“名人”という社会現象―高橋利幸氏、ファミコンブームを振返る

 日本デジタルゲーム学会は3月6日、東京・文京区の東京大学福武ラーニングシアターで公開講座「名人の目から見たファミコンブーム」を開催した。講座ではハドソンの高橋名人こと高橋利幸氏が講師として登壇、ブームを仕掛ける側から見たファミコンブームについて語った。



  1983年7月15日に任天堂が発売したファミリーコンピュータ(ファミコン)。『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』など魅力的なソフトが数多く登場、テレビゲームは瞬く間に新たな娯楽として社会に根付いた。そのファミコンブームを支えた企業の一角がハドソンだ。全国でゲーム大会を開いたり、漫画雑誌やテレビ番組とのコラボレーションを進めることでブームを盛り上げた。その活動の中心的な役割を務めていたのが高橋氏だ。

 高橋氏は現在もハドソンの宣伝部に勤務、ブログ「16連射のつぶやき」やYouTubeなどを通して活発な宣伝活動を行っている。「ファミコンブームを詳細に振り返るのは初めて」という高橋氏。その内容を詳しくお伝えしよう。

●きっかけはMZ-80B

高橋 私は1959年に、札幌市の琴似(ことに)というところで生まれました。大学に進学したものの、面白くなかったので3カ月で中退しました。そして、スーパーマーケットの青果部で4年ほど働いていました。

 (ゲームの世界に入るきっかけは)青果部で主任に昇格して、仕入れと出荷を担当する時に伝票を整理するために、たまたま入ったマイコンショップでシャープのMZ-80Bを27万8000円で買ったことです。世の中、マイコンマイコンと騒がれていた時期です。(MZ-80Bに加えて)フロッピーディスクドライブ29万8000円、メモリーもGメモリーを増やすのに4万円ちょっと、ドットプリンタを10万円、合計70万円くらいをローンで購入しました。私の中古のクルマが45万円の時です。

 クルマより高いパソコンを買ったのですが、操作方法が分からなくて使えませんでした(笑)。今はカードでローンを組むと銀行から自動的に引き落とされますが、昔は毎月振り込み用紙が送られてきます。そこに返済金額が書き込まれているのを見て、この金額をあと30回払わないといけないと思うとですね、「パソコンに積もったほこりを払おうかな」という気になったのです。

 ほこりを払って、 BASIC※のコマンドを30個くらい覚えたところで、カルチャーセンターの講師になりました。相手が初心者なので、それでもなんとか通用したのです。コマンドを5個か10個くらい教えて、私も自分が知っているコマンドの数を増やながら教えていくわけです。教えているといろんな質問を受けます、「先生、ここはどうするんですか?」「このコマンドはどうやって使うんですか?」。自分も分からない時にはすぐ「それはいい質問ですね。じゃあ、ここで私が答えるのも簡単ですから、皆さん来週までに考えてきてください」と言って、私も一生懸命調べる。人に教えるということは、自分のためにもなるんですね。何か詐欺みたいな事をしていましたが、それからハドソンの面接を受けると入れてくれることになりました、それが1982年8月のことです。

※BASIC……プログラミング言語の1つ。初心者向けの言語として広く使われている。

 任天堂さんがファミコンを発売したのは1983年7月15日です。その当時、ハドソンでは札幌のCQハドソンという店でアマチュア無線機器の販売もしていたのですが、売り上げの8割くらいはパソコン用ゲームソフトの製作販売、それからシャープのMZ-80シリーズの「Hu-BASIC(ヒューベーシック)」というOSの製作販売でした。

 ハドソンは1983年5月くらいまで、毎月20タイトルくらいの新しいソフトを出していて、秋葉原などのパソコンショップに行くと、ハドソンのソフトで飽和状態でした。昔は今と違って(ソフトに互換性がなく)1機種1本でしたから、例えばMZ-80B とMZ-2000とX1とPC-8800とPC-6001と機種が違えばソフトのプログラムも違っていたのです。

 1983年4月にディズニーランドがオープンになって、社員みんなで遊びに行って、作ったソフトが『デゼニランド』というゲームです。英語でコマンドを入力していって進むアドベンチャーゲームだったのですが、それまでは1タイトルでヒットしても売り上げ本数は1万本くらいだったのが、そのソフトだけで5万本くらい売れたんです。その経験からハドソンでは「数多く出すよりも、スペシャルなソフトを出していこう」という考えでソフト開発をする事に方針変換されました。

●「何でおもちゃ行っちゃうの?」と言われた

高橋 1983年のファミコン発売から2~3カ月経ったころ、任天堂さんからシャープさん経由で「ファミコン用のBASIC(ファミリーベーシック)を作ってくれないか」という依頼がありました。当時、ハドソンはシャープのX1用のOSを作っていたので、任天堂さんから依頼されたシャープさんがハドソンに振ってくれたのです。

 そこで9月くらいに、ハドソンの副社長がファミコンを買ってくるんですね。「高橋、これどう思う?」と聞かれました。すでにファミコンソフトの『ポパイ』や『マリオブラザーズ』は30万本くらい売れていました。当時、パソコンは20万円くらいなんです。比較的安い PC-6001でも8万くらいでしたが、それに比べてファミコンは1万4800円でパソコンよりきれいな画像のゲームができるわけです。なおかつソフトの販売本数も(パソコン用が)1万本と(ファミコン用が)30万本。これは経営者としては飛びついて当たり前です。私たちもここで飛びつきました。

 もしファミリーベーシックがファミコンになければ、ハドソンも参入していなかったのではないでしょうか。参入していても2~3年遅れたと思います。 1983年12月にソフトハウスの社長さんが集まった忘年会がありまして、私も部長や社長に連れて行かれて参加しました。ハドソンがファミコンに参入することは知られていたのですが、その時にパソコン業界の社長さんから「何でおもちゃ行っちゃうの?」と言われました。ただ、その言ってた会社が、翌年にハドソンが『ロードランナー』を発売した次の月に参入を決めたので、よほどファミコンソフトの売り上げがすごかったんだと思います。

  1984年7月に『ナッツ&ミルク』、そして『ロードランナー』を発売しました。当時は任天堂さんの工場でロム(カセットのこと)を作らなければならず、販売する前にロイヤリティを払わなければなりませんでした。そこで、今はない拓銀(北海道拓殖銀行)に、個人融資ということでハドソンの社長が30万本分のお金を借りました。売れなかったら多分つぶれるという形です。

 任天堂さんの場合は「初心会」という問屋があるのですが、全国を営業担当の専務と一緒に回って説明していきました。初心会では「おたくは任天堂さんじゃないのにゲームを出していいのか」と全問屋さんから問われました。まだ、サードパーティ※という言葉がなかった時です。クローズの世界だったんです。「参入すること自体が大変だったな」と思っています。

※サードパーティ……他社のOSや機器などに対応する製品を作っているメーカーのこと。

 『ロードランナー』は販売本数が100万本を超えました。ハドソンが今までに出したファミコンソフトは36タイトルありまして、4本が100万本を超えたソフトになっています。ちなみに一番最後のファミコンソフトが『高橋名人の冒険島4』というソフトです。スーパーファミコンが発売されて3年くらい経っている時に営業から、「今はまだファミコンのソフトが店に並んでいる。今出したら、まだちょっと売れるんじゃないかな」ということでいろいろ探しました。コンテンツを出すためには権利関係の問題があるので、ハットリくんを出すとか、ドラえもんを出すというわけにはいきません。そうするとハドソンで権利関係なく出せそうでいいコンテンツ、ということで高橋名人の冒険島になったのです。販売本数は数万本と少なかったので、おかげ様で今、中古屋では高くなっているようです(笑)

