大正のステンドグラス、宮崎県がなぜか紛失



 宮崎県が所有していた大正時代製のステンドグラス4組が紛失していることが、わかった。県は関係先や職員らから聞き取りを行っているものの、今のところ手がかりはないという。

 ステンドグラスは1923年(大正12年)、現在の県庁本館向かいにあった県公会堂で計8組使われていた。2枚1組で、縦59センチ、横124センチ。宮崎市の青島や、日南市・油津の海岸といった景勝地が描かれていた。

 公会堂の建設工事仕様書によると、天井の明かり取りの窓として取り付けられていた。価格や製造者は不明という。県庁に関する本を出版した元高校教諭で県文書センター職員の永井哲雄さん(75)は
 「公会堂は大阪の建設会社が建てており、資材の一部として大阪で作られたものではないか」
と推察する。

 建物は老朽化が進み、69年に解体され、ステンドグラスは県庁本館の地下倉庫に保管された。破損がなかった4組は、83年5~6月に県内のデパートなど4か所で開かれた「置県100年あゆみ展」で展示された。

 その後、県庁別館の倉庫に保管されたが、別館を取り壊すことになり、93年に再び本館へ移したはずだった。

 ところが、2007年に展示を見たという県民から「ステンドグラスはどうなっているのか」と、問い合わせがあり、捜したものの見つからなかった。

 県総務課は「展示にかかわった県総合博物館なども捜し、元職員にも尋ねたが、全くわからない。引き続き情報を集めたい」としている。


[ 2010年3月4日 (読売新聞)
  

2010年03月21日 Posted by かるの at 09:19Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

国内最古、馬の乳歯「河内馬飼」の実態示す


 蔀屋北遺跡で出土した馬の歯。乳歯が残っている

 大阪府四條畷市の 蔀屋 ( しとみや ) 北遺跡で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、府教委の調査で出土した。

 2~2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。同遺跡は「日本書紀」に「 河内馬飼 ( かわちのうまかい ) 」と記された集団が、国内で初めて馬を本格的に飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。

 出土した1頭分には歯が24本残り、このうち、乳歯は12本で、最大で幅2センチ、長さ1センチ。永久歯の長さ(8センチ)から推定した年齢などから、ハミ(馬具)をつけて乗馬訓練を始める直前だったとみられる。

 同遺跡と周辺では、これまでに馬の骨や歯計約500点や馬具などが出土したが、若い馬は確認されていなかった。

 3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。日本での本格的な馬の飼育は、府東部で始まり、各地に広まったとみられ、松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長(動物考古学)は
 「乳歯はもろく、遺跡からの出土は珍しい。河内馬飼が、大規模に馬を生産していた様子がうかがえる」
と話している。


[ 2010年3月6日 (読売新聞)
  

2010年03月20日 Posted by かるの at 21:18Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

沖縄核密約、佐藤政権以降引き継がれず…有識者委



 日米間の核持ち込みなどに関する「密約」を検証している外務省の有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は、1972年の沖縄返還をめぐる有事の際の沖縄への核持ち込みについて、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が極秘に交わし、佐藤氏の遺族が公表した文書を実物と認定するとともに、その内容は、佐藤政権以後は引き継がれなかった可能性が高いとの見解を固めた。

 この文書は69年11月にワシントンで行われた日米首脳会談で極秘に交わされた「合意議事録」で、昨年12月に公表された。

 有識者委は佐藤家から文書の写しを入手、分析を進めた。その結果
〈1〉佐藤氏の「密使」として沖縄返還交渉にあたったとされる若泉敬・京都産業大教授(故人)が交渉内容を明らかにした著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」
〈2〉当時のキッシンジャー大統領補佐官が核持ち込みに関する「秘密の日米合意」の存在に触れた米政府の公開公文書―
―などと照らし合わせ、ほぼ一致するとの判断に至った。

 佐藤氏は議事録を自宅の書斎机の奥深くにしまい、生前には家族にもいっさい明らかにせず、外務省でも同様の文書は発見されなかった。このため有識者委は、合意議事録について「ニクソン氏が沖縄からの核兵器撤去に積極的でなかった米軍を説得するために作成した意味合いが強い。日本では佐藤政権以降の政権に引き継がれなかったのだろう」と見ている。


