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伊達政宗が口利き依頼の手紙 長男領地、家康側近に
伊達政宗が徳川家康の側近に送った手紙=高知県南国市の県立歴史民俗資料館

仙台藩の初代藩主伊達政宗が大坂冬の陣(1614年)を前に、徳川家康の側近に宛てて、長男秀宗に領地を与えるよう“口利き”を依頼する手紙が16日までに高知県で、見つかった。仙台市博物館の坂田美咲学芸員は
「自らの影響力が強まる戦の直前に頼むところに、政宗のしたたかな一面がうかがえる」
と評価している。手紙は、縦31・5センチ、横49・5センチの長方形で、掛け軸に貼り付けて保存され、花押や署名も残る。
[ 2011年6月16日 (共同通信)
2011年06月27日 Posted by かるの at 14:18 │Comments(0) │歴史史料
水都の夏に船渡御ラッシュ…御霊神社、140年ぶり復活
江戸時代、武士による勇壮な神事として知られた御霊(ごりょう)神社(大阪市中央区)の船渡御(ふなとぎょ)が7月15日、約140年ぶりに復活する。明治維新による武士階級の廃止で船渡御は消滅していたが、NPOや地元有志などの協力で復活が実現した。江戸期の最盛期には約5つの神社が船渡御を繰り広げていたという水都大阪に、今夏は大阪天満宮・天神祭(7月25日)、難波八阪神社(同13日)の3神社の船渡御が彩りをそえる。(袖中陽一)
御霊神社の船渡御は安永9(1780)年に始まり、明治維新で中断されるまで約90年続いた。江戸時代、500人にも及ぶ武士らが甲冑(かっちゅう)姿で約20隻の船に乗り込んだ。その堂々とした威容は商都としては珍しく、夏の風物詩として親しまれたという。
しかし、明治維新で氏子だった武士階級がなくなり船渡御も中断。武者行列だけは地元の氏子が存続させてきたが、平成7年の阪神大震災を機に武者行列も取りやめになった。
今回、NPO「大阪城甲冑隊」の協力と地元有志らの資金援助があり、復活が実現した。御霊神社の園文夫宮司は「江戸時代の規模には及ばないが、大阪が『水の都』であることをアピールするとともに、震災や原発の問題で疲弊する東北に元気を届けたい」と語る。
船渡御は、江戸時代後期には大阪の淀川水系全体で5つほどの神社で行われていたとされ、隆盛を極めていた。
大阪天満宮では戦時中の中断などを経て昭和24年、難波八阪神社では平成13年にそれぞれ船渡御を復活。今では夏の風物詩として定着している。
当日は午後3時、約40人の鎧(よろい)武者役の市民らが御霊神社を出発、淀屋橋付近まで練り歩き、3隻の船に乗り込んで堂島川、道頓堀川などを経て出発地まで戻るルートを約1時間半かけてめぐる。
船渡御に詳しい大阪天満宮文化研究所研究員で大阪大学招聘(しょうへい)教授の高島幸次さんは、「船渡御は市中に水路が発達した大阪ならではの神事。船渡御といえば大阪天満宮の専売特許と思われてきたが、他の神社も加わることで『水の都』としての大阪の魅力がさらに増すだろう」と話している。
【用語解説】船渡御 御輿(みこし)などを船に乗せて巡航する神事のひとつ。氏子が住む地域をめぐり、地域の様子をご神霊に見ていただくのが目的。大阪は特に古くから市中で水運が発達し、大行列でもスムーズに動けるため盛んになったともいわれる。
[ 2011年6月22日 (産経新聞)
2011年06月26日 Posted by かるの at 14:16 │Comments(0) │民俗行事
群馬県みなかみ町・旧戸部家住宅
国指定重要文化財 旧戸部家住宅
この建物は利根郡川場村にあり、群馬県北部の農家建築として平面構成と構造の特異性が認められ、国の重要文化財に指定されたもので、建築年代は明らかではないが、18世紀前半と推定される。
建築後数々の増改築が加えられ、今日まで維持されてきたが、旧所有者が新居建築のためこの建物の今後の保存管理上、水上町が買い上げて移築保存する事になったもので、昭和48年9月より49年8月まで12カ月を要し、解体移築を行い建物は建設当初の姿に復元されたものである。
建物の主な特徴
1:平面構成は土間と床に二等分された、三間取りの平面構成であり、開閉個所が少なく家内が暗い。
2:全般的に壁、袖壁が多く出入り口は全て片引き板戸で窓は無い。
3:柱の立つ密度がたかく、全部材は釘削りである。
4:一般に天井がなく小屋裏を化粧とする。
5:枚首組作りであり、構造材には釘を使用していない。
6:釘を使用する個所は床、壁板、天井板に和釘を使用している。
7:クレグシ(芝棟)は群馬県北部独特のものであり、他に例をみない。
8:畳の間が少なく、「でえどこ」の炉は三方炉であり馬屋を二室設けている。
9:「トボ」というところを設け、客人と家族の出入口を違えている。
10:江戸初期の農家建築は全国的に数少なくこの戸部家住宅も群馬県を代表する一棟である。