●秘密は半分隠しておく

高橋 こうしてハドソンはファミコンの世界に入りました。そして、1985~86 年に大ブームとなったわけです。その渦のど真ん中に、どうも押し込まれた感じで私が入ってしまったので、なかなか第三者的にブームを振り返ることができませんでした。今回こういうお話をいただいて、いろいろ調べてみると、本当にいろいろな事がスパゲティ状態になっていまして、時間軸で全部話していっても分からなくなりますので、基本的な事柄を中心に説明させていただいて、最後にそれが全部まとまっているんだよという形で締められればと思います。

 まずは雑誌社さん(小学館の『コロコロコミック』)との提携、ハドソンとしてはこれが非常に大きなアクションでした。1984年7月に『ナッツ&ミルク』を発売してから動き始めました。「なぜコロコロさんと組むことになったのか」といいますと、実はここでは言えないくらい他社さんにもアタックをかけていました。護国寺のあたりの会社や小学館の隣にある会社にも当然声はかけています。ところが、すぐ「一緒にやりましょう」と返ってきたところがコロコロさんだけだったのです。

 当時の宣伝部役員の大里(幸夫氏)が私に「コロコロとやるから。逆にコロコロとしかやらないから」と言って、それから私の一番の仕事は、週5日のうち5日間はコロコロ編集部に通うことになり、それが約1年くらい続きました。コロコロではちょうど『ゲームセンターあらし』が終わって、「新しいマンガを立ち上げたい」という時期でした。そして出てきたのが『ファミコンロッキー』というマンガです。当時の子どもたちは“ウソテク”と言っていたのですが、ゲームに本来入っていないテクニックでマンガを作るというウソの世界でした。正しいのは題材に使っているソフトのタイトルだけです。ハドソンのゲームからは『バンゲリングベイ』というゲームが題材となり、「謎の大陸が浮上してくる」という内容だったのですが、当時のメモリ容量でそんなことできるわけがありません(笑)

 この時のコロコロさんの基本的な考え方として、「テクニックはそのまま出さない」というのがありました。「秘密は半分隠しておく」、子どもが見つける楽しみを残しておくんですね。今はインターネットがあるので、ある裏技ができたらすぐに広まります。でも昔、(司会の)遠藤雅伸さんが作った『ドルアーガの塔』がゲームセンターにあった時、「あそこのゲームセンターで17面クリアしたやつがいたんだって」という話が出ると、みんなで行って何とかメモを見せてもらおうとするんですけど、なかなか見せてくれないんですね。そのうち「50面までの秘密」のような冊子が1000円くらいで売られたりしました。パソコン通信だってない時代です。ですから、あの当時は子どもが裏技、隠しキャラを見つけると、それだけでヒーローになれたんです。だから、「ヒーローになるための芽は残しておきたい」というのがあったんですね。そこでほんわかとオブラートに包んで裏技や隠しキャラを発表するのですが、「ちゃんとした見つけ方は発表しない」というのが当時ハドソンとコロコロが決めた協定でした。

●1日で3回サインが変わった

高橋 そうしてどんどん展開していったのですが、その時コロコロさんに「『春休みコロコロまんがまつり』でハドソンさん何かやりませんか」と依頼されたことがありました。コロコロまんがまつりは「次世代ワールドホビーフェア」の前身で、マンガ家さんを呼んでサイン会をしたりするというイベントでした。

  1984年12月に『ファミリーベーシックがわかる本』という、今でいう攻略本のようなものを出しました。12万部ほど売れたので成功は成功なのですが、これを(出版取次の)トーハンさんや日販さんに説明しにいくと、まずファミコンという言葉自体が分かっていないのです、まだ1984年ですからね。子どもの世界では『ロードランナー』とかが100万本くらい売れてて騒がれている時だったのですが、出版業界ではまだ「ファミコンがどれだけ人気があるのか」が分かっていなかったんですね。それでコロコロさんは「実際に目の前で子どもが遊んでいる時の顔や雰囲気を見てみたい」と思っていたようです。

 ハドソンも1985年4月に『チャンピオンシップロードランナー』というソフトを出そうとしていたのですが、非常に難しいゲームだったので『ロードランナー』のように子どもがいい顔をしてくれるのかどうかが分からない。そのため、そういう機会があれば試してみたかったというのがありまして、ちょうど両社の目的が合致したという感じでしょうか。

 コロコロまんがまつりを東京・銀座の松坂屋でやると、1000人くらいの子どもが来ました。デモ操作をやったのは私なのですが、この時はまだ名人ではありませんでした。看板に「ハドソンの高橋利幸さん来たる。『チャンピオンシップロードランナー』をどうのこうの」と書いてあるんですよ。1000人くらいがそこで遊んだのですが、非常に熱中した顔になっているんですね。そして、1時間くらいのステージが終わっても200~300人が帰らないんです。「どうしたの?」と聞いたら、「サインくれ」と言われました。サインなんて考えたことがないので、最初は漢字で“高橋利幸”と書いていましたが、疲れてきたのでローマ字で“Toshiyuki Takahashi”になって、それから50人くらいやっていると、またまた疲れてきたので“T.Takahashi”になってと1日に3回サインが変わりました。それをやった後、打ち上げの時に「これを全国でやったら面白いね」という話が持ち上がって、1985年の全国キャラバンの話へとつながるわけです。

 当時はファミコンが300万台くらい売れていた時でしょうか。子どもの世界では流行の兆しがあったのですが、まだビッグウェーブにはなっていなかった時ですね。ビッグウェーブにするための最初のアクションを付けたのが、コロコロさんの『ファミコンロッキー』やコロコロまんがまつりのイベントだったのではないかと私は思っています。

●2カ月で59イベント、そして毛利名人誕生

高橋 そして7月21日から8月30日に“全国キャラバン”という、おそらく一番有名なゲーム大会を行うことになります(この年に使われたゲームは『スターフォース』)。当時は店頭規模でゲーム大会をやっているイベントはありましたが、全国規模というのは初めてで、大変なことでした。ちなみに、コロコロまんがまつりで「全国でやってみようか」という話が出たのは4月1日だったんですね。分かりますか? キャラバンが始まったのが7月21日です。キャラバンのスケジュールはコロコロの中で発表しないといけません。コロコロは、毎月15日ころ発売です。キャラバンにはご両親が一緒に来る人もいるので、7月15日にスケジュールを発表しても遅い。そのため、「絶対、6月15日にはスケジュールを発表しよう」となります。そうすると、コロコロ掲載の締め切りが5月30日なんです。4月1日から始めて、5月30日までの2カ月で全国59カ所のスケジューリングをしなければなりませんでした。

 ない知恵を絞って考えたのが「全国展開をしている大きいチェーン店さんと組もう」ということです。そうすると「そこのバイヤーさんやMDさんに説明するだけで、全国の基本的なスケジュールは押さえられるだろう」となったんですね。そこで、当時一番大きかったダイエーさんにお願いしたんです。ダイエーさんで23カ所くらいを押さえて基本的な動きを決めるまで1カ月ほどかかりました。4月下旬くらいからは、ほかに空いている日の分を、営業に売り上げのために埋めてもらうことにしました。すると営業がガンガンイベントを入れてきて、最終的に全国59カ所で開催することになりました。