[ 2010年3月3日 (読売新聞)
  

2010年03月20日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)近現代史

古墳石室の天井石「最後の一枚」民家の庭石に


 民家の庭石になっていた、石室の天井石

  百舌鳥 ( もず ) ・古市古墳群に築かれた最初の大王墓とされる、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(4世紀後半)にある竪穴式石室の天井石とみられる石材が、古墳近くの民家の庭石になっていたのを、市教委が発見した。

 天井石は計7枚あり、所在不明だった「最後の1枚」とみられる。譲り受けた市教委が同古墳のガイダンス棟で保管、将来的に展示する予定だ。

 石材は幅1メートル、長さ2・3メートル、厚さ25センチ。兵庫県高砂市で採れる「竜山石」で、大王墓の石室や石棺に使われ、発見場所、形状などから天井石と判断した。

 同古墳は1912年、後円部の頂上で 長持 ( ながもち ) 形石棺を納めた、竪穴式石室が見つかった。その後、宮内庁が頂上部を陵墓参考地に指定したため、石室の天井石の現状確認ができない。

 石室発見当時の記録や写真から、7枚の天井石のうち2枚が現地に埋まっているとみられる。残り5枚は発見時に外部に持ち出された可能性があり、これまでに古墳付近で、
〈1〉津堂八幡神社の石碑
〈2〉葛井寺の忠魂碑
〈3〉小山善光寺の敷石
〈4〉専念寺の庭石―
―に転用されているのが確認されている。

 白石太一郎・府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は
 「津堂城山古墳は、古市古墳群のうち、埋葬施設がわかっている唯一の大王墓級の古墳で、天井石の所在確認は歓迎すべきことだ。可能なら古墳外にあるすべての天井石をガイダンス棟など現地に戻し、活用策を考えてほしい」
と話している。


[ 2010年3月5日 (読売新聞)
  

2010年03月19日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

沖縄地震、世界遺産・勝連城跡の石垣崩れる


 地震で石垣の一部が崩落した勝連城跡(沖縄県うるま市で)=板山康成撮影

 沖縄県糸満市で震度5弱を観測した27日未明の地震で、世界遺産に登録されている 勝連 ( かつれん ) 城跡(沖縄県うるま市)の石垣の一部が崩落するなど、文化財にも被害が出た。

 県教委などによると、勝連城跡は、北東側城郭の石垣の一部が幅7メートル、高さ6メートルにわたって崩落。13~14世紀に豪族が築いた同城跡は、那覇市の首里城などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年に世界遺産に登録されている。うるま市では震度4を観測していた。

 同じく震度4の同県南城市でも、糸数城跡(国史跡)の石垣が幅3メートル、高さ5メートルにわたり崩れた。


[ 2010年2月28日 (読売新聞)
  

2010年03月19日 Posted by かるの at 09:18Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

「餅上げ力奉納」で新記録 京都・醍醐寺


 五大力尊仁王会で歯を食いしばり、餅を持ち上げようとする参加者の女性=京都市伏見区で2010年2月23日、望月亮一撮影

 巨大な鏡餅を持ち上げた時間を競う「餅上げ力奉納」が23日、京都市伏見区の醍醐寺であり、大阪府守口市の大森久美子さん(33)が新記録で女子の部を初制覇した。

 無病息災を祈る「五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)」の行事で男性の鏡餅は150キロ、女性は90キロ。4回目出場の大森さんは昨年生まれたばかりの最高記録を5秒上回る8分41秒を出した。

 優勝賞品は紅白の鏡餅の上段。参拝客からバンクーバー冬季五輪を思わせる熱い声援を受けた大森さんは
 「私にとっては金メダル」
と直径45センチの赤い餅を携えてニッコリ。【成田有佳】


[ 2010年2月23日 (毎日新聞)
  

2010年03月18日 Posted by かるの at 21:19Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

<東大寺>法華堂の須弥壇、創建以来初の本格修理へ

 奈良市の東大寺は22日、天平時代の創建で同寺最古の建築とされる法華堂(三月堂、国宝)の須弥壇(しゅみだん)を、来年度から3年間の予定で修理すると発表した。仏像を安置する壇で、本格的な修理は創建以来初めて。仏像も順次修理する。終了後、4体は新施設に移す予定で、「天平仏の宝庫」と言われる堂内の風景が変わることになる。

