<桜井茶臼山古墳>強大王への恐れ 封じ込め願う?
60年ぶりの調査で現れた桜井茶臼山古墳の石室天井石=奈良県桜井市で2009年3月7日、三村政司撮影

奈良県立橿原考古学研究所による60年ぶりの発掘調査で、桜井茶臼山古墳(同県桜井市、3世紀末~4世紀初め)の築造当初の姿がよみがえった。強大な権力の大王の死を前に人々は何を願い、何を恐れたのだろうか。
調査を担当した岡林孝作・同研究所付属博物館総括学芸員は、石室を覆う方形壇のすそで見つかった二重口縁壺が、方形壇の上部から転落し壇のすそに立っていた丸太垣に引っかかった跡だったことに驚いた。他に例がない光景が「大王墓」の証しになると確信した岡林さんは
「王の偉大さに対する恐れがあったのだろう。何が何でも死者の魂を封じ込めたい、という強い思いが伝わってくる」
と話す。
一方、石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)は柱列が垣の痕跡ではなく、屋根のある建物の壁だったのではないかと考える。
「垣根ならこんなに深く柱を埋める必要はない。古代中国には『死者の魂は建物に宿る』とする思想がある。ホケノ山古墳(桜井市)の木槨(もっかく)には屋根があった可能性を示す柱があるし、勝山古墳(同)でも周濠(しゅうごう)から建築部材が出ている」
と指摘する。【林由紀子、高島博之】
[ 2009年6月12日 (毎日新聞)
<桜井茶臼山古墳>王墓囲う「丸太垣」 神聖な空間を区画
初期ヤマト政権の中枢を担った大王墓の可能性が高い奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末~4世紀初め)後円部で、丸太を密に立て並べ石室の上部を囲んだ類例のない施設が確認された。
12日発表した県立橿原考古学研究所は「丸太垣」と名付け、神聖な空間として区画したとみている。古墳時代初期の大王墓の形態や、葬送儀礼の実態を示す一級の成果だ。
同古墳は1949~50年に調査され、橿考研が09年1~3月に改めて学術調査した。
後円部中央の、竪穴式石室を覆っていた方形壇(縦11.7メートル、横9.2メートル、高さ1メートル)のすその10カ所で、直径約30センチの丸太を約1.3メートル埋め込んだ痕跡を確認。残っていないが約150本の柱(高さ2.6メートルと推定)が垣状に方形壇を囲っていたとみられる。
この古墳に続いて築かれた同市内のメスリ山古墳の方形壇は、直径50センチ~1メートルの円筒埴輪(はにわ)を密接させ二重に並べる。「丸太垣」は、メスリ山の埴輪列の前身とみられる。
このほか、被葬者に供物(くもつ)をささげることを象徴した二重口縁壺(こうえんつぼ)を壇上に並べていたことを確認。三角縁神獣鏡などの鏡片が153点見つかった。
長さ200メートル以上の大規模古墳の多くは宮内庁が陵墓指定し、発掘調査例はほとんどない。橿考研は8月から竪穴式石室を再発掘し、その後に現地説明会を行う。【高島博之】
[ 2009年6月12日 (毎日新聞)