 私が南キャラバン担当で、7月21日にダイエー鹿児島店から回りまして、北キャラバンの方は(当時)大学生の毛利名人に担当してもらいました。(毛利名人が加わるきっかけは)5月に東京・平和島の東京流通センターでやっていた「マイコンショウ」でのことです。ハドソンが出展していると、毛利君が「僕、こういうのやっています」と同人誌を持って来て、「おおそうか、君はゲーム上手いのか。じゃあ、ちょっと来週くらいハドソンに遊びにおいでよ」と言って、ハドソンに来た時に『スターフォース』をやらせると結構点数をとるので、「君さ、夏休みヒマ? バイトしない?」ということで急きょ“毛利名人”にしたいきさつがあります。こうして全国キャラバンは、無事に終えることが出来ました。

 それから12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」がですね、さっき言った波にアクションが入って、ちょっと大きくなったところにまたさらにビッグウェーブにしてくれたイベントだったと私は思っています。細かいことは後で話をさせていただきます。

 下表は1986年のイベントリストなのですが、1985年のイベントリストより字が小さくなっています。これは1ページだけではなく、実はもう1ページあるんです。ただ私が参加したイベントはとてもこんなものでは足りなくて、毎週土曜日、日曜日は営業に連れられて、1日に4~5店のおもちゃ屋さんを回るという店頭イベントをやっていました。1年は52週あるので、年間で500回くらいのイベントをさらに私はやっていることになります。翌1987年のイベントリストを出そうとすると4ページになってしまうのでやめました。

●視聴率が1.5倍になった

高橋 次は媒体関係、俗にいうテレビ、ラジオ、映画です。1985年の全国キャラバンで、8月13日に私が新潟でイベントをやっている時、「高橋、お前明日何やってる」と会社から電話がありまして、「今日終わったら東京帰っているから、明日はうちでゆっくりしていますけど。休みですし」と言ったら、「東京にいるんだな、じゃあ6時に東京タワーの下に来てくれ」と言われて詳しく聞いたら、「おはようスタジオ※」だったんですね。「疲れているのに大変なんですよ。毛利君もう帰ってるでしょ、東京に」と言ったら、「お前バイトにやらすのか」と言われて、「分かりました」ということで私が出たんです。

※おはようスタジオ……東京12チャンネル(現テレビ東京)で平日早朝に放送していたテレビ番組。

 出演した翌週、おはようスタジオ水曜日担当のディレクターさんが飛んできて「視聴率が1.5倍くらいになった」と言うんです。「毎週やってくれないか」と依頼されたのですが、「いや無理です」と断りました。当時各メーカーさんが出していた毎年のソフト数を数えてもらえれば分かるのですが、ハドソンなど数社は5本出しているのですが、ほかの会社は3本なんですね。これはその年ごとのしばりがあったのです。「(ソフトを1年に)5本より多く出すと、ソフトの質が悪くなるのではないか」という懸念があったようです。任天堂さんはアタリ・ショック※のことを気にしていて、「劣悪なソフトを多く出してしまえば、絶対アタリ・ショックみたいなものが起きる」ということで、各ソフトハウスにしばりを与えて、面白いもの、それも任天堂が企画書を見て面白いと思えるものしか販売を許可しなかったんですね。毎年5本ということは、宣伝部としては1本のソフトで2~3カ月引っ張らないといけない。

※アタリ・ショック……1982年年末に米国のゲーム市場が極度の売れ行き不振に陥った出来事。ソフトの粗製濫造が一因との説がある。

●“裏技”の誕生、帽子をかぶった理由

高橋 『ロードランナー』では「はしごで右手を上げたら、敵がすり抜ける」という裏技の第1号のようなものがありました。これが出た時にはあせりまして、「全部回収か。やべえ、(会社が)つぶれる。どうしよう」と思って、コロコロさんと話したら「これは表には出せないから、“裏の技”ということでやったら面白いんじゃないか」と言われて、「そうだ、発表してしまえ。“裏技”(笑)」。それが功を奏したために、ほかのメーカーさんもバグというバグを全部裏技と言うようになってきました。ゲームが続けられればいいと思うのですが、暴走して動作が止まったのまで裏技となったのはやりすぎだろうと思いました。ただ、ハドソンは裏技ってあまりないんですね。

 (1本のソフトの宣伝期間が)2カ月ということは放送は8回ありますから、「(裏技は少ないし)攻略するテクニックだけでつなぐのは無理」と言ったら、「じゃあ、隔週でもいいから」ということで始めたのが10月からの放送です。月2回の約束だったのですが、10月下旬に「やっぱりどうしても毎週やってくれ」と言うので、11月から毎週になりました。最初、私の出る時間が7時45分くらいだったのですが、子どもから「それを見終わったら遅刻する」と投書がありまして、オープニング始まってすぐの7時15分からにコーナーが移って大変でした。

 一度、寝坊事件がありました。当初ハドソンは麹町に会社がありまして、その後市ヶ谷に移ったのですが、私は麹町のままで6畳1間月4万5000円の部屋に住んでいたんですね。ある日、朝起きると7時なんですよ。東京タワーのところに7時15分にはいなければいけないんです、7時16~17分には私のコーナーの放送が始まるので。当時、携帯電話なんかありません、それに私は家に電話がなかったんです。土日イベントで、ほかの日は毎日小学館行って、夜は飲みに連れて行かれて、家で寝てるのは2~3時間くらいで、ほとんどうちにいなかったので、電話が要らなかったんですね。とにかくバイクに乗って何とか東京タワーのところにバイクを付けたら、もう志賀ちゃん※たちがオープニングを始めているんですね。地下のスタジオに着いた時に、ヘルメットを取ったら髪がぶわっと広がってしまったのでADさんから帽子を借りて、かぶりながらやったら受けたので、それから帽子をかぶるようになりました。

※志賀ちゃん……おはようスタジオ司会の志賀正浩氏。

 おはようスタジオは1986年6月までで、1986年の10月からは「高橋名人の面白ランド」という番組を1年間ぐらいやりました。高橋名人の面白ランドは30~40局くらいで全国放送している30分番組でした。1987年10月からは日本テレビで「DOKI DOKI DO」という番組をやりました。また、1986年10月からは、日本テレビで「Bugってハニー」というアニメがありました。

 ラジオでは1986年7月から「全国こども電話相談室」(TBSラジオ)の先生になりました。生放送なのですが、あれは怖いんですよ。最初は、電話があると質問を紙に書いて、MCと先生たちの目の前に置いてくれて、「この質問は私が答えます」と答えられそうな先生が手を上げることになっていました。でも、それがつまらなくなったんでしょうね。MCさんがその紙を見せてくれなくなったのです。分からない質問を「じゃあ、高橋名人お願いします」と振られると、「えっ、うそ。これはどうやってごまかそう」とあせりました。

 放送を聴いていた方なら分かると思うのですが、質問を繰り返す先生がいますよね。私も時々やりましたが、あれは繰り返している最中に「何を言うか」を考えていたんです。皆さんもぜひ機会があればやってもらいたいですね。子ども向けの解説は非常に難しいです、専門用語が使えませんから。こういう経験があったから、私もイベントやステージで子ども向けの言葉をしゃべることができたんだと思います。

 1986年夏の映画『GAME KING 高橋名人VS毛利名人激突! 大決戦』は、私と毛利名人が(ゲームで)戦うという内容です。ちなみに冒頭、連射でスイカを割るシーンがあって、今でも(本当に連射でスイカを割ったと)信じていらっしゃる方がいっぱいいらっしゃいます。もう皆さん大人ですから分かると思いますが、映画ですから(笑)