 須弥壇はシロアリの影響などで以前から劣化が指摘されてきた。現在は下からジャッキで固定しているが、地震対策もあり修理することになった。このため、今年5月18日から7月31日まで堂内の拝観を停止する。

 壇の上には、本尊の不空羂索(けんさく)観音立像や四天王立像(いずれも国宝)など天平時代の乾漆像9体と塑像5体、中世の木像2体の計16体が並ぶ。

 8月から拝観を再開するが、修理期間中は伝日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)立像、帝釈天(たいしゃくてん)像、梵天(ぼんてん)像(いずれも国宝)、地蔵菩薩像、不動明王像、弁才天像(いずれも重文)の7体だけで、9体は奈良国立博物館などに移して修理。南側の礼堂からガラス越しでの拝観になる。さらに、11年10月以降は、日光・月光菩薩など4体を境内に建設中の収蔵・展示施設「東大寺総合文化センター」に移す予定。

 また、法華堂の拝観停止中は、鎌倉時代の僧の肖像、重源(ちょうげん)上人坐像(国宝)が安置される俊乗堂を特別公開する。【花澤茂人】


[毎日新聞2月22日]
  

2010年03月18日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

伊万里トンテントン事故多すぎて「合戦」廃止


 荒神輿(左)と団車が激しくぶつかり合う合戦(2005年10月23日)=真子生次撮影

 2006年に死傷事故が起きた佐賀県伊万里市のけんか祭り「伊万里トンテントン祭り」のあり方を検討してきた祭奉賛会(渋田正則会長)は22日、同市で臨時総会を開き、荒 神輿 ( みこし ) と 団車 ( だんじり ) を組んで押し倒す「合戦」の廃止を決めた。

 100年以上続く合戦は、荒神輿と団車が500キロを超すため事故が頻発し、06年10月24日に同市立花町、松尾和彦さん(55)の長男賢一さん(当時17歳)が団車の下敷きになって死亡した。

 合戦は翌年から休止。奉賛会は昨年6月、安全対策案を発表し、松尾さんに示した。しかし、松尾さんは
 「合戦再開を前提とした案で、再び死傷者が出る」
とし、奉賛会と当時の役員5人に4500万円の損害賠償を求める内容証明郵便を送付。これを受けて奉賛会は、祭りの出番町の3704世帯を対象に、
〈1〉従来の合戦をやめて裁判回避につなげる
〈2〉合戦を継続して裁判になれば、費用は出番町と賛同者で負担する―
―のいずれかを問うアンケートを実施していた。

 総会では、〈1〉が72%〈2〉が28%という調査結果が報告され、組んで押し倒す形の合戦の廃止を承認した。

 合戦の廃止を求めていた「安全な祭りを考える市民の会」の口石真弓代表は
 「命の尊さをたくさんの人が理解してくれた結果」
と評価した。奉賛会の渋田会長は
 「危ない祭りはやめてくれという意見が強く、(再開は)不可能。百数十年の歴史を失うことは耐え難いが仕方ない」
と語った。


[ 2010年2月23日(読売新聞)
  

2010年03月17日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)民俗行事

義経の愛馬?絶滅した野生馬復活計画始まる


 粟島浦村の野馬公園にある野馬像。野生馬復活への期待が高まっている

 新潟県村上市沖の離島・粟島(新潟県粟島浦村)で、古来生息していた野生馬を復活させる計画が始まった。

 野生馬がどんな種だったかを調べ、それと同種の馬を繁殖させる。島には、野生馬の先祖を源義経が放した馬とする伝説も残っており、島民はロマンあふれる観光資源として期待している。

 村教育委員会が郷土史家らと協力して出版した「あわしま風土記」や他の関係資料によると、粟島には遅くとも江戸時代には野生馬が生息したとされ、多いときには50~60頭がいたという。明治期に入ると、軍馬や農耕馬として本土に売られたりするようになり、1932年に最後の1頭が死んで絶滅したという。

