼市稲荷町1-1 に座する。


祭神は倉稲魂神
例大祭は3月21日


今までに訪ねた神社をまとめました。
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2012年01月15日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │神社探訪
北米奥地でスペイン遠征隊の宝飾品発見
アメリカ南東部、ジョージア州の奥地にある先住民の村跡地で、考古学者チームが16世紀スペインの宝飾品や工芸品を発見した。
「コンキスタドール」の一人、スペイン人探検家エルナンド・デ・ソトは、遠征途中で奥地に分け入り、草ぶき屋根のピラミッド型寺院で先住民の儀式に参加していたという。デ・ソトの遠征隊は、最南東部のフロリダ州に上陸し中西部のミズーリ州まで到達した。
デ・ソトはスペイン人探検家フランシスコ・ピサロの南アメリカ遠征に参加し、インカ帝国崩壊に関与していた。1539~41年の自身の北アメリカ遠征では、その栄光を再現しようと望んだ。今回の発見により、当時の遠征地図が塗り替えられる可能性がある。
探検から5世紀を経て、考古学者デニス・ブラントン氏のチームはジョージア州南部で発掘調査を実施。1500年代半ばのガラス製ビーズ、鉄製器具、真ちゅうや銀製の装飾品が発見された。その場所は「グラス・サイト」と名付けられた。当初は17世紀のスペイン探検隊について調査していたという。
ジョージア州アトランタにあるファーンバンク科学センター(Fernbank Science Center)に最近まで在籍していたブラントン氏は次のように語る。「500年前のアメリカ南部の先住民にとって、ガラスのビーズや鉄製器具は現代のスマートフォンのような技術で、ひたすら驚いたに違いない。見たこともない素材で赤や青色に輝くなど、先住民の世界にはそぐわない」。
ブラントン氏は今回の発見を「非常な驚き」と表現する。これまで、デ・ソトの遠征隊はグラス・サイトより約160キロ上流で川を渡ったと考えられていた。南東部のこれほどの奥地まで分け入っていたとは予想外だという。
同氏によると、出土品は全部合わせてもボール紙の靴箱1つに収まるほどの量。しかし、フロリダ州以外のアメリカ内陸部で発見された16世紀前半のスペイン工芸品としては最大のコレクションとなる。ナショナル ジオグラフィック協会の研究・探検委員会(CRE)はブラントン氏の研究に助成している。
◆先住民と贈り物を交換?
調査によると、グラス・サイトにはかつて、草ぶきのピラミッド型屋根を持つ大きな建物が立っていた。周囲には溝が掘られ、内部の中央には大きな暖炉があった。重要な儀式場か寺院として使われていたようだ。
スペインの工芸品が多数見つかったことから、デ・ソトはグラス・サイトで村長などの指導者と贈り物を交換する儀式に参加したと考えられる。スペイン人が代わりに何を手に入れたかは不明だが、通常は食料、情報、自由通行、荷物運搬人、女性などを要求するという。
ブラントン氏のチームは調査結果を遠征隊の日誌と照合してみた。記述によれば、グラス・サイトは先住民イチシ(Ichisi)族の支配地域にある重要な村だったようだ。遠征隊は1540年3月30日~4月2日に滞在していたと見られる。
◆太陽から降りてきた男
デ・ソトの探検隊は男性600人と数百頭の豚や馬で構成されていた。多くの先住民にとって豚や馬は見たことのない動物だった。「先住民は最初、馬とその上に乗る人間を1つの生き物だと思っていた。日誌にその様子が書かれている」とブラントン氏は述べる。
先住民の協力を仰ぎ、衝突を避けるために、デ・ソトは自らを神と称することもあった。「デ・ソトは先住民の太陽崇拝を利用していた。イチシ族の村でも、“自分たちは太陽から降りてきた者だ”と説明した」。
1540年頃には、北アメリカ南東部の先住民の間で既に“異邦人”の噂は広まっていた。だが、実物のヨーロッパ人に遭遇した者はほとんどいなかった。「デ・ソトとの遭遇は、グラス・サイトの人々にとってまったく新しい驚くべき体験だったに違いない」とブラントン氏は語る。