●3つのキーイベント

高橋 1985年に行われたイベントで、キーとなったものは3つあると思います。1つは(前述の)コロコロまんがまつり、全国キャラバンを始めるきっかけとなったイベントです。この時の子どもの反応が悪ければ、全国キャラバンはなかったと思います。店頭でのゲーム大会くらいはやったかもしれませんが。

  2つめのイベントは全国キャラバンファミコン大会です。キャラバンではスポンサーを付けました。ハドソンはお金があまりない時期でしたので、TDKさんから3年分のスポンサーをしていただいて、キャラバンカーを作って全国を回りました。TDKさんが5月中旬に決まるまで、キャラバンカーの発注もしていませんでした。「スポンサーが付かなかったら1台で回る」という時だったのですが、お陰さまで2台作ることができて59カ所を回れました。

 キャラバンは午前中は250人の予選・決勝、午後も250人の予選・決勝を全会場で行うというイベントです。前日の夜に会場近くに行って、6時に起きて、 7時に会場に行ってセッティングを開始して、10時に子どもたちを迎える準備を終えるので、準備時間は3時間ですね。そして、説明会、予選、決勝で12時半くらいに午前の大会が終了します。1時間くらいのお昼時間があって、13時半からもう1回250人の予選・決勝をして、16時くらいに終了です。

 それから搬出を開始して、18時くらいにクルマを出します。クルマはドライバーと副ドライバーが順番に交代して運転します。そのほかメインで回ったのが、ディレクターと私とMCの3人です。ですから、基本は5人で回りました。

 ディレクターは午前の大会が終わったら、次の日の会場に先に行きます。前の日に会場の担当者と打ち合わせをして、どこから搬入するとか、場所はどれくらいだとかいう打ち合わせをします。私とMCは搬出が終わったら、電車で次の場所まで移動します。20~21時くらいに着くと、反省会をして、晩飯を食べて、寝て、次の日は6時に起きてということで大変でした。

 この時にMCの女の子が劇団の出身だったんですね。オーディションの時はアドリブが非常に上手だったのですが、実際にイベントに立たせると、結構渋かったのです(=アドリブが利かない)。そこで、2日目くらいの夜にディレクターさんが私のホテルの部屋に来て、「名人どうする? 帰そうか?」と言ってきました。「いや、今からまた次のオーディションするのは無理だから、彼女には僕を紹介してもらって、その後は僕が何とかします」ということになりました。この(1人で仕切った)経験が私を力強い、こういうスタイルにしてくれたということです。

 3つめのイベントは12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」です。晴海国際貿易センターで開催して、4000人くらいの子どもが来ました。テレビ東京さんのおはようスタジオ、コロコロさん、ハドソンの3社で目いっぱいやったんですね。この模様は翌23日の東京新聞に載りまして、「スーパーヒーロー出現」とか「子どもたちのあこがれ」とか何かいっぱい書かれているんですよ。すると、24日に『フライデー』と『週刊文春』から取材依頼が来たんですね。25日に取材をして、『フライデー』が翌年1月10日くらい発売、『週刊文春』も同じくらいに発売されました。1985年の段階で、ファミコンブームはまだ子どもの世界の話だったのです。おはようスタジオというテレビ番組にも出てはいましたが、大ブームではなかったんですね。そこに、この雑誌が出た事で、一気に大人の世界へと広がったのだと思います。

 ファミコンブームに拍車をかけたのが1985年9月に発売された『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)です。コロコロさんに聞いたことなのですが、当時任天堂さんは宣伝があまり得意ではなくて、普通は発売する前に「このゲームの記事を展開してください」と編集部にロムを持っていくものなのですが、『スーパーマリオブラザーズ』は発売した後にロムを持ってきたのだそうです。事前の宣伝を十分にしていないので、『スーパーマリオブラザーズ』は「子どもの口コミだけで伸びていったソフトだ」と感じます。確かにあのゲームはすごいと思います。当時のゲームは、自分(のキャラ)が光ることでインパクトを与えていたんですね。それが、(キャラが)でっかくなるんですよ。でっかくなったら誰が見たって「強くなった」って思うじゃないですか。あれは本当に「やられた」と思いました。

 (任天堂の宣伝は特徴的で)当時の山内溥社長は「店頭の宣伝はいらない」と断言していたんです。「金があるなら、テレビに入れろ」ということで、任天堂さんはテレビCMが多いんです。今の岩田聡社長さんになられてからは、店頭も大事だということで、DSにしてもWiiにしても店頭で触ったり体験したりできるようになりましたが、昔は絶対無かったですから。「そんな金かけるんだったら、CM1本入れろ」というような会社でした。

●ファミコンが店頭から消えた

高橋 こうして1986年になるころには、ファミコンブームの兆しが来ていました。そんな時、年配の方は覚えていらっしゃると思うのですが、1986年1月から3月までファミコンが日本中から消えたんです。店頭から品切れになったんですね。任天堂さんが出荷を止めたんです。1985年12月までに300万台ほど売れていたのですが、おもちゃ屋さんで安売りが始まりかけていたらしいんですね。そこで(任天堂の)社長さんがちょっと怒ったようで、「安く売るなら(出荷を)やめよう」となって、3カ月くらい出荷を止めたみたいです。

 ファミコンを持っている子どもたちの中ではスーパーマリオが盛り上がっているんですよ。「すっげえ面白え、面白え」と。みんなやりたがっているわけですが、ファミコンが買えないんです。ソフトはあっても、本体がないんです。シャープさんが「ファミコンテレビC1」というファミコン内蔵テレビを14インチ9万3000円、19インチ14万5000円で販売していたのですが、それまで品切れになりましたからね。

 どんな商品でもそうなのですが、みんなが欲しい時に買えないということになるとブームに拍車がかかるんです。「たまごっち」の時もそうですよね。買いたいけど並んでも買えない、だから余計欲しくなる。こうして1986年にファミコンブームの大絶頂が訪れました。これ以上のブームのピークはなかったのではないでしょうか。1986年にハドソンは『スターソルジャー』というシューティングゲームでキャラバンをやりました。1986年の時にはイベントの数が倍増、キャラバンの参加者も7万人くらいになりました。

 7月20日前後の札幌大会での話です。私はその時搬入しなくてもいい立場になり、準備ができてからリハーサル前に行くくらいだったのですが、9時くらいに札幌地下街を通っていたら、子どもたちが泣いて歩いているんですよ。「何かなあ?」と思って見たら、キャラバンに参加するために子どもが2000人ぐらい並んでいました。参加者制限が確か700人だったので、半分以上は参加できなかったんです。中には釧路か根室からクルマを運転してきたお母さんもいまして、泣きながら「せっかく札幌まで子どもと来たのに……」というので、チケットを2つ(最後の試合の)数合わせであげました。結局、お子さんは10万点台の点数しかとれず全然ダメだったのですが、まあそういう時代でした。