 野生馬の起源には諸説あるが、昭和~明治期の民俗研究家・高橋文太郎が「旅と伝説」に33年に書いた文には、源義経が奥州(現岩手県)へ落ち延びる途中、馬下村(現村上市)まで来たところ道が険しくなり、やむなく馬を放したが、その放された馬が海を泳いで粟島に渡り、繁殖した――という伝説が紹介されている。

 粟島浦村では、収入の約3割を観光に頼っており、観光活性化が重要なテーマだ。そうした中、村は昨年3月、観光資源の開発を目的とした協議会を発足させ、話題性のある野生馬に着目したプロジェクトを始動した。

 まず、そのルーツを探ろうと、国内在来馬に詳しい東京農業大の川嶋舟講師(動物介在療法学)に協力を仰いだ。今春以降、川嶋講師と、村に埋葬されていた最後の1頭の骨からDNAを採取し、木曽馬など日本在来馬8種のうちどの種に近いか鑑定を行う予定だ。その後、同じ種の馬を島に移送して繁殖させ、馬車や乗馬で1周23キロの島内を回ったり、馬と触れ合う広場を設置したりする事業に生かすつもりだ。

 新年度には、馬の飼育係となる人材育成を進めるため、馬の飼育方法や島の環境整備のあり方を学ぶ村職員1人を新たに確保する方針。同村は「担当者には野生馬復活というロマンへの熱意を持った人になってもらいたい」として島内外を問わず、人材を募集する。

 川嶋講師は
 「粟島にどんな馬が存在していたかを明らかにする意味でも、ルーツを探ることは大変意義がある」
と評価。本保建男村長は
 「釣りや海水浴だけでなく新しい観光資源でもっと観光客を呼び込みたい」
とし、
 「観光客だけが楽しめるという産業ではなく、島の子どもたちが馬に触れあう光景が見られるようになれば」
と期待に胸を膨らませている。


[ 2010年2月23日 (読売新聞)
  

2010年03月17日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

最澄も空海と同じ論文持ち帰り 幻の「三教不斉論」


  大津市の石山寺で保管されていた「三教不斉論」の写本

 空海が唐からもたらし、幻の論文とされる「三教不斉論」を最澄も持ち帰り、大津市の石山寺に写本が保管されていたことが、18日までに高野山大密教文化研究所(和歌山県)の調査で判明した。「三教不斉論」は儒教、道教、仏教の中で、仏教が最も優れているとする内容で、同研究所は「持ち帰るには筆写するしかなく、大変な作業。2人がともに仏教が最も優れるとする論文に興味を持っていたことが分かる」としている。

[ 2010年2月18日 (共同通信)
  

2010年03月16日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)歴史史料

色彩豊か!古代エジプトのひつぎ、返還へ


 エジプトに返還される約3000年前のひつぎ(エジプト考古最高評議会提供)

 【カイロ=福島利之】エジプトのホスニ文化相は22日、米国の税関当局が差し押さえた約3000年前の古代エジプトのひつぎが3月にエジプトに返還されると発表した。

 ひつぎは、古代第21王朝(紀元前1070~945年)期の「エムス」という人物のものとみられるが、1884年に国外へ持ち出されていた。文化相は「色彩豊かな宗教画が描かれた最も美しいひつぎの一つ」としている。

 ひつぎは、2007年にスペインで展示された後、同国の業者により、翌年には米国に送られたが、書類の不備などで米当局に接収された。

[ 2010年2月23日 (読売新聞)
  

2010年03月16日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)海外

中里遺跡・小田原市(1)


 中里遺跡は神奈川県小田原市鴨宮に在る。
 
 以下は当地にある説明板から

中里遺跡ポケットパーク

 中里遺跡は、1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われました。
 その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)の東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりましだ。
 右の図のように第Ⅰ地点では多くの住居や倉庫、井戸などのある集落、第Ⅱ地点では水田、第Ⅲ地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。
 こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより、弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。
 また出土した瀬戸内地方の土器などから、遠く400キロも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術を東日本で最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。
 中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから、発掘された住居跡の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。

2000年9月 株式会社ダイドーリミテッド 小田原市教育委員会
  

2010年03月15日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)遺跡を見ると、胸が騒ぐ…

袋井市・七ツ森神社(1)