グラス・サイトには大量虐殺や破壊行為の痕跡がないことから、探検隊は滞在中に歓迎されたようだ。日誌にはイチシ族の村で料理などの贅沢なもてなしを受けたという記録がある。ブラントン氏はグラス・サイトがその場所だったと考えている。
(2011年11月2日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月14日 Posted by かるの at 14:03 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
人類最古の“絵の具工房”、南アの洞窟
内側に鮮紅色(せんこうしょく)の粉末が付着した10万年前のアワビの貝殻2枚が発見された。最古の“絵の具工房”が存在した証拠と見られている。
発見場所は、南アフリカ南岸の町スティル・ベイに程近いブロンボス洞窟。さまざまな色の粘土状物質(オーカー)、アザラシ骨粉、炭、珪岩片、液体(水など)を混ぜ合わせた、原始的な顔料と考えられる。
研究チームを率いた考古学者クリストファー・ヘンシルウッド氏は、「1つの貝殻は開口部が丸い石で閉じられていた。外すと、中は真っ赤に染まっていた」と語る。同氏は、ノルウェーのベルゲン大学と南アフリカのウィットウォータースランド大学に在籍している。
洞窟では、砥石、ハンマーストーン(石器を割るための石)、小さな炉の痕跡、動物の骨など、少量の顔料を生産できる道具や設備も発見された。
ブロンボス洞窟は、少なくとも14万年前から人類の住居として断続的に使用されていたが、オーカーは約10万年前に作られていたようだ。最古の生産設備として、記録を4万年も塗り替えたことになる。
◆化学の知識
初期人類は長期計画の能力と化学の基本知識も備えていたようだ。「着色料の生産には油が欠かせない。彼らは、アザラシの骨が油分豊富と知っていたようだ。炭と少量の液体も混ぜていたが、炭には粘度や安定性が増す効果があると理解していた。液体は真水か海水、あるいは尿だったかもしれない」とヘンシルウッド氏は述べる。
ブロンボス洞窟の工房で使われた材料の種類は多くないが、貝殻の中で混ぜ合わせる前にいろいろと準備する必要があった。例えば、オーカーは砕いた後すりつぶして粉末にしなければならない。アザラシの骨は加熱して油を抜いた後、粉砕処理。木材は炭焼きをしていた。
「貝殻の底には指の跡が残っている。混合物は優しくかき混ぜられていた」とヘンシルウッド氏。
顔料の用途は不明だが、「身体や洞窟の壁に塗っていたのではないか」と推測している。
◆色合いを調節
生産された色は鮮紅色で、適度な粘性があったようだ。鮮やかな赤色は、使用したオーカーに含まれる酸化鉄に起因する。
貝殻からは、色合いを調節していた証拠も見つかった。「片方には黄色い鉱物“針鉄鉱(しんてっこう)”の小片も混ざっていた。色を微調整したのだろう」とヘンシルウッド氏はコメントしている。 太古の顔料に関する研究は、10月14日発行の「Science」誌に掲載されている。
(2011年10月14日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月13日 Posted by かるの at 14:17 │Comments(0) │TrackBack(0) │先史時代
冬の伝統食、三重・熊野でサンマの丸干し始まる

三重県熊野市の七里御浜海岸でサンマの丸干し作業が始まった。
熊野灘で取れるサンマを使う冬の伝統食作りで、ひもで結ばれたサンマが整然と並べられ、冬の日差しを浴びている。同市内の水産加工業「浜口商店」(浜口一衛社長)では、一晩塩漬けにしたサンマを水洗いし、3日間ほど天日に干して出荷する。毎冬20トンほどを丸干しにするが、今年は水揚げが遅れているため、本格的な作業は年明けからになりそうだという。丸干し作りは4月頃まで行われる。