 人気が出たことに関しては、「あの時はちょっと失敗したな、顔出さなきゃ良かったなあ」と私も思うくらいでして、会社からやってはいけないことをいっぱい言い渡されました。一番大事なのは、「ピンク街を歩くな」。歩くだけでもダメです。歌舞伎町奥の新宿コマ劇場に行く時には、「道のど真ん中を真っ直ぐ歩いて映画館に行って、終わったら真っ直ぐ帰って来い」と言われました。「端っこ歩くな」と言われたのです。「ピンク街の看板と一緒に写真撮られたら、週刊誌に何を書かれるか分からない。(もし書かれることになったら)子どもにどう(言い訳)すんだよ」と言われたのです。そして「バイク禁止」。私はバイクが趣味なのですが、「お前怪我したら誰やるんだ」ということです。今は乗っていますが、そういうのがいっぱいありました。

「ゲームは1日1時間」はこうして生まれた
ah_takahasi2.jpg 身振り手振りも交えて講演する高橋氏

高橋 ファミコンがブームとなり、私がテレビや一般の方の前に出て『ハットリくん』の攻略法などをやるわけですが、その時にやっておいて良かったなと思うことがありました。

 ファミコンはお子さんのおもちゃなので、大蔵省であるお母さんが財布の紐を緩くしてくれないと子どもは遊べません。昔、「ゲームセンターは不良の行くところ」と言われたのですが、それからまだ5~6年しか経っていなかったのです。『インベーダーゲーム』と『ブロック崩し』がブームになったのが 1979~80年、1983年ファミコン発売で、キャラバンをスタートしたのが1985年ですからまだ4~5年。だから、インベーダーブームの時に小学校 1年生だった子どもが、5~6年生になった時にファミコンが家庭に入ってくるわけです。お母さん方の中には当然、「大きくなったら(不良の溜まり場と言われたゲームセンターに)行くかもしれないなあ」と思っている方が絶対多かったと思います。「(ファミコンと不良を結び付けられないようにするためにも)そこを何とかしなきゃいけない」と思ったのです。

 そうした思いから発せられた言葉が「ゲームは1日1時間」です。一番最初にそんなメッセージを発したイベント会場は、1985年7月26日のダイエー香椎店でのことでした。実は、一番最初に発した言葉は「ゲームは1日1時間」ではありませんでした。ダイエー香椎店では会場に来ていた親御さんが多かったので、見た瞬間に「何か言わないといけない」と思ってしまったんです。それまでのダイエー鹿児島店や熊本のピーコックでは、参加者の9割が子どもだけだったのです。この店で初めて親御さんの数の方が多かったので、「このままテレビゲームばかりでいいのかなあ」と思ってしまって、この時に言ったのが「テレビゲームが上手くなりたいなら、1時間だけ集中してやるのがいいんだよ。後は外行って遊べ」というようなことを言いました。

 ダイエー香椎店は福岡県にあるのですが、実はその時(福岡県の)問屋さんやバイヤーさんが来られてたんですね。「ゲームを作って売っている会社の社員が、何かゲームするなってことを言ってる」という話がその日のうちにハドソンの方に入りまして、翌27日に役員会が開かれました。「ゲーム作っててこれから売ろうって頑張っている時に、お前『遊ぶな』はないだろ」のようなチクリが入ったのでしょうね。

 役員会が開かれた日の夜にホテルに着くと、社長から電話がありまして、「高橋、何か変なこと言ってたんだって? 色々みんなで考えたんだけど、会社として(『ゲームばかりで遊ぶな』ということを)言ってくことにしたから」となったんです。そして「お前、標語作れ。みんなで標語にしようぜ」というので作ったのが「ゲームは1日1時間」です。「ゲームは1日1時間。外で遊ぼう元気良く。僕らの仕事はもちろん勉強。成績上がればゲームも楽しい。僕らは未来の社会人」という標語を子どもに向けて伝えようということになりました。

 下写真は、イベントの時に子どもに配っていた名刺です。当時、子どもたちの間で名刺をやり取りするのが流行っていたようで、イベントに行くと「名刺ちょうだい」と言われるので、この時イベントに行く社員はみんな名刺を持っていました。ただハドソンの社長が、「子どもたちに社長と言われたくない。子どもに役職は関係ないから、役職は入れるな」と言ったので役職は入っていません。また、文字をちょっとでも大きくしたいということで、5大標語のうち1つ(「僕らの仕事はもちろん勉強」の部分)は省いてます。会社としてということですので、当時のハドソンのマニュアルでも、「ゲームは1日1時間ぐらいでやめて、外に遊びに行こう」ということを書いていました。
“名人”という社会現象―高橋利幸氏、ファミコンブームを振返る
当時高橋氏が配っていた名刺


 私のイベントも、1986年ころからはスタイルが変わってきました。1985年のころは忙しくて説明する以外何も言えなかったのですが、このころから私が自由にできる時間を15分くらいもらいました。そこで、ドッジボールのルールをまとめた東正樹先生から教えてもらった「健康体操」という手の動きを、「ファミコン体操(関連リンク、動画)」としてイベントに来た子どもたちに10分ぐらいやらせていました。「どう子どもに(ファミコン体操を)させようか」ということですが、あの当時の子どもはファミコンに絡めると目の輝きが変わるんですね。「ファミコン上手くなるぞ」と言うと、みんなやってくれるんです。指の運動でファミコンが上手くなるわけないのですが、やるんですよ。これをやるだけで「おお、すげえ。名人、だから器用なんだ。あれやれば16連射できるのかな」となるわけです。

 あとは命令ゲームです。命令ゲームは言葉の遊びなのですが、「“命令”という言葉をつけたときには行動しなさい。“命令”という言葉が頭に付いていなかったらやっちゃダメ。例えば『命令、手を挙げて』と言ったら手を挙げるだけで、『降ろして』と言ったら降ろしてはいけない」。これを「反射神経がすごくなるよ」と言ってやるわけです。これをやると子どもたちは笑うんですね。一緒に来ていたお母さんたちも笑ってくれるし、「『(ファミコンって)健全だな』と思ってくれることがすごく良かったのではないか」と私は思っています。

実は17連射だった

 「16連射」というものが流行りましたが、実は1985年のキャラバンの時には16連射という言葉はありませんでした。1985年の9月か10月に「スターフォースのボーナスキャラをやっつけるのが名人は早いけど、どれくらいのスピードで弾を撃っているの?」という投書がコロコロさんの方にありまして、「調べてみようよ」ということになりました。ボーナスキャラはラリオスという名前なのですが、コアが白く光ってから合体するまでの1秒間に8発打つとボーナス得点が5万点入ります。しかし、光る前に撃ってしまうと、その分をプラスして撃たなければいけない。(光る前に)5発撃ってしまったら、13発撃たないといけないわけです。それを利用して連射速度を計ると、だいたい15~16発だったのです。コンピューター的に16は切りのいい数字なので、「16(連射)でいっちゃえ」と言ったのです。

 実際に測定したのは、映画「GAME KING 高橋名人VS毛利名人激突! 大決戦」の時です。私と毛利名人が戦っているシーンがありまして、映画は1秒間に24コマのフィルムからできているのですが、映画のADさんが一番連射が早い時の240コマを切り取って数えてくれたのです。数えてみると「(10秒間に)174発撃ってた」ということで実は17連射だったのですが、「いまさら17(連射)というのもなあ」と思って16(連射)のままにしています。