 ある時は信仰の場であり、ある時には教育の場であり、ある時には経済の場である。
 神社にはその土地の歴史が詰まっている・・・。
 ここでは私が尋ねた神社を紹介します。





 七ツ森神社は静岡県袋井市国本2568 に座する。

祭神は玉依姫命 大己貴命 別雷命 久努国造

式内社に推定される神社である。

 以下は当地にある説明板から

  七ツ森神社
 七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が天明六年(一七八六)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれています。
 その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。  
 この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。

 神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺に久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。    

袋井市教育委員会


  

2010年03月15日 Posted by かるの at 09:16Comments(0)TrackBack(0)神社探訪

ボンドの2000GTも…往年の名車、夢の競演へ


 搬入された日産「フェアレディZ」(左)などの名車(福井県立美術館で)

 福井県立美術館(福井市文京)で26日から、日本を代表する名車を集めた企画展「疾走する 日本車 ( アート )  1960年代を主軸とする国産車の軌跡」(福井県立美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会主催)が開かれる。

 1960年代を中心に、7メーカーの14台を展示する予定。3月28日まで。

 展示されるのは、映画「007は二度死ぬ」で使用された「2000GT(ボンドカー)」(トヨタ)や、「フェアレディZ」(日産)、「コンテッサ900スプリント」(日野)、「ベレット」(いすゞ)、「コスモスポーツ」(マツダ)、「ギャランGTO」(三菱)、「S500」(ホンダ)など。往年の名車が勢ぞろいするほか、開発段階のデザイン画や試作モデル、販売カタログなども飾り、デザイン面からも日本の自動車文化がうかがえる内容になっている。

 同展に合わせ、3月14日午後2時から、カーデザイン評論家らによる座談会「1960年代日本車のデザイン」を開催。同21日午後2時からは、アートディレクター戸田正寿さんの講演会「福井県のデザイン」が開かれる。また、県内のクラシックカー愛好家が自慢の愛車を披露するイベントも2月28日、3月7、14、21、22日に行われる。同美術館の西村直樹学芸員は
 「60年代は自動車をはじめ日本で多くのオリジナルのデザインが誕生した。デザインに関心がある人にも楽しんでもらえる」
と話していた。

 同展の観覧料は、一般800円、高校・大学生500円、小・中学生300円。


[ 2010年2月21日(読売新聞)
  

2010年03月14日 Posted by かるの at 21:16Comments(0)TrackBack(0)産業史

<金嬉老事件>現場の旅館に資料館…戦後史に残る劇場型犯罪


 金嬉老事件の資料館をオープンする「ふじみや旅館」=網谷隆司郎撮影

 1968年2月に暴力団員ら2人を殺害した容疑者が、静岡県川根本町の寸又峡(すまたきょう)温泉の旅館に5日間立てこもった「金嬉老(きんきろう)事件」。在日韓国人2世だった金嬉老元受刑囚(81)が記者らを招き入れて在日差別を糾弾するなど、初の「劇場型犯罪」として戦後史に刻まれている。20日で事件から42年がたつのを機に、現場となった旅館の女将(おかみ)、望月英子さん(71)が館内に資料を展示し、一般公開する決意を固めた。【網谷隆司郎】

 ◇昭和の特異な事件、忘れまい

 「怖かった。もう忘れたいと何度も思った」

 宿泊客11人、家族4人と共に人質になった「ふじみや旅館」の望月さん。元受刑囚のライフル銃とダイナマイトにおびえた。3日目に子供らと解放されたが、残された人質のために母屋と旅館を往復、食事の世話を続ける女将根性を見せた。「後味の悪い事件で長年、封印してきたが、風化させてはならないというご意見をいただいた。昭和の特異な事件を次代へ引き継ぐことも当事者の責務と考えた」というのが開館理由だ。

 資料は当時の新聞・雑誌のスクラップや写真類、韓国人僧侶からの感謝状など約200点。1階の大広間に並べた。今では塗り込められて見えないが、「罪もないこの家に大変迷惑を掛けたことを心からお詫(わ)びします。この責任は自分の死によって詫びます。お母さん不幸(不孝の誤字)をお許しください」と書いた壁の前に立つ本人の写真もある。

