スポンサーサイト


上記の広告は30日以上更新(記事投稿)のないブログに表示されています。  

Posted by スポンサーサイト at

織田信長像:永徳の肖像画、秀吉が地味に書き直させる?



 桃山時代の天才絵師・狩野永徳(1543~90)が描いた肖像画「織田信長像」(京都・大徳寺蔵)が、当初は左右色違いの小袖を身につけた華やかな姿だったことが分かった。派手好みの信長らしい肖像画が地味に描き直されたのは、豊臣秀吉の横やりだったのではとの見方もある。

 縦114センチ、横51センチの絹地に顔料で描かれている。08~09年の修復に伴う京都国立博物館の調査で、絵の裏側から「裏彩色(うらざいしき)」が見つかった。表面の色に深みを出すための技法で、表面と同系統の色で彩色するのが一般的。

 表の肖像は、小袖が薄藍色、肩衣とはかまは薄茶色で、刀は脇差しのみという落ち着いた装いなのに対し、裏彩色は、小袖の左右が薄茶ともえぎ色の「片身替わり」と呼ばれる当時流行のデザインで、大刀・短刀の2本を身につけていた。口ひげの端が上向きに描かれた跡も確認した。当初は裏彩色に近い肖像が表にも描かれていたと見られる。

 なぜ描き直しが行われたか。同博物館の山本英男美術室長は、軸木から見つかった墨書の日付から、肖像画が信長の三回忌(1584年6月2日)法要に合わせたものと推測できることに着目する。

 一周忌や七回忌の法要は豊臣秀吉が施主を務めたが、三回忌のころは合戦中だったため、信長の側室「お鍋の方」が施主だった可能性が高い。「お鍋の方と永徳の協議でいったん完成したが、実質的な施主である秀吉がクレームを付けたのではないか。男のやっかみで地味に抑えさせたのか、それとも、派手すぎると風格に欠けると考えたか。理由はさまざまに想像できる」と話している。【野宮珠里】


[ 2011年6月7日 (毎日新聞)
  


2011年06月14日 Posted by かるの at 21:17Comments(0)歴史史料

1万年前に「緑の革命」…丈低いイネ選んで栽培



 約1万年前に野生の稲を栽培種にする時、古代の人たちは草丈の低いものを選んで育てたことが、名古屋大や神戸大などの研究でわかった。

 1960年代の「緑の革命」は、草丈の低さに着目して栽培種を選んだことが収量を飛躍的に増やす要因だったが、古代の人たちも、形質の遺伝する仕組みが解明されるずっと前から、経験的に遺伝子の違いを上手に活用したらしい。米科学アカデミー紀要電子版に7日発表する。

 研究チームは、稲の草丈を調整する遺伝子「SD1」に注目。アジアで自生する野生種と栽培種の一種「ジャポニカ米」の遺伝子の違いを調べた。SD1の働きが抑えられると、草丈が短くなり、風で倒れにくく収量が増える。ジャポニカ米では、調べた20品種すべてが活性の弱いSD1を共通して持っていたが、42品種の野生種ではこのタイプのSD1を持っているものはなかった。野生種は、様々なタイプのSD1を持っていたが、ジャポニカ米では、この遺伝子の多様性が極めて少なく、栽培化の過程で、背の低いタイプを選抜したことが裏付けられた。

[ 2011年6月7日(読売新聞)
  


2011年06月14日 Posted by かるの at 09:51Comments(0)先史時代