68年の時を経てココダ戦(スタンレー作戦)での戦場の跡地発見


2010 年6月6日(日曜)
 前陸軍大尉でココダ街道の専門家のブライアン・フリーマンは本日、ココダ戦(スタンレー作戦/ポートモレスビー攻略作戦)においてこれまで戦跡の確認がとれていなかった「失われた戦場」の跡地を突き止めたことを明らかにしました。イオラクリークの戦いにおける最後の激戦地が、戦時に存在したイオラクリーク村跡から西に1000メートル高さ450メートルのところで発見されました。

 今回の発見の意義は、消息不明となっている多数の戦没者の身元の確認と祖国への送還の作業がオーストラリアと日本の退役軍人支援組織によって開始できるようになることです。

1942年10月22日の戦い

 ココダ戦(スタンレー作戦/ポートモレスビー攻略作戦)のオーエンスタンレー山麓での「失われた戦場」での最大の戦いはオーストラリア軍が進攻を続ける 1942年の10月22日に始まりました。イオラクリークでの戦いでは、オーストラリア兵の79名が死亡、145名が負傷し、オーエンスタンレー山麓での数ある戦闘の中で最も犠牲者が多く出た戦いとなりました。

日本軍は、オーストラリア軍に対して地理的に非常に有利となるイオラ渓谷を見下ろす尾根上に陣地を構えていました。イオラクリークでの戦闘終結後、公式には69名の日本兵の遺体が確認されましたが、実際に消息不明となった戦没兵士はそれ以上であると広く信じられています。

1942年10月28日までに、オーストラリア軍は戦略的かつ堅固とした防備の陣地を敷き、ココダまで反撃も受けず進軍し、1942年11月2日にココダを再占領します。

かなりの数の兵士の行方が不明となっているにもかかわらず、そのきわめて重要な意味を持つ最後の激戦地は今日までイオラクリークに近い場所であると考えられていました。

「失われた戦場」跡の発見


 オーストラリアの冒険家ブライアン・フリーマンは、これまで35回以上ココダ街道を歩いており、第二次大戦において悪名高いこの街道を支援なしの24時間59 分という最速記録で横断した人物です。戦争で625名のオーストラリア兵士が命を落としたココダ街道地域に対し、10年あまりの歳月の間に特別な敬意と理解を深めてきました。

 パプアニューギニアのこの孤立した地域に関するフリーマンの知識は、主にアロラ村の人々、特に前村長であったエディー(2008年死去)とその息子のキラ・エラヴェとの確固とした協力関係から得られたものです。フリーマンとアロラ村民との関係は相互に利益をもたらすもので、彼らはフリーマンに地域の情報を提供し、そのお返しとしてフリーマンは村民のために小学校や訪問者用の小屋を建てたり、病気や怪我を負った人々を治療のためにポートモレスビーまで搬送したりしました。

 前村長のエディーは8年あまりの期間にフリーマンのトレッキングのガイド長を25回務めました。現在、ガイド長の任務はフリーマンの親友となったエディーの息子のキラに受け継がれています。エディーやキラと共に時間を過ごし、戦闘地図や戦闘日記の詳細を数年間にわたって調査するにつれて、フリーマンは次第に、後方へ進む期間において日本軍はオーエンスタンレー山麓に、未確認ではあるがかなりの規模の陣地を敷いていたのではないかと信じるようになったのです。

 ブライアン・フリーマンは、1942年9月初期の日本軍の進攻時に、その場所に先進医療センターすなわち病院を開設していたことを示す形跡があると信じていましたが、その所在は今に至るまで謎につつまれていました。

 失われた戦場跡の場所は1942年10月29日以降、アロラの人々以外に知らされることはありませんでした。失われた戦場のある高原はアロラ村人の狩猟場となっていますが、その村人でさえも、約600 平方メートルにわたる失われた戦場跡地へは、その歴史的理由により足を踏み入れていません。彼らはその場所で命を落とした兵士の魂がいまだそこに息づいていると深く信じていることから、そこへの立ち入りを避けてきたのです。

 「失われた戦場跡地については、アロラの人々が自分を信用してその所在を教えてくれたことを光栄に思う。最初の訪問では、日本軍の簡易病院の跡や、さらには銃や武器の残骸を見つけることができないかと期待していただけで、まさか戦死者の遺体を見つけるなんてことは思いもよらなかった」
とブライアン・フリーマンは述べています。