 一昨年11月、望月さんはテレビ朝日の報道番組で、インタビューに答える金嬉老元受刑囚を見た。「元気そうでしたね」と皮肉っぽく語る。元受刑囚は75年に無期懲役が確定、99年に強制送還を条件に仮出所して以来、韓国で生活しているが、旅館には「何の音信もありません」という。

 ◇地元に賛否の声

 12軒からなる地元の寸又峡温泉にも「今さら事件には触れないほうが」「いや、歴史の現場として正面から取り組もう」と賛否の声があるが、今は「冬のスマタ」キャンペーンを展開中だ。資料館は20日ごろ開館の予定。大人700円、子供400円。


[ 2010年2月17日 (毎日新聞)
  

2010年03月14日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)近現代史

焼失のソウル南大門、20億円かけ復元開始


 焼け残った楼閣の2階部分。木材をいったん解体した後、再利用するという=16日、前田泰広撮影

 2008年2月に放火で焼失したソウル中心部にある「南大門」(正式名・崇礼門)の復元工事が始まった。日本の支配を受けていた時期に撤去された石の城壁も同時に復元する計画で、総工費は約250億ウォン(約20億円)。12年末には完了の見通しだという。

 韓国の国宝第1号である南大門は、繁華街・明洞や、小売店などが集まる「南大門市場」に近く、日本人にも人気の観光スポットだった。復元工事は、焼失からちょうど2年にあたる2月10日に開始され、楼閣の骨組みで、火災後も現場に残されていた木材の撤去などが行われた。

 韓国文化財庁によると、復元する楼閣には、焼け残った木材を使う。手作業で作る瓦は、文化財の復元で一般的に使われるものよりも水分吸収率が19倍高く、内部の湿気を外に逃がす機能があるという。

 屋根の先端部分の瓦を固定するクギなどには、19世紀ごろの工法で作った鉄を使う予定だ。復元に携わる職人は、白色の伝統服を着て作業する。

 南大門が焼失するまで、門に対する一般の関心は高くなかった。だが、楼閣が赤い炎に包まれ崩れ落ちる様子が、「国の象徴が失われた」と繰り返し報道されたことなどで、復元作業は注目を集めている。(ソウルで 前田泰広)


[ 2010年2月17日 (読売新聞)
  

2010年03月13日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)文化財保護

鯖江に有名人眼鏡100点…大村崑さん収集


 保管されている大村崑さんが集めた有名人の眼鏡

 黒縁眼鏡がトレードマークの喜劇俳優・大村崑さん(78)が集めた有名人の眼鏡約100点が、眼鏡枠生産日本一の福井県鯖江市の「めがねミュージアム」で3月から展示される。

 眼鏡は兵庫県篠山市今田町の大村さんの別荘を使った観光施設「崑の村」で展示・保管されていたが、昨年9月の閉鎖に伴い、福井県眼鏡協会が貸し出しを依頼していた。

 美空ひばりさんや北島三郎さん、松田優作さん、トニー谷さんら国内の有名人ばかりでなく、ブルース・リーさんら国際的スターの眼鏡も。漫才師の横山やすしさんの眼鏡は、仕事帰りの新幹線で、大村さんの求めに応じ、かけていたものを外して手渡してくれたという。美空ひばりさんが闘病中も使っていたという眼鏡のレンズには、化粧が付いたままになっている。

 「崑の村」は田舎暮らしにあこがれていた大村さんが別荘として購入後、1999年にミニ劇場などを備えて開設したが、レジャーの多様化などで客の入りが減り、閉鎖された。めがねミュージアムは84年にオープン。現在改装中で、同協会が展示の目玉にする。 2005年から同協会の「めがね大使」を務めている大村さんは
 「眼鏡を愛して約70年。芸能人生も眼鏡とともに歩んできた。私は鯖江の職人さんの技術の高さを誰よりも知っている。コレクションを提供することで、産地に恩返しがしたい」
と話している。

 同協会は「多くの人が日本一の眼鏡の産地・鯖江を知るきっかけになれば」としている。 


[ 2010年2月16日 (読売新聞)
  