 最高記録ばかり言っていると、「(16連射を)やってくれ」と言われた時に困ります。100メートル走9秒98の記録を持っているカール・ルイスを体育館の運動場に呼んで、「さあ走ってもらいましょう」となったら、観客は9秒98を期待しますよね。でも、9秒98を出すためには2~3カ月かけて調整しないとできません。だから、この1発の差があったことで、とても楽になりました。「16(連射)でいいんだぞ」と。今は全然できませんけどね。この間測ったら、最高(10秒間で)132でした、もう50歳ですから。当時が26~27歳ですので、「やっぱり20代の肉体には勝てないな」という感じです。(連射方法として)私が“コスリ※”をやろうとすると、熱狂的なファンの方やうちの会社の数名は怒るんですね。「名人の“コスリ”なんか見たくない。 “ピアノ撃ち※※”、邪道です。“叩き”です、“叩き”以外はダメ」と言われると、もう16連射はできません。
※コスリ……ボタンの上に置いた指を左右に高速に動かす連打法。
※※ピアノ撃ち……人差し指と中指でボタンを交互に押す連打法。

 ちなみに1985~86年にトランジスタとICを使って、ヒマな時にハンダ付けで(ファミコンのコントローラーの)連射スイッチを作ったことがあります。するとそれを見た社長に持っていかれまして、また作ると今度は副社長が持っていき、次は専務が持っていきました。連射スイッチは会社で使うのではなく、家に持って帰って遊んでるんですね。そこで「これ売れるよね」ということで発売したのが、「ジョイカードマーク2」という連射機能付きコントローラーで、220万個以上は売れましたね。やっぱりみんな連射するのが嫌だったんでしょうね。この間、Wiiウェアで『スターソルジャーR』を出したのですが、テストプレイをデバッガー※がやるときに「連射スイッチを付けろ」とクレームが来ました。あの当時は肉体を鍛えることはすごいことなんだということで、連射速度を競っていたのですが、もう時代が違うのでしょう。
※デバッガー……ゲームを試しにプレイして、プログラムにミスがないか調べる人のこと。

 連射速度を測る機能も作りました。『迷宮組曲』を作った時に、メモリがちょっと余っていたらしく、「高橋さん、何か付けたいものある?」と聞かれたので、「今流行ってるんだから、連射測定器の機能を付けたら?」と言ったら実装されました。『迷宮組曲』で計れる連射速度は過去10秒間の平均値です。そのため連射をやめると、どんどん下がっていきます。ただ、それだと連射速度を測るためにテレビとファミコンを持って歩かないといけないので、持って歩ける何かが欲しいねということで作ったのが「シューティングウォッチ(シュウォッチ)」という黄色い時計です。

本当に面白いゲームは丸と四角だけでも面白い

 ブームはなかなか作ろうと思っても作れません。漫才師さんの世界で「お客さんが笑っている最中はツッコミやボケをやめたらダメだよ」というのがあるんです。「笑っている最中だともっと受ける、もっと笑いが大きくなる。それをずっと続けることができると大物になるんだ」ということらしいのです。「ファミコンブームもそうだな」と思います。これでもかこれでもかと商品を出したり、遊び方を提供していったりしたのが続いてブームとなったんだと感じてます。

 ただ私としては1つ、「失敗だったな」ということがあります。毎年全国キャラバンをやっていると、“キャラバン小僧”という追っかけさんが出てきました。彼らは、キャラバンが終わったら、翌年のキャラバンのためにアルバイトを始めて、お金を貯めるのです。50カ所以上をキャラバン隊と一緒に回るんです。電車を使って移動して、各地に友達を作って、その友達の家に泊まるんですね。そうするとホテル代がいらないから。そういう彼らってすごくゲームが上手いんですよ。点数も半端じゃないくらい取るんですね。東京大会だとほかにも上手い人がいるのですが、青森とか秋田、鳥取などの地方に行くと、その点数の差というのは歴然なんです。すると「彼らが乗り込んでいく地域で、その地域からの入賞者が1人もいない」という出来事が起こり始めたのです。そのためプロチームと地域を分けて、「どこかの会場で優勝した人はほかの会場では入賞できません、こっちの方に参加してください」というルールを作ったのです。


 PCエンジンが出て、セガサターンが出て、ドリキャス(ドリームキャスト)が出て、プレステが出て、PS2が出てと技術の革新がどんどん進んでいきます。メーカーとしてはピラミッドの上の部分を狙うんですね。「頂点を狙えば、下は付いてきてくれるだろう」と思っているのです。分かりやすく言うと、例えば小学校3年生向けに作ると、小学校3年生より上の人は絶対買ってくれません。対象年齢が低い物って、手を出さないですよね。だから中学校1~2年生向けのものを作っておくのです、そうすると小学生も手を出してくれるのです、上にあこがれるから。それはハードだけではなく、ソフトでもそうです。

 その典型的な例がシューティングゲームです。『スターフォース』『スターソルジャー』の時にはそんなに難しくはなかったのですが、今のシューティングは(上のプレイヤーに合わせたために)弾が散弾銃のごとく降ってきて、シューティングゲームというジャンルなのに避けゲー(ム)になっているのです。「撃つゲームなのに、なぜ避けなきゃいけないの?」と思うぐらいです。「変な方向に来ている」と私は思っています。あの弾のあられ状態を一般のユーザーが見た時に何と思うか。「俺には無理だ」と当然なりますよね。そうなると、やはり手を出してくれません。だから今、シューティングゲームはダメなんです。できればこういうゲームのジャンルをつぶすようなことはしたくないんですが。でも、今こうなってしまったのは仕方がないので、(ゲームクリエイターの人たちは)これを肝に銘じて、ブームに乗らないゲーム、できるだけ楽しいゲームを目指してほしい。私は会社員なので売り上げが上がってくれないと困るのですが、「売れることだけを考えて、その1つのジャンルをつぶすというようなことまではやってほしくないな」というのが今、過去をずっと冷静に振り返ってみて思うことです。

 見た目のド派手さは、ある程度は必要だと思います。紙芝居より、テレビですよね。紙芝居も時々見るならいいですよ。でも時々見て「いいな」と思うようなものは、やはり売れないんです。時々たしなむ程度になりますよね。でも、ド派手なものばかりに走ってしまうと、「本当に面白いというものからは、かけ離れていくのではないか」と私は思います。ヒットしたゲームはそのベールを全部外していくと、絶対コアの部分で面白い部分が残るんです。ラインフレームであっても、丸と四角だけでも面白いはずなんですよ。「丸と四角がマネキンにならないと面白くない」というのは、「ゲームとしては中途半端だからではないか」と思っています。講演を依頼されてからの数週間、過去を振り返っている時にそうしたことを思い返してしまいました。

 ハドソンに定年があるとしたら、あと10年くらいで私は退職します。(ただ)今出ていってもあまり関係ない、私の仕事は宣伝であって、私が(ゲームを)作っているわけではありませんから。でも、30代くらいまでの方は、これからのゲーム業界を作っていくわけです。「自分の考えたこと、何かでインパクトを与えたい、何かで驚かせたい、何かでビックリさせたい」、それは分かりますが、今一度遊びというのに1回戻ってもらいたい。遊びといってもパチンコなどではなく、昔からある日本の伝統芸、伝承遊びとかに戻って、「何が笑いを生み出すのか」「何が楽しいというものにつながるのか」ということを振り返ってもらって、それをテレビゲームに役立ててもらうのがいいのではないかと思います。そうすることで、もう1回あの1986年のようなブームが起きるのではないかと思います。

小学生はゲームより先に、基礎体力や基礎の知恵を付けた方がいい

 日本デジタルゲーム学会の公開講座ということで、現役のゲームクリエイターやテレビディレクターも多く聴衆として参加していた。講演後の質疑応答では、ファミコンブーム当時のことから現在のゲーム業界のことまで活発な意見交換が行われた。


――イベントなどで忙しい生活を送っていて、体力は持ちましたか? どこかで倒れたり、連射力が落ちてしまったりということはありましたか?