(2011年12月15日- 読売新聞)
2012年01月12日 Posted by かるの at 14:14 │Comments(0) │TrackBack(0) │食文化
古代ローマ兵士の靴60足、英国で発見
ローマ帝国の兵士が履いていたとみられる約60足のサンダルと靴が、スコットランドのキャメロンでスーパーマーケット建設予定地から見つかった。
約2000年前のものとみられる革製の履物は、ローマ時代の宝石や硬貨、陶器、動物の骨などとともに見つかった。この発掘場所は、当時のローマ帝国領土の北端に位置している。
今回発掘されたローマ時代の靴やサンダルなどの遺物群は、スコットランドで見つかったものとしては最大級の規模で、アントニヌスの長城沿いに設けられた紀元2世紀の砦の出入り口付近に掘られた溝の中から最近発見された。アントニヌスの長城は、スコットランドがローマ帝国の領土だったごく短い期間に、北方のカレドニア人(スコットランド人)の侵入を防ぐために東西60キロに渡って設けられた巨大な防塁だ。
発掘物は、この砦で任務にあたっていたローマ軍の百人隊長や兵士の廃棄物がたまったものとみられると、今回の発掘を企画したイギリスの独立系請負業者、AOCアーケオロジー・グループに属する考古学者のマーティン・クック氏は述べている。
「兵士たちは砦に通じる道路沿いの溝に、靴を捨てたのだろう。その後、溝に有機物質がたまり、これによって靴が保存された」。
廃棄物ではあるが、これらの鋲を打たれた靴は比較的良い状態にあるとクック氏は付け加えた。
◆過去10年で最大級の発見
今回靴が見つかったスーパーマーケット建設予定地では、ほかにも紀元1世紀に建てられたローマ帝国の砦や古代の農地跡なども見つかったが、発掘活動の中心になったのは、アントニウスの長城に設けられた砦付近のエリアだった。
「発掘された遺跡から、かなり大規模な構築物があったことがわかった。石の壁を持つ正方形の砦と、3ないし4つの溝が周囲に張り巡らされていたとみられる」とクック氏は説明する。
クック氏によれば、その他の発掘物としては、ローマ時代の斧および槍の穂先が1つずつ、3~4個のブローチ、当時の高級品だったフランス製のサモス土器の杯、標準的な様式の壺などがあったという。「これはスコットランドでも最も重要な砦の1つと言っていいだろう。過去10年にスコットランドで見つかったものでは、最大級の発掘現場となるはずだ」。
定説では、ローマ帝国は紀元165年ごろにアントニヌスの長城を放棄し、南方のイングランドに撤退したとされている。
今回キャメロンで発掘作業にあたったチームは、ローマ帝国の勢力がさらに長くスコットランドの地にとどまったことを示し、この説に疑問を投げかける証拠を探している。
しかし現時点での発掘物は、ローマ帝国の軍勢が定説通りにスコットランドから撤退したことを示しているようだ。ただしその際、履物を後に残したことは間違いない。
(2011年10月11日- ナショナルジオグラフィック)
2012年01月11日 Posted by かるの at 14:14 │Comments(0) │TrackBack(0) │海外
浅草舟祭54年ぶり復活へ 三社祭来年で700年を記念

浅草神社(東京都台東区)は15日、江戸三大祭りの一つとされる三社祭が来年で700年を迎えるのを記念して、隅田川で行われる「舟祭」を54年ぶりに復活させると発表した。浅草神社は、浅草寺の本尊となった仏像を隅田川で見つけた漁師の兄弟とその仏像に帰依して出家した地元豪族の計3人を、繁栄をもたらした神としてまつっている。来年の舟祭では、この3人をまつったみこしを舟に乗せ、約6キロのコースを航行する。
(2011年12月15日- 共同通信)
2012年01月10日 Posted by かるの at 14:15 │Comments(0) │TrackBack(0) │民俗行事
食人の痕跡を示す骨、メキシコで発見
