<甘樫丘東麓遺跡>蘇我父子邸宅の石垣…奈良・明日香村(2)
邸宅を防御する目的で築かれたとみられる石垣=奈良県明日香村で

7世紀前半に権勢を誇った蘇我蝦夷(そがの・えみし)・入鹿(いるか)父子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、邸宅を防御するために築かれたとみられる石垣が見つかった。
17日に発表した奈良文化財研究所によると、石垣は07年に15メートル見つかっており、今回の発見で総延長34メートルになった。
石垣は、幅約8メートルのくぼ地に河原石(20~40センチ)を高さ約1メートルまで積み上げ、北西から南東方向に築かれていた。日本書紀には、蘇我氏の邸宅が644年に「家の外に城柵(きかき)を作り」とあり、石垣は「城柵」の一部とみられる。
奈文研によると、石垣は650~660年に造成で埋められたとみられ、蝦夷・入鹿父子が大化の改新の始まりとされる乙巳(いっし)の変(645年)で滅ぼされた時期と一致する。
(毎日新聞)
蘇我邸の城柵跡?奈良の遺跡で7世紀の石垣35mが出土
奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で出土した7世紀前半~中頃の石垣=森田昌孝撮影

奈良県明日香村の 甘樫丘東麓 ( あまかしのおかとうろく ) 遺跡で、7世紀前半~中頃の石垣が出土し、奈良文化財研究所が17日、発表した。
石垣は2006年度に出土した延長線上で見つかっており、合わせると全長は計約35メートルに達する。内側で建物跡は見つかっていないが、「日本書紀」に飛鳥時代の大豪族、蘇我 蝦夷 ( えみし ) と 入鹿 ( いるか ) の父子が甘樫丘に家を並べ建て、周囲に城柵を造ったとの記述があり、さらに調査を進める。
今回出土した石垣は南北約20メートルで、谷の東側斜面に20~40センチの河原石を9段ほど積み上げていた。途中でクランク状に曲がっており、高さは最高約1メートル。最下段は、石を数十センチの間隔で並べた排水口のような造りになっていた。
石垣は7世紀中頃にはすべて埋められていた。周囲からは7世紀中頃~後半のの石敷きや塀とみられる柱穴、石組みの溝などが確認され、何度も整地が行われていた。同研究所は「飛鳥の平野部は宮殿や寺などがあって狭いため、甘樫丘を有効に活用した様子がうかがえる」としている。
現地見学会は21日午前11時から午後3時。奈良交通バス飛鳥下車、徒歩約10分。小雨決行。
[ 2009年6月18日 (読売新聞)