2010年03月13日 Posted by かるの at 09:18Comments(0)TrackBack(1)産業史

<長岡京>よろいの部品、内裏跡から出土


 長岡京の内裏跡から出土した鉄よろいの部品「小札」。正倉院御物と同型品=京都府向日市で2010年2月18日、望月亮一撮影

 京都府向日市埋蔵文化財センターは18日、同市鶏冠井(かいで)町の長岡京(784~794年)の内裏跡で、古墳時代後期から約200年間に作られた鉄のよろいの部品「小札(こざね)」27枚分が出土したと発表した。古代の都の内裏で見つかったのは初めて。建物の基壇に人為的に埋められており、桓武天皇が権威と皇位の正統性を示すため祭祀(さいし)を執り行った可能性があるという。

 小札は小さな鉄板で、古代のよろい「挂甲(けいこう)」の部品。うろこのように重ね結び合わせて作る。内裏にある脇殿の基壇南東の穴(深さ約20センチ)2カ所から出土した。幅1~2センチ、長さ2~9センチで破片を整理して27枚分と分かった。

 小札の様式は4時期に分かれ、藤ノ木古墳や平城京跡の出土物のほか、茨城県など地方からの朝貢品や正倉院御物の同型品も混在。最上級品のよろいだけに使われた組みひもが使われており、6世紀末以降に製作され天皇家に伝えられた品々とみられる。

 脇殿は平安京遷都直前の793年ごろに解体。小札は故意に割られ、遺構の周囲とは違う土で埋められていた。

 古代の都城に詳しい山中章・三重大教授は
 「渡来系の血をひいたとされる桓武天皇が皇位の正統性を示すため、統帥権の象徴として持っていた歴代天皇のよろいの一部を祭祀で使ったのではないか」
と話している。

 向日市文化資料館で4月25日まで展示。問い合わせは同センター(075・931・3841)。【成田有佳、野宮珠里】


[ 2010年2月18日 (毎日新聞)
  

2010年03月12日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

<奈良・観音寺本馬遺跡>縄文のクリ林発見 人為的に栽培

 縄文人が栽培していたとみられるクリの根株=奈良県橿原市教委提供

 奈良県橿原、御所両市にまたがる観音寺本馬遺跡で、縄文時代晩期(約2800年前)のクリの根株25本が見つかり、橿原市教委が26日発表した。縄文時代のクリの根株が、これほど大量に密集して見つかるのは極めて珍しいという。同市教委は、食料を得るために栽培したクリ林とみており、「狩猟が中心と考えられてきた縄文社会を見直す機会になる」としている。

 調査は08年7月~09年3月、5170平方メートルで実施。クリの根株は、住居跡などがあった集落の北東約300メートルの河川跡近くで見つかった。幹は推定直径約50センチで、樹齢約100年のものもあった。

 一帯では、クリを含め約20種計68本の樹木の根株が見つかったが、クリだけは約80平方メートルの範囲に密集しており、人為的に栽培・管理していたとみられる。

 現場は既に埋め戻されており、パネルや土器を橿原市川西町の市千塚資料館で展示中。
 3月13日午後1時半から、同館で報告会がある。先着50人。【高島博之】


[ 2010年2月27日 (毎日新聞)
  

2010年03月12日 Posted by かるの at 09:17Comments(0)TrackBack(0)考古学(埋蔵文化財)

江戸時代のオランダ料理再現 岩手・一関


 江戸時代にも食べられていたオランダ料理=岩手県一関市田村町の世嬉の一酒造で2010年2月20日、山中章子撮影

 岩手県一関市の酒造会社「世嬉(せき)の一酒造」は20日、同市出身で江戸時代の蘭学(らんがく)者、大槻玄沢が私塾で振る舞ったというオランダ料理を再現、新酒を楽しむ会で提供した。

 玄沢の料理は「オランダ正月」と呼ばれた長崎・出島のオランダ人の祝宴をまねたもの。同社は当時の資料から、ほうれん草のポタージュや鶏のクリーム煮、魚のムニエルなど5品を用意した。

 今では普通の西洋料理だが、同社は「当時、新しいものに挑戦していた玄沢の精神を学びたい」と企画。新酒とともに舌鼓を打つ参加者の五臓六腑(ごぞうろっぷ)に、進取の気風が染みたようだった。【山中章子】


[ 2010年2月20日 (毎日新聞)
  

2010年03月11日 Posted by かるの at 12:15Comments(0)TrackBack(0)歴史イベント