高橋 連射力は落ちましたね。全然練習できませんでしたから。ただ、当時ハドソンは9時出社だったのですが、10時までは予定を入れないようにしてもらいました。その9時~10時にゲームに触れる時間を作っていました。

 一番忙しい時には9時に会社に行くと、10時くらいから取材が入ります。30分に1本のペースで16時くらいまでです。それから企画書とかをまとめて、18時くらいに小学館に行って、「コロコロコミック」「小学一年生」「小学二年生」「小学三年生」「小学四年生」「小学五年生」「小学六年生」「スピリッツ」「サンデー」と打ち合わせをして、終わるのが次の日の1時くらいです。コロコロ(編集部)に戻ると、担当さんが「(飲みに)行く?」と言うので、「行っちゃおうか」ということで飲みに行って飲み終わるのが7時くらいです。出版社の方はお昼過ぎに出社すればいいので、朝早くまで飲んでるんですよ。7時まで飲んで、家に帰って、シャワー浴びて、そのまま出社というのが3日くらい続いたことがありました。

 また、僕の睡眠時間が1日2時間という時が3カ月間続いた時があったんですね。「もう許してくれ」ということで3日間休みをもらったのです。3日間休みをもらったので、「明日はお昼ぐらいに起きてディズニーランドに行って、明後日は映画行って」とスケジュールを組んだのです。その日は21時に家に帰って布団に寝転がって、まばたきをしたんです。目をつぶったわけではないので、寝たわけではありません。まばたきしてパチっと目を開けた瞬間、猛烈にトイレに行きたいんです。横になるまではトイレ一切行きたくなかったのにです。トイレ行くと横にドアがあって、そこを何気なく見ると新聞が入っているんです。外を見たら暗い、まばたきの瞬間に24時間経ってたんです。「時間を返せ」と思いました。

 「じゃあ、予定を変えないといけない」と思ったのですが、もう21時で何もできないのでもう一度寝ました。そして、起きたらまた(翌日の)21時だったのです。それで2日間なくなって、「3日目はさすがにそれはないだろう」と思ったら、21時ではなかったのですが18時でした。「もう何もできないから、飲ませてもらおう」と思って、コロコロに行って「すいません、こうこうこういう話で、2日半棒に振っちゃったんです。全然記憶にないんです」と言ったら、「そうか、それはつまんないね。よし、今日は騒ごう」ということで歌舞伎町に行って8時まで騒いだ。シャワーを浴びて会社に行ったのですが、単なる酔っ払いでした。会社のみんなに「お前、3日間何やってたんだ」と言われましたね。そんな生活をしていても体を壊さなかったのは、子どもの時に基礎体力が付いていたからだと思います。

――ゲームは1日1時間やるだけで楽しめるものなのでしょうか?

高橋 答えづらい質問なのですが、ぶっちゃけて言うと2~3時間やらないと楽しめないと思います。「ゲームは1日1時間」というのは子ども向きの話で、大人はどうでもいいんです。自分で管理できるでしょうから。24時間家にこもってゲームしても、それは自己責任ですから。

 私が子どもたちに向かって「ゲームは1日1時間」と言ったのは、「1時間でかっちりやめなさい」ということではなく、「みんながこれから覚えなきゃいけない遊びはもっといっぱいあるのに、テレビゲームしか遊んでなくていいの?」という点が重要なんです。例えば小学生だと、かくれんぼや鬼ごっことかいう遊びがあるわけです。

 ファミコンが出るまで、テレビはこっちが見るだけの媒体でした。それがテレビゲームをつなぐと、中のキャラクターを自分で操作できるんですね。「これが本当にヒットしたら、子どもたちが外に行かなくなる」と思ってしまった。子どもたちが成長する過程で、鬼ごっこで外を走ったり、かくれんぼでどこかに隠れたりと、いろんな遊びで知恵を付けてほしいのですが、そういう時期にテレビゲームだけというのは良くないと思うのです。例えば20歳になった時に「君の小学生時代はどうだった?」と尋ねられて、「スーパーマリオ!」「ボンバーマン!」だとやはり寂しいわけです。そういうことも含めての「ゲームは1 日1時間」なので、自分で管理ができるのなら2時間でもいいと思います。

 小学生はゲームより先に、基礎体力や基礎の知恵を付けた方がいいと思います。先ほど「釧路か根室からお母さんがクルマを運転して子どもをキャラバンに連れてこられた」という話をしましたが、そのお母さんは子どもに100本ぐらいのゲームカセットを買い与えていたんですね。「ゲームをすることでプログラマーの仕事に興味を持ってくれればいいなと思って」ということでした。その時私は「ゲームをやっていても、プログラマーになれるかどうかは分からない。そんなにお金があるのなら、パソコンを買ってあげたほうがいいんじゃないか」と話しました。ゲームをやってプログラムに興味を持たせるという道筋もありますが、まずはプログラムをちょっと触ってもらって、ドットが動く楽しみなどからプログラムに興味を持ってもらった方がいいのではないかと私は思うのです。「何か頑張れば面白いことができそうだなあ」という部分をくすぐってやることが大事だと思います。

――「ゲームは1日1時間」と言って問題になりながらも、最終的にはそれがハドソンの方針になったということですが、なぜそういう流れになったのですか?

高橋 ファミコンソフトの販売本数が『ロードランナー』が100万本以上、『ナッツ&ミルク』が40万本、『バンゲリングベイ』が50~60万本、『チャンピオンシップロードランナー』が40万本、『スターフォース』が80~90万本でした。経営者としては「この売り上げがずっと続いてくれるといい」と思いますよね。ずっと続いてもらうためには、このファミコンというブームが一過性だと困ってしまうわけです。「ブームをどうやって長続きさせようか」と考えると、「ゲームが健全なものだよ」と世間に認めさせることが大事だと思うのです。私は博多でイベントをしていて、役員会にいなかったので推測でしかないのですが、そういうことだと思います。

――ゲーム業界全体でもそういう風潮だったのでしょうか?

高橋 (「ゲームは1日1時間」発言の後ですが)パソコンゲームでピンク系に走りはじめたメーカーさんがいまして、1986年に国会で問題になったんです※。その会社は国会で取り上げられた次の月には方針転換して健全な方に戻ったのですが、国会で取り上げられてしまうような内容はまずいとみんな思ってたのではないでしょうか。
※問題となったのはデービーソフトのマカダミアソフトブランドから発売された『177』。1986年10月21日の衆議院第107回国会決算委員会で草川昭三氏が有害ソフトとして取り上げた。

 少なくともハドソンは、ゲーム草創期から健全性を意識していました。だからハドソンでは「人が人を殺す」というゲームはないんです。『高橋名人の冒険島』のパッケージで悪役が胸の大きな水着姿の女性を抱えて誘拐しようとしている絵を使おうしたのですが、それを社長が見て「これはお母さんから、いやらしいと思われるのではないか」ということでリボンを付けて隠しました。「これぐらい大丈夫でしょう」とみんな言っていたのですが、「絶対ダメだ」と。だからハドソンは相当気を遣ってましたね。全社的にと言われると分かりませんが、そういうゲームは少なかったと思うので、やはりみんなある程度は健全性を考えていたとは思います。

――お話を聴いていて、ハドソンという会社の空気の熱さが印象深かったのですが、具体的にどのように物事を決めていったのでしょうか?

