静岡県下田市・こうせん塚

以下は当地にある説明版から
こうせん塚
宝永・元禄・安政の地震による大津波や、文化元年から十三年間に何度も起こった大火災に下田の町は大被害を受けながらも、立ち直って来ました、町に疫病がまん延した時町の人達は、なすすべを知らず、ただ神仏に、願ったのが江戸時代で御座います。
信州でお城勤めを、したと言われる老婆が、この地に移り住んだ頃町中に、のどを患う病気が蔓延しておりました。老婆はお城務めで、病人に養生をする、術を身につけていたのか、近所の人達を病から救うと町中の評判となり、のどを患う人達が次々と老婆の世話になってゆきました。近在の村々の人達も、この事を知り老婆の許に助けを求めて集まり助けられ、町の人達は老婆の事を、のどの神様と称えたと言われます。
その老婆は、大の こがせん好きで、年中こがせんをロに、ほうぱっておりました。この姿を見た人達が 何時しか こうせん婆さんと呼ぷ様に成ったと言われています。
こうせん婆さんが亡くなると、近所の人達は 稲田寺から、この土地を戴き、老婆を懇ろに塚に葬りました。その後塚の上に墓碑が寄進されのどの神様こうせん塚として、お参りする人達が現在も続いております。
昔は老婆の大好物の、こがせんの菓子や のど飴などが 上げられていたと 言われます。
大正時代、塚の上にお堂を建てようとの機運が高まり、昭和初め下田の町内に呼び掛けると、下田の町全戸(九百戸)。更に近在の村々から合わせて千五百七軒の芳志が集まり、昭和の初め このお堂が建てられました。堂内の壁や天井一面、芳名が残されており こうせん婆さんの徳をうかがうことが出来ます。
こうせん塚の柱の首の辺りを撫ぜながら、生涯のどの安泰と、下田の磯で啼く浜千鳥や伊豆の山や里で鳴く、鶯の様に、綺麗な唄声が出せるのどに成る様御参りしては如何でしょうか。