現在のメキシコ北部に孤立して暮らしていた先住民が、トウモロコシの豊作を願って同族の人間の肉を食べていたという説は、以前から知られていた。
そしてこのほど、シシメ(Xixime)と呼ばれる先住民が、実際に食人の習慣を有していたことが裏付けられたという。40本ほどの人骨を分析した結果、ゆでて肉をはがされた痕跡が見つかったのだ。
イエズス会宣教師が残した歴史的記録によると、シシメの人々は、敵の肉体と魂を取り込み、きれいにした骨を儀式に用いることで、穀物の豊作が約束されると信じていたという。
今回見つかった人骨は、食人が「彼らの世界観、アイデンティティにとって極めて重要な要素」だったことを示すものだとホセ・ルイス・プンソ(Jose Luis Punzo)氏は話す。プンソ氏は今回の研究を主導した考古学者で、メキシコ国立人類学歴史学研究所(INAH)のドゥランゴ支所に所属している。
◆食べるのは同族だけ
現在ドゥランゴ州の一部となっている山地には、かつては5000人ほどのシシメ人を含む先住民グループが居住していた。
食人の習慣を有していたと言われるのはシシメ人と、彼らに近いアカセー(Acaxee)人だけだが、プンソ氏によると、アカセー人に関しては、これを裏付ける考古学的証拠は見つかっていないという。
「儀式、食人、および骨の収集という習慣において、彼らは『同族』と『よそ者』を明確に区別していた」とプンソ氏は言う。「同族」とはアカセー人とシシメ人のことで、「よそ者」はそれ以外の人間だ。
プンソ氏によると、シシメ人とアカセー人は他のグループの人々と戦って相手を殺していたという。ただし、食べるのは同族の人間だけで、特に男性が対象になったという。歴史研究によると、他の先住民族の人間やスペインからの入植者は、儀式に用いる価値がなかったとみられる。
◆ゆでた骨を洞窟に貯蔵
食人の習慣を伝える宣教師の記録を、誇張だと否定した歴史学者もいる。しかし今回、マゲイ洞窟(Cueva del Maguey)で骨が見つかったことで、懐疑論は一掃されるはずだとプンソ氏は述べている。マゲイ洞窟は崖の側面にある巨大な洞窟で、この中に先住民の村落が築かれていた。
プンソ氏によると、1425年頃の住居から見つかった40本あまりの骨を調べた結果、ゆでられ、石の刃物で切られた痕跡が80%の骨に見つかったという。
研究者にとってありがたいことに、これらの骨は数世紀の間、比較的そのままの状態で保たれていた。これは、マゲイ洞窟が松の森の奥深く、海抜2600メートルの孤立した場所にあったおかげだ。
◆生命のサイクル
INAHの研究報告によると、シシメ人にとって、作物の種まきと成長のサイクルは、食人および骨の儀式のサイクルと結びついていたという。
トウモロコシの収穫が終わるごとに、シシメ人の戦士たちは敵を狩り、彼らの肉を得るために出かけていった。
たいていの場合、シシメ人の「獲物」になったのは、単独で野良仕事をしている他の村落の男性だった。また記録によると、森の中で小さなグループ同士が交戦することもあったという。
シシメの戦士たちは犠牲者の遺体を村に持ち帰り、骨を折らないように遺体を関節のところでバラバラにした。遺体を丸ごと運ぶのが難しい場合は、頭部と手だけを持ち帰ったとINAHの研究報告には記されている。
遺体は骨が肉から離れるまで鍋で煮込まれた。肉のほうは豆とトウモロコシと一緒に調理され、一種のスープとして食された。宣教師の記録によると、これは村の儀式の一環であり、儀式は歌や踊りとともに一晩中行われたという。
儀式の後、骨は何カ月もの間、宝物庫にしまっておかれた。そして毎年の種まきの時期が近づくと、シシメ人たちは骨を屋根や木の上から吊るした。霊たちに作物の成長を助けるよう呼びかけるためだ。
「これらの習慣により、彼らはイエズス会の宣教師たちから、新世界で最も未開で野蛮な人々と称された」とプンソ氏は述べている。
今回の研究報告は、メキシコ、パキメで今夏開催された第14回北部国境考古学会議にて発表された。
(2011年10月3日- ナショナルジオグラフィック)