 「日本兵、また可能性としてオーストラリア兵も、その場所に埋葬されているとわかった直後に、遺体の身元確認と祖国への送還の必要性を村人と話し合った。村人はそのことを充分に理解しあらゆる支援を提供してくれた」

失われた戦場でのオーストラリア兵と日本兵

 ブライアン・フリーマンが初めて失われた戦場の跡地を訪れたのは2010年4月23日でした。彼と仲間の冒険家デイビッド・モファットは、その場所を確認した後、数週間を費やしてオーストラリアと日本の当局者と会見し、失われた戦地跡の情報を提供しその場所に戦死者の遺体が埋葬されている可能性を伝えました。そして、失われた戦場跡の遺体の送還を行うために必要となる適切な手続きや一連の手順の説明を受けました。

ブライアン・フリーマンは、
 「79名のオーストラリア兵と69名の日本兵がその失われた戦場で命を落としているが、5名のオーストラリア兵と多数の日本兵の遺体はまだ見つかっておらず、記録においては戦死したと思われ行方不明となっている。われわれの望みはその戦没者たちを見つけ出し、身元を確認して祖国の家族のもとへ送還し適切に埋葬されることだ」
と語っています。

 「オーストラリア軍元兵士として、オーストラリア兵と日本兵の遺体の身元確認と本国への送還が、わたしにとって最優先事項だ。失われた戦場に埋葬されている兵士の身元確認には数ヶ月を要するであろう、しかし両国政府とも身元が判明次第本国の家族に知らせることの必要性を理解している」

ピーター・コスグローブ将官は、ブライアン・フリーマンからその失われた戦場跡発見の報告を受けた最初の人物のひとりです。コスグローブ将官はフリーマンとモファットと共に5月29日(土)にその戦跡を訪れました。

 「今回の発見は非常に意義深いものだ。1942年当時のままの現場を実際見てみたが、周辺の非道な光景に圧倒された」

 「この失われた戦場は、オーストラリアのすべての人々の心を動かす物語を伝えている」


失われた戦場-当時のままの面影を残す‘生きている慰霊地および博物館’として保存管理


 「1 枚の絵は1000の言葉を語ると言う。であれば、失われた戦場跡も独自のストーリーを伝えてくれる。戦跡に入って数分で、この地で展開された戦いの規模や範囲を理解しはじめた。射撃壕跡と思われる大きな長方形の壕をみると、簡易病院以上の設備があったことがうかがえる」

 「金属探知機で、オーストラリア兵と日本兵の小銃、武器弾薬、ヘルメットを感知した。この場所が日本軍の重要な防御陣地だったことを示している」

 「まだ当時の空気がここに息づいているようだ。日本軍の後方へ進む経路に沿って使い尽くした小銃の弾薬が落とされているのを発見した」

 「そら豆型の医療用トレー(膿盆)も見つけた。これは、日本軍の病院があったというわれわれの説を後押しするものだ」

 「だがしかし、この場所が、この地で起こった人間ドラマを語りはじめたには、そばにブーツがあり地面からほんの数センチのところでヘルメットをかぶったまま、木に寄りかかるように座った状態の日本兵の遺体を発見した瞬間からだった」

 「われわれは6時間しかそこに滞在しなかったが、その間にさらに2名の日本兵の遺体を発見した。私はオーストラリア軍と日本軍の最後の戦いがあったことは認識していた。ココダの戦いにおけるこの失われた戦闘で多くのオーストラリア人が命を落としている。5名のオーストラリア兵と多数の日本兵がいまだ行方不明となっている事実も認識しており、この地にその行方不明者すべての遺体が埋葬されている可能性がある」

 「失われた戦場は特別な場所だ。およそ68年前に4日間の昼夜にわたる激戦が繰り広げられた場所が現在も手付かずで残されており、この場所は、その時の状況をわれわれに伝えているまさに‘生きている博物館’といえる」

 「失われた戦場が心に呼び起こす感情をなんと表現していいかわからない。あまりにも多くの兵士が命を失い、彼らが耐え忍んだ苦難を物語る場所でかれらの遺体が発見される可能性がある。両国軍が陣地を敷いていたこと、負傷者を治療していた場所、オーストラリア軍が進攻し最終的に死傷者を出したことなどもうかがえる」