高橋 「会議室で決めた話は成功しない。飲み屋で決めた話は成功する」というのがありました。キャラバンも小学館さんとの企画もそうです。遊んでいる雰囲気の中で、ざっくばらんに言っている意見をみんなが聞けるような姿勢でないと、面白いことというのは発展的にならないと思います。会議室でいくら頭の中で知恵を絞ったところで、それはひねった意見なんですよ。それに会議室だと、(本来)ポシャる意見を何とか持ち上げようという人もいますからね。

 みんなが遊んでいるような雰囲気の中で決めるのが一番だと私は思いますし、当時のハドソンはそうだったと思います。ただ、それを第三者的に見ている人がいて、時々はブレーキかけてくれないと大変なことになります。実際うちもそうなりました。この間やっと赤字が消えましたが、大変だったんですよ、赤字を返すのは。

名人が名人を紹介する変な番組をやった

――ファミコンブームの時、高橋名人は“ファミコン界のスター”というイメージで、“ハドソンの高橋名人”というイメージはなかったと記憶しているのですが、そういう戦略をとられていたのでしょうか?

高橋 「私とハドソンがイコールでつながっていない」という認識を私は持っていませんでした。テレビやイベントで私があいさつする時に「ハドソンの高橋です」と言っていましたから。私がテレビでやるゲームも、ハドソンのゲームだけでした。

 当時ほかの会社も「“名人”というのがこのゲームを面白いと言ったら、すっげえ売れるぞ」ということで、各社が40人くらい名人を出していました。東京ゲームショウの前身に、CSG(コンシューマソフトウェアグループ)という各ソフトハウスが少額ずつ出し合って行ったイベントがありました。それを高橋名人の面白ランドで取材した時に、私がMCとなって各メーカーさんのブースに行ったのですが、「さあそれではこのゲームを紹介してくれるのは、●● という会社の●●名人です!」というのを全社でやりましたからね。名人が「●●名人です!」と紹介する変な番組を30分やりました。

 逆に言うとそう思われていたのは、(他メーカーの名人たちと差別化できたので)良かったんでしょうね。ただ、本当に戦略ではないです。昔のビデオを持っている方は巻き戻して見ていただくと、「ハドソンの高橋です」と必ず言っているはずです。ファミコンしているところしか、みんな覚えてないんですよね、個人のことはどうでもいいのでしょう。

――ありがとうございます。でもそれってよく言われませんか?

高橋 言われます。特にこの3~4年で「名人ってハドソンの社員だったの?」と言われるのが多くなりました。逆に「その頃気付けよ」と(思うのですが)。

――先ほど東京新聞の方でスーパーヒーローと出ていましたが、“高橋名人”という社会現象は高橋さんという優れた個人がいたから生みだせたのか、それとも時代の流れによるもので、高橋さんがいなくても別の人が代わりに起こせていたのか、というところを謙遜されないお言葉でうかがいたいです。

高橋 私からは非常に言いづらいことですが、広報さんや他社の宣伝をしていた人、経営者の方からは「名人が高橋さんで良かった」とよく言われます。それまでのパソコンの世界では、「(ゲームをやる人は)暗い部屋に1人こもって遊んでいる」というイメージが強かったんですね。当然、見た目は青白くて、ひょろっとしているというイメージになります。そこにドラえもんのジャイアンみたいなやつが出てきたわけです。お山の大将的な感じで「ほら、みんな外で遊べー!」とか「ゲームは1日1時間」とか言っているわけです。だから「ゲームは健全だ」というイメージが世間に浸透したのだということです。これは私の言葉ではないですよ。

 ハドソンには宣伝担当がもう1人いて、たまたま私がファミコン担当でもう1人がパソコン担当になったのですが、これがもし逆だったらおそらく失敗していたと私は思います。人前である程度喋れないといけないし、それからゲームなので子どもに負けちゃダメなんです。子どもはすごく残酷ですから、負けるともうダメなんです。

 なぜハドソンで私が名人になったかというと、一番簡潔な答えは「お金がなかったから」です。今、宣伝という仕事をされている方が「何かをアピールする人を作りたい」と思ったら、タレントさんを年間契約でお願いしますよね。でも、タレントさんの年間契約金を払って、なおかつ言ってもらいたいことを覚えてもらって、ゲームのテクニックを覚えてもらってとやるほどハドソンにはお金がなかったのです。だから、給料以上払わなくていい宣伝部の社員、ということで私に来たと思います。まあ、謙遜して言うわけではないですが、私だから(社会現象になったの)ではないかと思います(会場拍手)

――ゲームを作る登竜門としての「ベーマガ※」、ゲームをプレイする人たちの先導者役としてのインストラクター、つまり「名人」という2つの要素が日本のゲーム業界では特徴的だと思います。そのうちのインストラクターという存在が今のゲーム業界には欠けているように感じるのですが、それについてどうお考えですか?
※ベーマガ……『マイコンBASICマガジン』の略称。プログラミング入門誌で、創刊当初から読者投稿のBASICプログラムを誌面で公開するスタイルを採用していた。2003年に休刊。

高橋 インストラクター的な立場の存在は、私も必要だと思っています。メーカーさんのCMを見ていると、「有名なタレントさんを使って、先導役にしようとしているのではないか」とも思います。ただ、今は「この有名な人を使っていれば、みんなが注目してくれるんじゃないか」という意味合いが強いようですが。しかし、インストラクターのような人を使う戦略がこの数年成功していないかというと、『脳トレ』のように成功している例がありますよね。

――『ムシキング』もそうだと思うのですが、まずブームが沸き起こってそこから動かされてインストラクターが出てきてという感じで、まずインストラクターありきという例はないと思うのです。

高橋 例えば今、雑誌やテレビで私が「高橋名人です」と出て何かを紹介しても、そこだけで騒いでいるだけではブームにならないと思います。まずブームを作る大前提として、ユーザーの中でクチコミでいいので、ある程度広まっていなければいけないんです。さざなみが立っている状態でなければいけなくて、何もない水面に石をポトッと投げても難しい。波が立っていれば、宣伝の力やキャラクターを使って大きくできると思います。ただ、このごろの日本人は昔と違って何事についても基本的に他人事になってしまっているので、インストラクターは必要なのですが出てこられないのではないかと思います。

――名人が今はまられているゲームを教えてください。

高橋 iPhone用の『Field Runners』と『Subway』というパズルゲームにはまっています。後はこのごろ通勤中にゲームをすることが多いので、ニンテンドーDSiで『ドクターマリオ』をやったりしています。このごろ「ゲームは1日30分」かもしれない。

――コンシューマ(家庭用ゲーム機)ではありますか?

高橋 コンシューマですか……(8秒沈黙)、バンダイナムコさんが出している戦闘機ものが好きです。あれだけはシリーズで持っていて、操縦桿のコントローラもすべてそろっています。
ah_aifon.jpg iPhoneを持つ高橋氏
名刺に書かれた肩書きは?

 プログラムが終わると、高橋氏の前には名刺交換のための長い列ができた。筆者も名刺交換をすると、高橋氏の名刺にはやはりあの肩書きが記されていた……。
“名人”という社会現象―高橋利幸氏、ファミコンブームを振返る
高橋氏の名刺。表には「名人」、裏には「Meijin(Game Master)」と記されている


Business Media 誠



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2009年03月21日 Posted byかるの at 17:17 │Comments(0)産業史

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“名人”という社会現象―高橋利幸氏、ファミコンブームを振返る
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