薩摩に琉球の人々の慰霊碑、新たな交流元年に
鹿児島県指宿市山川の愛宕山に建立された望郷の碑
江戸時代に琉球との貿易港として栄えた鹿児島県指宿市山川で客死するなどした琉球の人たちを慰霊する「鎮魂墓碑」と「望郷の碑」が地元に建立された。
1609年に薩摩藩が琉球に出兵してから今年が400周年の節目にあたることから、同市の有志でつくる「琉球・山川港交流400周年事業実行委員会」(永田和人会長)が
「沖縄、鹿児島の両県の新たな交流元年にしよう」
と発案した。
実行委によると、琉球は約270年間、薩摩藩の統治下に置かれ、当時、藩の外港だった山川港には、琉球と行き来した使節船、貿易船が約1000回来航したとの記録が残っている。
この間に客死したり、遭難したりした琉球の人たちは約500人にも上り、かつて地元の墓地には琉球の人たちの墓が多くあったが、その後、墓は撤去された。先祖の墓を訪ねてきた人たちが「何もない」と残念がることが多く、地元で碑の建立の話が持ち上がった。
鎮魂墓碑は福元墓地の一角に設置され、御影石製で高さ約1・7メートル。錦江湾を望む、愛宕山に建立された望郷の碑は、サンゴを加工した高さ約1メートル、幅1・05メートルで、「往還逝去琉球人望郷の地」と記した焼き物の銘板を取り付けた。実行委の永田会長は
「指宿と沖縄の人たちの気持ちが一つになって、建立にこぎつけた。未来に向けて、よい交流ができれば」
と話した。
除幕式は、望郷の碑前で行われ、沖縄県の遺族関係者は、先祖の墓を求めて2回訪れたが何もなく、撤去されたことに怒りを感じたことに触れながら、「指宿でこうした碑の建設の動きを知って、これまでのわだかまりが一度に消え去り、今は感激、感謝しています。碑が本当の交流の礎になることがうれしい」と喜んでいた。
江戸時代に琉球との貿易港として栄えた鹿児島県指宿市山川で客死するなどした琉球の人たちを慰霊する「鎮魂墓碑」と「望郷の碑」が地元に建立された。
1609年に薩摩藩が琉球に出兵してから今年が400周年の節目にあたることから、同市の有志でつくる「琉球・山川港交流400周年事業実行委員会」(永田和人会長)が
「沖縄、鹿児島の両県の新たな交流元年にしよう」
と発案した。
実行委によると、琉球は約270年間、薩摩藩の統治下に置かれ、当時、藩の外港だった山川港には、琉球と行き来した使節船、貿易船が約1000回来航したとの記録が残っている。
この間に客死したり、遭難したりした琉球の人たちは約500人にも上り、かつて地元の墓地には琉球の人たちの墓が多くあったが、その後、墓は撤去された。先祖の墓を訪ねてきた人たちが「何もない」と残念がることが多く、地元で碑の建立の話が持ち上がった。
鎮魂墓碑は福元墓地の一角に設置され、御影石製で高さ約1・7メートル。錦江湾を望む、愛宕山に建立された望郷の碑は、サンゴを加工した高さ約1メートル、幅1・05メートルで、「往還逝去琉球人望郷の地」と記した焼き物の銘板を取り付けた。実行委の永田会長は
「指宿と沖縄の人たちの気持ちが一つになって、建立にこぎつけた。未来に向けて、よい交流ができれば」
と話した。
除幕式は、望郷の碑前で行われ、沖縄県の遺族関係者は、先祖の墓を求めて2回訪れたが何もなく、撤去されたことに怒りを感じたことに触れながら、「指宿でこうした碑の建設の動きを知って、これまでのわだかまりが一度に消え去り、今は感激、感謝しています。碑が本当の交流の礎になることがうれしい」と喜んでいた。
[ 2009年12月4日 (読売新聞)