横須賀沖に大量の砲弾?…ペリー艦隊投げ捨てか
米海軍・ペリー艦隊の帆船が幕末、横須賀沖で座礁し、海に大量の砲弾を投げ捨てた――。

神奈川県小田原市国府津の郷土史家、奥津弘高さん(59)が、米ワシントンの国立公文書館に残る同艦隊の航海日誌などに、こんな記述があるのを確認した。
船を軽くして離礁するための苦肉の策とみられ、専門家は「日本船に助けられては威厳を損なうと判断したのでは」と分析している。
同公文書館に残る航海日誌に、同艦隊の帆船マセドニアン号が1854年2月11日(嘉永7年1月14日)午後1時40分に座礁し、翌12日、船員が「砲弾を投げ捨てた」との記録がある。また、ニューヨーク公共図書館にある同艦隊の僚船の船員日記にも、座礁したマ号から「数百発の砲弾が海に投げ捨てられた」と記されていた。
艦隊を率いるペリーにとって、当時、開国を果たせるかどうかの重要な局面だった。研究者の間では、マ号は僚船の助けを借りて座礁を切り抜けたことになっているが、座礁時に砲弾を捨てたという米側の記録が判明するのは初めて。

神奈川県小田原市国府津の郷土史家、奥津弘高さん(59)が、米ワシントンの国立公文書館に残る同艦隊の航海日誌などに、こんな記述があるのを確認した。
船を軽くして離礁するための苦肉の策とみられ、専門家は「日本船に助けられては威厳を損なうと判断したのでは」と分析している。
同公文書館に残る航海日誌に、同艦隊の帆船マセドニアン号が1854年2月11日(嘉永7年1月14日)午後1時40分に座礁し、翌12日、船員が「砲弾を投げ捨てた」との記録がある。また、ニューヨーク公共図書館にある同艦隊の僚船の船員日記にも、座礁したマ号から「数百発の砲弾が海に投げ捨てられた」と記されていた。
艦隊を率いるペリーにとって、当時、開国を果たせるかどうかの重要な局面だった。研究者の間では、マ号は僚船の助けを借りて座礁を切り抜けたことになっているが、座礁時に砲弾を捨てたという米側の記録が判明するのは初めて。
[ 2010年10月6日 (読売新聞)