 「われわれはアロラ村や各国政府と協力しながらこの場所をこのままの状態で保存する作業を続けていく。われわれの優先事項は戦没者の身元確認と本国送還、およびこの戦跡に残されたすべてのものを当時のままの手付かずの状態で維持することで戦没者を追悼することだ」


失われた戦場トラスト

失われた戦場と日本軍の病院をできる限り1942年10月29日当時のままの状態で復元・保存することを目的として失われた戦場トラスト(The Lost Battlefield Trust)が設立されました。

失われた戦場トラストは、受託者(トラスティー)からの民間資金や民間の慈善活動事業による収入によって運営されることになります。失われた戦場トラストへの寄付はwww.thelostbattlefield.com.auからオンラインで行うことができます。

失われた戦場トラストが助成する主なプロジェクト;

 1) 日本軍の病院と失われた戦場跡の復元

 2) 将来世代の利益のため、できるだけ戦闘時の状態になるべく近い状況での現場の維持管理

 3) アロラ村および地元のコミュニティのための地域社会開発プログラムの設立。内容としては、上水、衛生、健康と予防接種、教育および職業訓練などの分野が挙げられるがそれに限らない

 4) 失われた戦場跡地とアロラ村、ココダおよびポートモレスビー間の通信設備と回線の設置と維持管理

 5) 失われた戦場跡地および周辺で発見された戦没者の慰霊碑あるいは宗教的追悼碑の建立

 6) 失われた戦場跡の施設、維持管理および運営にかかわるパプアニューギニアの法令・規則遵守の確保

 オーストラリアのビジネスマンで熱心な冒険家であるデイビッド・モファットは
 「失われた戦場トラストの包括的目標はアロラ村民の健康、生活状況および雇用見通しの改善と1942年の戦いで命を落としたオーストラリアと日本の兵士を追悼する戦跡の復元の2つに集約される」
と述べています。

 「失われた戦場トラストは、当時使用された武器や外科処置用機材、軍事行動を行った守備塹壕や行路、永眠の地となったその場所から回収された兵士に補給され発砲された軍需品などと共に、失われた戦場跡地を当時のままの状態で残す‘生きている博物館’として管理維持していくことを固く決意している」

 「失われた戦場跡地はアロラ村民によって所有されており、彼らは現場への独占的なガイド権を有することになる。この歴史的な場所を訪問したいという希望者からかなりの関心が寄せられることが想定されるが、すべての遺体が両国政府によって本国へ送還されるまでは、いかなるグループであれ失われた戦場への立ち入りが許可されることはない」

 「現場への訪問を短期間制限することで、戦没者の身元保証と本国家族への送還作業ができるだけ早期に実施されるようになる。またこの間、失われた戦場の後世のための最良の保存方法について専門家の意見を求めている」


[ 2010年6月7日 (共同通信PRワイヤー)



同じカテゴリー(戦記)の記事画像
湖底に眠る「幻の戦車」 歴史継承へ調査開始 浜松
硫黄島の地下壕地図を発見 政府、近く発掘調査
別府市の地下に謎のトンネル 旧進駐軍基地の跡地
台湾、旧日本軍要塞を歴史遺産に 離島の弾薬庫や特攻基地
「鎌足像」守った防空壕跡確認 奈良・談山神社
「今でも爆撃思い出す」 大阪・京橋駅空襲慰霊祭
同じカテゴリー(戦記)の記事
 湖底に眠る「幻の戦車」 歴史継承へ調査開始 浜松 (2012-09-27 14:17)
 視覚障害者の沖縄戦:全盲の落語家が取材 ラジオで特集 (2012-09-23 14:16)
 原爆の熱線跡くっきり 陸自学校で衣服片発見 (2012-06-12 14:05)
 戦艦大和沈没時 「バンザーイ」の声があちこちから起こった (2012-05-27 14:16)
 硫黄島の地下壕地図を発見 政府、近く発掘調査 (2012-05-18 14:16)
 別府市の地下に謎のトンネル 旧進駐軍基地の跡地 (2012-03-16 14:17)

2010年06月11日 Posted byかるの at 09:16 │Comments(0)戦記

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
68年の時を経てココダ戦(スタンレー作戦)での戦場の跡地発見
    コメント(0)